あの読者を殺せ
石富かが
第1話 図書室の愚者は
「こんな世界一度壊れてしまえばいいんだ」
そう思い始めたのは世界的にゆとり教育を実施し始めて10年後、2099年の夏。僕が小学4年年生の頃だった。病室で亡き母のことを思い、僕はそう父さんに言ったのだ。
「悠人……父さんだってな、悲しいんだ」
「父さんは何もしなかったじゃないか!」
差し伸べられた大人の大きな手。当時の僕はそれに恐怖した。
ただただ怖かった。この場をどうにか鎮めたいだけの嫌らしい手に見えたのだ。父さんの周りを気遣うような視線が僕の考察を裏付けていた。
「知らないものを知りたいだけなんだ………母さんも僕も。空はなんで青いのか、ゾウさんの鼻はなんで長いのか、恐竜は何でいなくなっちゃったのか、僕は知りたかっただけなんだ! 何にどうして母さんは死ななくちゃいけなかったんだよ!」
泣いた。人目も気にせず子供らしく。
それは僕が産まれて父さんに見せた始めての涙だった。そして最後の涙でもあった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『現在、北小松地区ではレベル3の避難警報が発令されています。隣接区域であるここ小松中央区北区正門付近にお住いの方は速やかに近くの図書館員の指示に従い知的情報物を処分した後に避難してください。繰り返します……』
窓際から微かに見えるコンクリート色の監視塔。そこから突然発せられた緊急放送は、夏の五月蝿いセミの鳴き声をかき消すように殺風景な田舎町に響き渡った。
「またかよ。帰りどうすっかなー」
「裏道使えば?」
「無理無理、完全撲滅まで封鎖されてますって、絶対」
「にしてもここ最近本当に多いよね。今朝のニュースでは確実に数が減ってるって聞いたのに」
「それ関西とかの重要地区の話じゃね? お偉いさんは北陸なんて二の次なんだろーぜ」
「えーわたし、襲われたらどうしよーう」
「お前みたいなバカが襲われるわけねーだろ」
ガヤガヤと賑やかな夏休み初日を明日に控えた下校時、その放送が更に校内の生徒たちの話の種となった。外と大して変わらない騒がしさに僕は思わずノートに走らせていたペンを滑らせ、気付けばノートには奇怪な文字が生み出されていた。
「これで今月3回目だぜ?」
僕の前の席から繰り出されたため息は僕の机をガタンと揺らす。
「まあ、仕方ないよタク。それより机揺らさないで」
「え? ああそっか、悠人は勉強中か」
「タクは北区だっけ」
「ああ、本当に困ったもんだぜ。これじゃあ明日の帰還式も心配になってくるなあ」
「帰還式?」
「前から言ってただろ? 夏休みの初日に岡山南方前線にいた英雄が金沢図書館に帰ってくるって」
「ああ、そっか、ライブラリアンの」
「お前……大丈夫かよ。ライブラリアン志望なのにそんなことも忘れてていいのか? 頭の中に文字ばっかり詰め込んでも図書館に就職なんて出来ねーぞ」
タクは呆れた顔で教科書と睨めっこしていた僕の顔を覗き込むようにして言った。
「最近、色々あってさ……親にも帰還式行くって話、出来てないんだ」
ペンを置き、もう下校時間なのを改めて確認した僕は椅子の背もたれにかけていたリュックを机に出した。
「確かにお前のとこの親って未だにライブラリアンとかに対して理解ないよなー。でもまあ勉強するのを許可してくれるんだから俺の親よりはマシか」
そう言って机に散らばっている漫画本などをカバンに入れるタクを見ながら、僕も合わせて勉強道具をせっせと片付ける。
「にしてもすごいよなー悠人は」
「何が?」
「勉強だよ勉強! この辺の底辺地区でまともに勉強できるのお前だけだぜ? 才能だよ」
下校途中の廊下。様々な生徒が通る中でタクは僕の肩を叩きながら廊下で賑やかに駄弁る女子グループを押しのけた。
「そんな……まだまだだよ。学習特区の人たちなんかと比べたら」
「そりゃ一流地区と比べたらそうかもしれねーけどよ。学習特区以外からライブラリアンになったとなれば注目の的だろ?」
「まあ、うん」
「そうなりゃ、その親友として俺がテレビに出れんじゃん? そしたらさあの英雄の岬美玲ちゃんにも生で会えたりしたりしてさ!」
