第13話 センス……
(やばい)
このままでは、クリスが死ぬ。
しかし、どうする。このまま無策にスヴェンが飛び出しても、クリスの二の舞になるだけだ。でも逃げていてはクリスが犠牲になってしまう。
部下の死は上官である自分の責任である。
「あぁっ、畜生! 今日は厄日だ!」
スヴェンはその場で大きく息を吸った。ほんの少し吸い込んでしまった鱗粉が、スヴェンの体にわずかな痺れと眠気をもたらした。
(やはり痺れ薬か)
眠気の方はオプションだろうが、こちらも戦闘中において、無視できるものではない。スヴェンは左の指先を剣に這わせて、わずかに傷をつけた。小さな傷だが、指先は敏感な部位だ。鋭い痛みが走り、どくどくと指先が熱くなった。同時に眠気がどこかへ吹き飛ぶ。
覚悟を決めたスヴェンを見て、怪物は歓喜に体を震わせたように見えた。獲物を嬲る化け物の目だった。
スヴェンは流れ出る血を柄に付けながら、両手で剣を握り直した。自分の命も部下の命も、くれてやるつもりなど毛頭ない。
腹の底から声を張り上げた。普段よりも半歩だけ、大きく足を踏み出す。左から右へ、大きく剣を振る。間合いを読み損ねた怪物の腹に、今度こそスヴェンの刃が届いた。怪物の口から初めて悲鳴が漏れた。
緑色の体液が怪物の傷口から吹き出し、白い体毛を汚した。おそらくこれが怪物の血液だろう。頰にひんやりとしたものを感じた。左手でこすると、緑色の液体が付いていた。赤くない返り血を浴びたのは随分と久しぶりだ。
ひるんでいる様子こそあったが、化け物の傷は深くない。この好機を逃すつもりはなかった。今度はもっと深く、致命的な傷を与えてやる。
握りを変え、剣に体重を乗せたその時、ぐらりと視界が揺らいだ。
足に力が入らなくなって、がくりと膝をつく。身体中が痺れていた。
(なんで……。息は止めてたのに)
痺れに気を取られ、つい呼吸してしまった。鱗粉の痺れ薬が体内に取り込まれ、さらに身動きが取れなくなる。濁っていく視界に、緑に汚れた左手が見えた。
(そう、か。血液……)
あれも毒だったのだ。指を傷つけたのは迂闊だった。そこから毒の成分が入り込んでしまったのか。
(あ……。俺、もしかして死ぬ……?)
怪物がこちらを覗き込んでいるのが分かった。スヴェンをつついて、コロコロと転がす。しかし怪物はスヴェンよりも、スヴェンの荷物の方に興味を示していた。何を見ているのだろうか。動かない体を少しずつよじって、怪物の様子を見る。
(あれは、王子の落書きか?)
怪物は懸命に、王子の手紙に触手を這わせている。いったいどうしたのだろう。せっかく動きを止めた獲物がいるのに、それを無視するなんて。
そのとき、怪物がピタリと動きを止めた。
「ああ、こんなところにいたのか」
訝しげな表情のスヴェンの耳に、馴染みの声が響いてきた。普段であればそれは聞きたくもない声であったが、今このときに限って言えば、神の救いに思えた。
「まったく……。ずいぶんと捜したんだぞ」
足音が近づいてくる。すらりと伸びた、綺麗な足元が見える。その靴には見覚えがあった。
王子だ!
助かった。今この瞬間においては、スヴェンは王子に感謝していた。勝手に城を抜け出したのだとしても、それを怒る気など起きない。
「もう大丈夫だ。一緒に城に戻ろう」
王子は心底優しげな声を出した。こんな声色で話しかけられたことなど、これまで一度でもあっただろうか。
(ああ……。なんだ。王子も、俺たちのことを心配してくれていたのか)
胸に温かいものが広がっていく。
(でも、王子。気をつけて下さい。その怪物は、強いです)
王子の模擬戦の成績が良いことは知っていた。しかし、不真面目な王子がまともに訓練をすることなどほとんどなく、スヴェンは王子の力量を完全に理解しているわけではない。
スヴェンの心配をよそに、王子はスタスタと間合いを詰める。そして怪物の眼の前まで来ると、両腕を大きく広げた。そして叫ぶ。
「ああ! 会いたかったよ、ぽち!」
「……は?」
スヴェンとクリスが、同時に口を開いた。
今、王子は何と言った?
その声を聞いて、今初めて王子はスヴェンたちに気づいたみたいだった。
「あれ? なんだ。いたの、お前たち」
「……あの、王子……。ぽちって……」
痺れる口を無理やりに動かして、スヴェンはなんとか言葉を紡いだ。王子は、痺れて地面にうずくまっている部下たちには何の疑問も持たないのか、至って自然に話を続ける。
「ああ、そうか。スヴェンたちが、ぽちと遊んでてくれたんだね」
ありがとうと告げる王子に、怪物はゴロゴロと甘え声を出した。嬉しそうに怪物の白い毛を撫でる王子。その手が首元にかかった時、白く長い毛に埋もれていた緑の首輪がスヴェンの視界に飛び込んだ。
(……ああ。そういうことか)
全て悟って、スヴェンは全身から力を抜いた。
(そうだよなあ……。そういえば誰も、ぽちが犬だなんて、言ってなかったもんなあ)
その名前から勝手に、犬だと思い込んでいただけだ。
スヴェンの脳裏に、王子が描いたぽちの絵が思い出されていた。四本足の歪な生き物。それは犬でさえなかったのだ。
四本足の後ろにあった二本の黒い影は、昆虫類に特有の六本足を示していたのか。犬にしてはおかしい背中の骨格は、蛾の羽。あまりに多い線は、怪物のふさふさな毛をそれぞれ示していた。
そして怪物の大きさについては、王子は正確に書き記していた。スヴェンはてっきり、王子の画力の問題だとばかり思っていたが。
(王子の絵から、王子の匂いでもしたんだろうか)
大好きな飼い主から離れて、怪物もさぞかし心細かったのだろう。風に乗って流れてきた王子の匂いを感じ取って、スヴェンとクリスの元に現れた。
「なんだ、怪我してるじゃないか! かわいそうに。おお、よしよし。こんなに怯えて。
戻ったら、お前の好きな花の蜜でも食べような」
(肉食ですらない……)
もう目を向けるだけの元気さえ残っていなくて、スヴェンは倒れたままになった。仰向けに寝転んだ視界に、どこまでも綺麗な空が映る。雲の流れが速い。上空は風が強いようだ。
「じゃあ、スヴェン、クリス。僕はぽちに乗って先に戻っているから。お前たちも痺れが抜けたら戻っておいでよ。それほどかからないと思うから」
王子の声が遠くから聞こえた。返事をするのも面倒になって、スヴェンは痺れて喋れないふりをした。
ばさっと、すぐそばで風が吹いた。強烈な風は王子を乗せたぽちの羽によって引き起こされ、あっという間に大空へと吸い込まれていく。
スヴェンの視界に、小さくなったぽちと王子が、王都に向かって飛んでいくのが映った。
なんだか無性に疲れてしまって、痺れが抜けるまでの数時間、スヴェンとクリスは何をするでもなく、ただ空だけを眺めて過ごした。
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