わかる人にしかわからない短編

隠伽透栬

僕の恋哀

「後悔はしてないの。だってね、明日も生きていられる保証はないのよ」

校舎裏で彼女は言った。僕に背を向けたまま。彼女の黒髪が風になびき、それが夕日に透けると、秋の日らしい涼やかさを帯びた琥珀が光る。清楚な外見からは想像しがたいハスキーボイスは、それでいてなぜか彼女によく似合っていた。

「…ミコマさん」

そこにいることを確かめるように彼女の名を口にした。そうしなければ、刹那の間に、まぶしい橙に溶けてしまうような気がして。

「していないのよ」

「本当に?」

「本当だったら!」

彼女の髪が跳ね、セーラー服の大きな襟がのぞく。半ば叫ぶような声が通るには細すぎる首が晒された。彼女はまだ、背中だった。

語調の強さは、彼女の仮面だ。それを僕はよく知っている。この後彼女は泣いてしまう。それも知っている。予習済みの問題だって解けないことはある。だから、何度も繰り返した光景に、うんざりすることもなかった。

「ミコマさん。ねえ、ミコマさん」

彼女はもう返事をしなかった。正確には、聞こえなかったからそのように思った。茜色の風が僕と彼女の壁となって、声を遮ってしまったかのように。声だけではなかった。光を失ったように感じられた。さらに僕は重力を失った。まるで脳が頭の中を滑っているみたいに、視界が右に左にと揺れ動く。彼女の一言が、僕からその一瞬のすべてを奪い去った。この世界から僕と彼女と夕日だけを残して。

『知っているのよ』

幾度となく見た光景。印象的な映画のように、僕のニューロンに刻まれた記憶。血が沸き、首が燃える。その熱が伝播したように、体中の毛穴から一度に汗がふきだす。次第に熱は目に集まり、僕の瞼を力強く持ち上げた。不思議と暑くはなく、むしろ氷が背を上がろような奇妙な寒気が襲っていた。

「ねえ、知っているのよ」

今まで試してきた中で、最善の返答はどれだったのか。思考は止まっていないのに、答えは導き出せずにいた。僕はこうならないように努めてきたつもりでいたのに、またこの言葉に出会ってしまった。その衝撃の強さが脳みそをかき回している。僕はよく知っているのだ。この一言を聞いた時にはもう遅いと。何としても避けねばならぬ状況だったと。こうなってしまってはもう彼女の死を見るしかないと。

「……ねえ、君なんでしょ」

「…………あなたの想いに答えを出したのは、先輩です」

「そんなことを言ってるんじゃないのよ!」

「じゃあなんなんですか」

「手紙よ!手紙!わかってんでしょ!?」

彼女が勢いよく振り返る。三歩ほどの距離をとっていた僕には髪の一本も掠らなかった。それでも視界の中央を飾る彼女の目鼻立ちや小さな顎は、髪一本より価値がある。『柔らかい』という言葉を形にしたような曲線や白い肌は、精巧な作り物よりも冷たく、温かく、美しさそのものと言っても過言ではないのだ。

「手紙。手紙ですか。覚えがありませんね」

(嘘だ。あなたの言う通りだよ。僕がやったのさ)

僕はまっすぐに彼女を見つめた。彼女もまた僕を見つめた。宝石をはめ込んだような瞳に、怒気を孕んだ輝きが宿る。まるで必死の抵抗を見せる小動物…つまりは餌のように。僕の瞳はきっと濁っているだろう。まるで死んだ魚のように。二つの視線が交差して絡まる。ねっとりと、いやらしく。何度も見た光景。頭の中だけで構築されたそれよりも、現実は僕を興奮へと誘った。

「……君を、信じてたのに……!!!」

ぱた、ぱた、と、その音とともに地が黒く染まった。宝石のような瞳から、小さな水晶がこぼれる。白い頬を転がり、通った道を茜色に染めながら。

「その言葉さえ出なければ……」

口の中だけで呟いた台詞は、ただの音として彼女の脳を走る。

「なに…?」

それが彼女の最期の言葉だった。

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