「そんな話だろうと思ったよ……」
タクが妙に僕を褒めるからなんだろうと思ったけれど、予想の範疇というかいつも通りで安心した。
この前も、裏商会で見つけた漫画雑誌のグラビアと呼ばれる写真をせると餌を見せられた犬のように食いついていた。
まあ、確かにあれはすごかったな。
「おーい有田くん! やっと見つけたよ。話があるからちょっといいか」
僕がタクとの何気ない会話をしつつ廊下を歩いていると、後ろから僕を呼ぶ先生の声が聞こえた。
振り返れば分厚いメガネに薄い白髪を生やした先生はこちらに向かって大きく手を振っている。
「悪いタク。先に行っててくれ」
「しゃーない分かったよ。明日の約束忘れんなよ?」
「ああ、分かってる。約束だ」
僕らはお互いの拳と拳をぶつけ合いながらその場を後にした。
「先生、話ってなんですか」
職員室前、生徒は用事がないからかさっきの賑やかな廊下が嘘かのようにひどく静まり返っていた。
「有田くん前々から図書室を一度でいいから見て見たいって言っていただろう? その話を校長に直接して見たらね。出たんだ! 許可が」
僕の手をがっしりと掴み、掴んだと思えばそのまま万歳をする先生。
「ほ、本当ですか!」
「でも、どうしてこんなに急になんですか?」
この先侵入禁止と書かれた電子テープを跨ぎ、頑丈な鉄板が打ち込まれた廊下に差し掛かった時、僕は照明が点々とする中不気味に映る先生の顔を見た。
「前々から校長には話していたんだけどね……何せこのご時世だ。早々許可なんて降りるもんじゃないし、学習特区外の図書室が開かれるなんて教育委員会もだいぶ悩んだらしいよ」
「そんなに大変なことなんですか……」
「いやいやいや! そんなことないさ、君はこの地区の希望の星だからね。みんな期待しているんだよ」
不気味に照らされた照明は分厚いメガネをキラリと光らせた。先生の絶え間ない努力の成果なのだろう。僕の知る限りでは学習特区に指定されていない地区の図書室は全て永久的に封鎖されて、確か図書館の許可、つまりライブラリアンの許可が降りなければ開けることすらままならないはずだ。
「さあ、ここが図書室だ」
先生が足を止め、僕は先生の刺した指を目で追った。
「すごい……」
鋼鉄。一言で表すのならばこれほど的確な言葉はない。窓があったであろう場所は何重にも鉄板が重なり合い鉄のミルフィーユとなっていた。ドア部分も何重にもロックがかかっており、簡易的だが目的である図書の持ち出しや奴らの餌場になることもないだろう。
「昔はこんなんじゃ無かったんだけどねえ」
そう言ってため息をつきながら先生は手に持ったいくつもの鍵でドアのロックを解除していく。
「あれもこれも全部、毒者のせいさ。我々の大事な本を貪り食って、それでも飽き足らず人の中身まで食べて増幅する。忌々しいよ。本当に」
ガコンとドアが鈍い音を鳴らす。その音に先生の思いというのが詰まっているように僕は思えた。
ある日突然現れた毒者と呼ばれる生物。形は様々で、それはまるで本が大好きでたまらない読者のように食い漁り、そして作者の人格を攻撃してしまうよう人を積極的に攻撃し、脳にある情報を食べつくしてしまう凶暴性から当時のネットと呼ばれる場所で言われたのが毒者の起源と言われている。
諸説あるらしいが、日本ネット史という本で読んだ中で特に面白かったのを覚えている。
「さあ……ここが、図書室だ!」
「すごい、ここが!」
一歩踏み入れるとそこは夢のような世界だった。本棚にはぎっしりと敷き詰められた本が並び、本の臭いが僕を包み込んだ。
「これでもまだ少ない方さ、あそこの棚なんてスカスカだろう。昔だったら地方の学校でもこの倍はあったさ……って聞いちゃいないか」
先生ははははと笑いながら本棚に食いついた僕を、遊園地ではしゃぐような子供を見るような目で笑った。
「すごい……夏目漱石もアガサクリスティーもある。おっと、これは」
周りを見渡せば有名小説から図鑑やエッセイ本まで、数は少なかったが僕にとっては多すぎる程だった。
そして少し目をずらして見れば少し過激な表紙のライトノベルがずらりと並んでいた。
これをタクが見たら口から手が出るほど欲しがるだろうな……。僕は喜ぶタクの顔を想像して思わず目を細めてしまう。
「校長と話したんだが、一冊だけなら良いそうだよ」
「本当ですか?!」
僕は様々な本を手に取った。一冊手に取りまた一冊。どれも面白そうでとても目を惹くタイトルや内容だったが、僕の中ではもう貸し出す本は決まっていた。
僕はとある思い出の本を思い出しながら、また一冊と手に取りながら探し求めた。
「そういえば……有田くん。進路の方は親御さんとうまく行ってるのかい?」
「それは……」
「やはり難しいかい。ライブラリアンになるという話は」
「父には何度も話をしているんですけど、聞く耳を持ってくれなくて」
「そうかい……私は素晴らしい夢だと思うよ。毒者から本や市民を守るライブラリアンという職業は。学習特区のエリート以外がなるというなら尚更さ。なにせ私たちの生活の基盤を作ってくれる人達だからね。南方前線や北方前線だってライブラリアンの方達が戦っているから今があるんだ」
「そうなんですけど、まだ昔のことを引きずっているみたいで」
「ああそうか……まあ、それは無理もないか。あんなことがあれば……」
先生はそういうと貸し出しシステムが入ったパソコンという装置の前に深く腰掛けた。
「あ、あった。これだ」
日本では馴染みのない名前の作者が並ぶ本棚。僕はそこにあった一冊の本を手に取った。
罪と罰下巻、著者ドストエフスキー。
「罪と罰か、でも上巻はいいのかい?」
「はい、だいぶ昔に読みましたから」
「ははは、流石有田くんだ」
なるほどと手を叩き、先生は重いドアを引いた。
「もう帰るんですか?」
「そんなに開けておくわけにはいかないからね。私はこの後ここで仕事があるから、有田くんは先に帰ってくれないか。申し訳ないね」
「そう、なんですか」
僕は借りた本をカバンに押し込み、そう行って催促する先生を後ろに廊下へと出た。
「応援してるよ。君には才能がある。3年間担任をした私がいうんだ。必ずライブラリアンになる」
「ありがとうございます。先生」
セミの鳴き声が聞こえた。少しうざったらしく感じるそれは僕の背中を押すような言葉を言っているようだった。ただ、僕はいつも通り深く受け止めずにいた。
だって——誰も僕をみていないのだから。
『現在の時刻17時30分。外出制限まで残り30分を切りました。現在の状況は——』
帰り道に定時報告が街を駆け抜けた。帰宅途中の重い足が更に重くなる。繁華街を抜け、薄暗い工場地帯とは器物処理場を抜けた先に僕の家がある。学校からの長い道のりを頑張って歩いても、自宅の玄関扉は固く、まるで図書室のように頑丈でもう家の前まで来たというのに僕は玄関前で少し立ち止まっていた。
「ただいま」
玄関には無造作に吐き捨てられた靴と捨て忘れたゴミ袋が散乱していた。
僕はため息とともに散乱したゴミ袋を綺麗に整頓していく。
「帰ってきてるの?」
虚無は返事をしなかった。聞こえたのは外で泣いているカラスと瓶や缶が倒れる音だった。
「いるなら返事してよ」
リビングのドアを開けながらテレビの光だけが照らすソファーに向かって僕は言った。
「ああ」
不衛生。僕の家はその言葉がよく似合う。散乱した空き缶に空き瓶。読み散らかした漫画雑誌、コンビニ弁当の山。そんな誰しもが思わずため息をつきそうになる空間に、1人の男がいた。
「父さん……」
録画されたバラエティー番組を垂れ流しし、それをただぼーっと見つめる男。それが僕の父さんだ。
「学校はどうした」
「もう終わったよ……明日から夏休みなんだ」
「そうか」
興味のないような会話が続く。上部だけの気持ち悪い会話だ。僕はそんな空気が嫌になって、二階へと続く階段に足をかけた。
「明日は行かさんからな」
二段目に足をかけた時だ。父さんは僕の心を見透かしたようにそう言った。
「あんな事があったのに、お前はまだライブラリアンに憧れるのか」
「あんな事があったからだよ。父さん」
「お前な……自分の言ってる事がわかっているのか! さゆりはお前のその自己満のせいで死んだんだぞ!」
酒ビンが割れる。唾は宙を飛び怒鳴り散らされた空気は顔へとかかる。
「何が……いけないんだよ。本を読むことの何がいけないんだよ」
今まで我慢していた何かが自分の中からこみ上げるような感覚が僕を襲った。
「罪なんだよ。本を読む事が! なのにお前とさゆりは本なんか読みやがって! 本なんて読まなければ毒者なんて襲って来なかったんだ!」
「父さんだって本を……愛していたじゃないか。そんな母さんも愛していたじゃないか。あの時、僕は母さんを助けようと必死だった。なのにお前は、お前は何もせずにただ隅で怯えるだけだったじゃないか!」
棚に飾られた写真がゆれる。母さんの笑った写真。その前に置かれていた本はゆっくりと散乱するゴミへと落ちて行く。
ドフトエフスキーの罪と罰上巻。それはやがて絶望という名のゴミへと埋もれていった。
「……そんなに言うなら、行ってこい。本物の天才ってやつを見てこい」
顔の見えない父さんはそう言った。どんな顔をしているか想像出来たが、父さんのその言葉を聞いて僕はもうそれ以上何も言わなかった。
「さゆり……ごめんな。さゆり、ごめんな」
後にしたリビングからは聞きなれない声が2階にある僕の部屋のドアを叩いていた。
「大人になるのって難しいんだな……」
「いやー、よかったよかった! 無事に2人揃って!」
翌日僕は無事に家を出た。父さんは家にはいなかった。きっと何処かの地下繁華街で違法賭博でもしているのだろう。
「タクとの約束だからね」
僕たちは今小松中央図書館にいる。石川県に存在する2番目に大きな図書館だ。残念なことに金沢図書館は学習特区内に存在しており、僕たちのような教養のない市民の立ち入りを禁止しているので、仮として小松中央図書館で行われることとなった。
数ヶ月前はもしかしたら学習特区に入れるかもとワクワクしていたが、現実はそう甘いものではないらしい。
「さっすが親友。言ってくれるじゃねーか!」
「ちょっと、痛いってタク」
タクの右手が僕の肩をバンバンと叩く。僕たちはお互いに笑い合いながら大勢の人たちで賑わう図書館前の大通りを進む。
「あ、そう言えばお前昨日大丈夫だったか?」
「大丈夫って何が?」
「知らねーの? 昨日の放課後、図書室の本が全部ごっそり無くなってたらしいんだよ。先生たちが必死に探してるらしいけどどこにもなくてライブラリアンも捜索中みたいでさ、お前本当に何も知らねーの?」
「え……僕、昨日図書室に——」
『まもなく、帰還式が始まります。入場されたお客様はお早めに席にお座り下さい』
「やっべ、急ぐぞ悠人!」
「え、あ、うん……」
『みなさまー! この度はわざわざお集まり頂きありがとうございます! 今回、進行を担当します金沢図書館所属の嘲藁優衣野でーす! よろしくー!』
「お、おい! 見ろよ悠人。あれ嘲藁優衣野だぜ!」
「だれ?」
「馬鹿野郎! 金沢図書館2番人気の図書館アイドルだろーが!」
席に着いた僕たちを歓迎したのはタクが力説するように図書館アイドルの嘲藁優衣野だった。金髪の長い髪をたなびかせ、愛想を振りまくような素振りが少々鼻に付くが周りからの声援で彼女もかなりの支持を得ていることがわかる。
「2番の人だ!」
「おおおお! 2番ちゃん今日も可愛いよ!」
「2番の子! こっち向いてー!」
声援の内容には触れないでおこう。
『……だれが2番じゃボケ』
ん? 今何か聞こえたような。多分気のせいだな、うん。
「ゴホンッ! 気を取り直して、早速金沢図書館の英雄であり1番人気のあの英雄に登場してもらいましょう! 皆さま上空をご覧下さい!」
そう言われて空を見上げる何千人もの観客石の人々。
そこには豆粒ほどに小さな飛行機が空を飛んでいた。
「あれ、北陸最大手兵器メーカーの石富重工製自衛隊機だぜ」
「まずその望遠鏡どっから持ってきたの……」
タクは周りとは異彩を放ちながら大きな望遠鏡に向かって食い入る様に空を見上げていた。
「飛んだ!」
タクがそう言うとあの黒い粒から何かが飛び出した。遥か上空に居たそれは早くも肉眼でその存在が何か判別できるようになり、下で待つ形となった観客たちは大きく手を振りながらそれを迎え入れた。
『さあ、皆さまお待ちかね! 我らが英雄、岬美玲ちゃんでーす!』
「美玲ちゃーん!
「おかえりー!」
地面との距離がだいぶ縮まり声援もより大きくなった頃、バザッとパラシュートは大きな音を立てながら翼を広げた。
「すごい……」
唖然としていた。周りの声援が気にならないほど、僕は彼女に釘付けだった。淡い水色の短い髪をかき上げ、鳥の翼のように思えたパラシュートを切り離す一連の動作だけでも彼女が美しいと誰でも理解できるだろう。
「美玲ちゃーん! こっち見てー!」
「お帰りー!」
「お帰りなさい!」
歓声は鳴り止まない。彼女はその乱れた髪を整え、観客席を見上げながら手を振るだけで更に歓声は大きく、地響きのように鳴り響いた。
『さあさあ、もうそのくらいでいいでしょう! 次行きますよ次! 美玲ちゃんの一言! はいっ!』
割と私情が食い込んだ進行に周りは思わずクスッと笑ってしまう。
「あ、あーあー。大丈夫かな。聞こえてるかな」
駆け寄った職員から手渡されたマイクを両手に握り、天使の様な声が会場を包んだ。
『みんな……ただいま!』
「うおおお! 可愛いよ美玲ちゃーん!」
表彰台の様な場所で可愛げのある仕草をとった彼女は、僕の右隣に座るタクを更に狂わせる。
『はーい! それでは、今回お集まり頂いた皆様にもっと私たちの仕事を知ってもらう為に今日は美玲ちゃんに実演していただきたいと思います! まずその前に、私からニュースではよく聞くけどライブラリアンのことがよくわからないって方々に簡単に説明させていただきます!』
観客席から見て正面に設置された大きな画面が青白い光を発しながら点灯した。
『まず、ライブラリアンとは? 毒者と呼ばれる我々の生活を脅かす生命体に対抗するために作られた組織の名前、そしてその組織に所属する人達の総称です! 基本的に人間に対する武装はしていませんが、ライブラリアンの為に作られた特殊な能力を一人一人が持っています。それがこの辞書と呼ばれる装置です』
モニターには首輪のようなものが映し出された。電子機器の様なそれは1本のプラグのようなものが出ていた。
『ライブラリアン適性試験という厳しい試験に合格し、このプラグを差し込む特殊な手術を受けた人だけが使える特別な力です。それはとても強力で……例えばこんな風に』
嘲藁優衣野がそう言うと、何処からともなく毒者を模したパネルが出現した。
『美玲ちゃん。よろしくお願いします!』
観客席はザワザワとパネルと岬美玲を交互に見つめた。
これから何が始まるのだろうと、僕は心の中だけで止めておこうとしたドキドキが思わず外に出てしまいそうになるのを堪えながら近いようで遠い彼女を見た。
「なあ、悠人。寒くないか?」
「そう言えばちょっと肌寒いかもって……これ、凍ってる?」
そう、凍っていた。足元を通り抜けるような涼しい風が通った音、パリパリと言う夏には聞きなれない氷の音が足を動かせば聞こえてくるのだ。
『辞書展開。単語〔絶対零度〕を引け』
その瞬間だった。
大気は一気に冷え、氷の槍と言えばいいのだろうか。大きな氷柱のようなものが大地からパネルを突き刺すように聳え立っていた。
「すげえ……」
「凄い……」
開いた口が塞がらないとは正にこの事だ。
『これが辞書の力です! 凄いでしょう? だだし、この力はタダで使える訳では無いんです。特殊なプラグが使用者の脳から知識を引き出し、その知識を能力に変換しています。だから、過度に使用しすぎると最悪の場合記憶欠損などを起こす恐れがありるんです』
驚きから一変、僕らは息を呑む。記憶や知識をなくすということは、毒者に襲われることとなんら変わりないからだ。
辺りはざわめき、口々に恐怖の言葉を口にした。
『心配しないで下さい!』
氷の中の様な世界から声が聞こえた。それは凍を溶かすように熱を持った声で僕らに訴えかけていた。
『私達は、特殊な訓練を受けて戦っています。使用制限を超えると自動的にプラグが射出されるようにもなっています……だから、安心して下さい』
岬美玲は、ざわめく観客席を見上げその瞳で訴えかけた。しかし一度恐怖として認識したものを言葉だけで覆すことは容易ではない。彼らは皆、冷たい空気の中で彼女を見ていた。
『私達は……日々過酷な訓練を積んでここまで来ました。生まれたその時から数字を知り言葉を知り、そして毒者の殺し方を学びました。戦地では文字を読めない子供たち大勢見てきました。言語を無くした国だって少なくはありません。私は、勉強という贅沢を贅沢にしたくないんです! この世界を変える為にも……。だから私達をこれからも応援していただけないでしょうか』
誰かが手を叩いた。それは無意識になのだろうか、拍手は次第に連鎖し、歓声と共にあの冷たかった空気を一変させた。
「いいぞー! よく言った!」
「美玲ちゃーんについて行くよー!」
『みんな……ありがとう』
「いやー、流石だな。美玲ちゃん」
タクはまるで野球ファンが野球選手をまるで自分の息子かのように語る仕草でそう言った。
「悠斗……お前も、あんな立派なライブラリアンになれよ」
「ああ、なるよ……絶対」
まさに僕の理想のライブラリアンだった。今の世界は昔よりもさらに勉学という行為が高価になっている。平等に学び平等に考え、人々が他の意見に流されず個々の意思で物事を考えることのできる世界。僕が求める夢とは、母さんの求めていたものとは、そういった世界なんだ。
だから僕には彼女が眩しく見えた。僕と変わらない年齢で、もうその世界を手に入れる一歩を踏み出しているんだ。
これは嫉妬だ。醜い、嫉妬なんだ。
生まれの差というスタートラインの違いはどうすることも出来ないというもどかしさで、僕の頭はいっぱいだった。
「なあ、悠斗……あれ見ろよ」
タクは何だ驚いた表情で僕達の正面、つまり飛行場に設置された特設モニターの方を指さした。
「見ろって……どれを?」
「あれだよ! あれ! これ覗け」
「ちょっと、痛いって」
「いいから! お前、あれ誰に見える?」
「誰にって……え、あれって先生?」
望遠鏡に顔を押し付けられた僕は、そのままの体勢でそれを見た。真夏なのに茶色のトレンチコートを纏い、その色に合わせた帽子を被った先生の姿を、何故どうしてあそこに先生がいるのかという疑問よりも先に、僕らはその現実だけを深くこの目で感じたのだ。
「だよな……あれってやっぱり先生だよな」
「でも、何か様子がおかしいような」
「なんか……血っぽくないか、あれ」
引きずるようなタクの声。その望遠鏡を除く顔は、胃から全てを吐き出しそうな表情をしていた。
「触手……に十字架?」
それは一瞬だった。トレンチコートから見えた何かは、不審に思い駆け寄った職員の––首を折り曲げた。
やがてトレンチコートの中から溢れ出る触手と大きくなっていく体の十字架。人の原型はなく、十字架の下部分に生えた触手と、上部についた先生の頭が会場に悲鳴を沸かせる。
「毒者……だ。人殺してんだよ、あれ!」
上ずった声が耳を叩いた。それは観客の逃げ出す声にやがてかき消され、その逃げ惑う声は避難指示のアナウンスによって更に大きくなった。
『げ、現在ここには緊急避難指示が出されています。職員の指示に従って速やかに避難してください!』
2番の子。嘲藁優衣野はあの作ったような可愛げのある声を忘れ、切羽詰まった本来の声でそう言った。
「おい悠人! 何やってんだ! 早く逃げんぞ!」
「あ、ああ……分かってる」
信じきれない自分が何処かにいた。肩がぶつかり逃げる観客に押される。当然のことで頭では理解していても、僕の体は一切言うことを聞かなかった。
「やあ、有田くん」
現状を十分に理解し、足を動かそうとした時だ。聞きなれた声が僕の肩を優しく叩いた。
「先生……」
「いやあ、助かったよ昨日は……長い間校長たちに交渉して来ておいてよかった。君がいてくれなけりゃ、図書室は開けられなかったし、あの本のおかげで私は……君の知識をいただくことが出来るんだからねー!」
何が起ころうとしているか分かった。考える時間もあった。十字架から生えた触手が僕に届きそうになっても、体の体は動かなかった。
あの時と一緒だ。
でもあの時は誰よりも勇敢に僕は戦っていたはずだ。怖いとすら思わなかった。盲目的に、ただひたすらに戦った。
なんであの時は戦えたんだろ。なんで怖くなかったんだろ。
あ、そっか——僕、大人になったんだ。
死ぬんだ、僕。
「なにやってんの! この間抜け!」
鈍い鉄のような衝撃音が鳴り響く。吹き荒れる嵐のような渦は砂嵐を巻き上げ僕を襲った。
しかし僕の目の前に現れたのは触手ではなかった。血でもなく死でもない、僕の目の前には触手を貫く無数の氷の槍と、岬美玲本人だった。
「何ぼーっとしてんだ! 早く立て」
颯爽と現れた彼女は勇ましく戦っていた。怖くて怯えた僕の体とは正反対で、その健気な体では想像できない程その場を圧倒する存在感を放っている。
さっきまであんな健気で優しげのある演説をしていた事物とは思えないほど、表情も言葉使いも変わっていた。
「これは、英雄殿。前線帰りの戦闘は大変なのでは?」
「うるさい、人間紛い。それ以上人語を喋ればその口二度と開かないように凍りつかせる」
「それはそれは怖いこわ——」
バコンッ。十字架に張り付いた先生の顔は氷の柱によって貫かれ、口に入れられた柱はやがてその体全体を突き刺すべく枝分かれして個々に攻撃しはじめた。
本当の戦いを目にしている。生きるか死ぬかの戦い。僕は怯えて体が動かないというより、知りたいという知識欲によってこの場に留まりもっと見ていたいという好奇心の方が強くなっていく自分を感じていた。
「早く逃げなさい! そこで伸びてる友達を連れてね」
「タク! 大丈夫か!」
「大丈夫、気を失ってるだけよその内目をさま——」
言葉を遮ったのは大きな影だ。それまで動きを止めていた無数の触手は重なり合って大砲を撃った時のような音と共にやってきたのだ。
「いやはや、この姿になるまで3日かかるはずなんだけどね。あの本のお陰だからか、信仰が早まったようだ。これでようやく天使に一歩私は近づいた!」
それは天使か悪魔か。声帯に鉛を詰め込んだような低い声。巨大で恐怖を模したような異形の姿とは打って変わり、人間を模したような身体に職種を無数につけた姿へと変わっていた。
もうそれは先生と呼べるものでは到底なかった。
「随分と力を溜め込んだな……下等生物」
触手は彼女の体を掴んでいた。唾を吐き捨てるような言葉は先生にとって説得力のない言葉となった。
「情報を生産し、ただ家畜のように消費してきた貴様らに下等生物などと言われる覚えはない」
「家畜というのは……人間がいることで生存できている貴様の方だろう?」
「ははは、可愛らしい表情すらしなくなったな女……そろそろか」
ギリギリと触手は彼女を締め付ける。歯を食いしばるような音がどこからともなく聞こえてきた。
「有難く頂くよ。その知識」
体に包まれた触手は細く分裂しながら彼女の身体に突きさって行く。まるで彼女から養分を吸い取る根のように。
「あんた……まだ居たの……早く逃げなさい」
命を吸われている。人が人として生きるための知識を吸われていく。まるで母さんのように全てを吸われていく。
体が動かない。どれだけもがいても、その場で足が凍ってしまっかのように指先1つすら動かなかった。
「なにやってんの! 早く!」
僕は何をしているんだ。動けよ。足を動かせよ。この場から逃げるんだ。彼女の言う通り、タクを連れて早く逃げて安全なところに行こう。
逃げて、逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて——僕はどうしたいんだ。
そんな時、僕の頭によぎったのは僕の胸に打ち込まれた釘のような言葉の数々だった。
君はライブラリアンになれるとか、この地区の英雄だとか、勉強できて羨ましいだとか、今まで言われてきた褒め言葉と受け取れるような言葉だ。でもそれは僕自身に送られた言葉ではない。僕ではなく「学習特区街でライブラリアンになりそうな人」を応援しているんだ。その目に僕は映っていない。その目に映っているのは過度な期待と自慰行為とも受け取れる褒め言葉の数々だ。
僕は拳を堅く握った。今まで溜め込んできた何かが爆発しそうになる。
『勉強は贅沢なんだぞ』
「言われなくてもわかってるんだよ」
『君はライブラリアンになれる。自分を信じるんだ』
「誰よりも信じてるんだよ」
『母さんはお前のせいで死んだんだ』
「全部全部分かってるんだ」
ライブラリアンにもなれないって、無理だって……わかってるんだ。だけど……ここで、逃げて何になる。僕はあの時のような父さんにはならない。
「僕は——」
ライブラリアンになるんだ。
「嘘……貴方、これって」
内に溜まっていた何かが爆発したように感じた。今まで秘めていた感情が流れ出るように外に放出されていく。それは力のように思えた。何かを変えるための僕の力に。
「辞書を展開……単語〔可逆〕を引け」
そこに意思はなかった。無意識の中で全てが行われていく。学校で話についていけずに友達の意見に流されるように、物事は僕の意思とは関係なく進んでいく。
「これは……有田くん。君は天才と思っていたがこれ程とは恐れ入った。私の教育が良かったようだ!」
毒者は嬉しそうに笑う。それを見て僕もなんだか嬉しくなった。今までやってきたことが無駄ではなかったと救われるような瞬間だった。
嬉しくて、嬉しくて、僕は右手を握った。
「ぐああああああああああああああああああああ」
パンッと水が弾ける音がなる。岬美玲をつかんでいた触手は弾け飛び四方八方に飛び散りビチビチと跳ね上がった。
「間違いない……生まれつきの辞書持ち、ナチェラル」
僕は朦朧とした意識の中にいた。全てが曖昧で、まるで僕ではない誰かが体を動かしているような、そんな感覚。
「図に乗るなよ……家畜の分際で!」
十字架が形を崩したように、ぐにゃりと溶けていく。それはやがて無数の触手となり1つの太刀の様に振りかざされた。
「……僕は、逃げない」
右手はスルリとその太刀を受け止めた。
「逃げない、僕は逃げない、僕は——逃げないっ!」
右手を握る。この世の理不尽を潰すように、強く。
「クソガキがあああああああああああああ」
「単語〔可逆〕を再び引け」
【可逆】意—— 一旦進んだものや、変化したものを、元の状態に戻すことができるような性質や機能のことを幅広く指す言葉。
「な、ななに! どうなっている! 体が」
戻って行く。触手は縮み、体は退化して行く。
「私の知識が、溢れ出して行く。やめろ! やめてくれ! 私の知識が、私の!」
それはもう一度巨大な姿になり、なったと思えばあの先生の姿へと退化した。
「やめろ! もうこれ以上! 私の……ぐあああああ!」
やがてそれは醜い怪物に変わる。言葉も喋らない言語をなくしたただの生物。
「おぎゃあ……おぎゃあ、おぎ——」
やがて毒者は人間の子供のような姿に変り、まるでそこに何もなかったかのように消えた。
「やったよ……母さん——」
意識が遠のいていく。霜がかったかのように視界が悪い。頭はハンマーを打ち付けられたようにグラグラしていて、もう何も考えられない。もう、なにも……考え——
僕、今までなにしてたんだっけ。
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