ぽちの小さな冒険

第8話 ペットを飼う資格があるのはきちんと面倒を見れる奴だけ

 スヴェンは不機嫌だった。

 そういう言い方をすると、大抵の人間は首を傾げることになるだろう。なぜなら彼は日頃から、苦虫を三十匹くらいまとめて作ったスムージーを飲んだ後のような、険しい顔つきをしているのだから。

 だがこの日は、その彼をしても珍しいほどに、額の皺が深く刻み込まれている。どのくらいかというと、隣に並んでいるスヴェンの部下、クリスが表情を強張らせて、ちらちらとスヴェンの様子を横目で伺っているほどだ。


 スヴェンはこの世界でも一、二を争うほどの大国、オルトバーネスの王太子の護衛隊長であった。高身長、整った顔立ち、引き締まった体格のうえ、二十八という若さで、国の重役と言っても、差し支えないほどの地位を、手に入れた男であった。


 これだけ聞くと、どんな幸福な人物だろうと想像するだろうが、彼の額には、年齢に似合わぬ深い皺が刻み込まれ、緑色の瞳は憂に曇っている。目の下には、激務をこなしている証拠として、黒いくまが居座っている。


 スヴェンの隣にいる男、クリスは今にも爆発しそうな上司を前に、ソワソワと視線を泳がせていた。スヴェンはもちろんそれに気づいていたが、敢えて彼を無視していた。このくらいの刺激は、この男には良い薬だろう。

 何しろクリスは、『仕事をしない副隊長』という、実に不名誉な称号を与えられた男なのだ。


 普段からやる気というものを欠片も見せることなく、執務室では眠りこける姿ばかりが目撃されているこの男は、本当になぜクビにならないのか不思議でならない。士官学校では、オルトバーネス七不思議の一つに数えられているそうだ。

 本人はそれを知ってか知らずか……いや、知らないということなど、考えられないくらいに有名だから、きっと分かった上でやっているのだろうが……とにかく気にした風など全く見せずに、癖の強い茶髪で茶色い瞳を隠し、不真面目さを強調するように制服を着崩していた。

 だが上官であるスヴェンは、勤務してから未だ数ヶ月という短い期間の中でも、彼の優秀さを何度か目撃している。ただし、その全ての功績を台無しにするほどに、彼は勤務態度がなっていない。


 さて、ではそのクリスをここまで動揺させるほどに、スヴェンを怒らせているのは一体何か。

 その答えは、金髪を生やして豪奢な椅子に腰掛け、スヴェンを見上げる尊大な塊であった。塊が動く度に長い金髪が揺れて、スヴェンの神経を逆撫でする。


「……どういうことか、詳しくお話しいただけますか」


 スヴェンの喉から、およそ人間の声とは思えないほどに、どすの効いた音が漏れた。

スヴェンは緑の瞳を怒りに滾らせ、その相手を睨みつけた。苦々しげに吐き捨てる。


「王子」


 金髪の塊、つまり王太子であるディーデリック王子は、スヴェンの怒りが一切届いていないかのように、無邪気に笑ってみせた。しかし王子は、本当はスヴェンが怒っていることなど百も承知だ。むしろそれを面白がっている。


(何が無邪気。悪意が服着て歩いてるくせに)


 スヴェンが内心で舌を出すと、絶妙なタイミングで王子が目を細めた。もしや心の声を覗かれたのではないか、と一瞬ぎょっとする。この王子であれば、読心術くらい心得ていても不思議ではない。


 王子はその才覚だけで言えば、歴代の国王たちに並べても、明らかに突出した才能を持っていた。

 世界一神に愛された、悪魔のような男。それが王子なのだから。


 王子はスヴェンの心の声については何も触れずに、先ほどの問いかけにだけ答えた。

「だからね、さっきから言っているじゃぁないか。

 ぽちがいなくなっちゃったんだよ」


 困ったよね、と全く困っていない表情で、王子が顎に手を当てる。

 ぽちがいないことに気付いたのは、今朝餌をあげようとした時だという。いつもであれば、王子がやってくるだけで、ぽちは餌の時間であることを察し、飛んでくるのだという。時には王子が来る前に、待ち伏せをすることもあるそうだ。


「賢い子なんだよ。本当にねぇ」

 けれどこの日に限って、ぽちの姿はどこにもない。何度名前を叫んでも、ぽちは現れなかった。王子は彼のペットたちのためにあてた、植物園のようなドームの中を探し回った。しかしいくら探してもぽちはいない。

 とうとう、ぽちは逃げ出したのだと断じるしかなくなり、慌てた王子は、ぽちを探しに旅に出る支度を始めた。


「だというのに……」

 王子はそこで一旦言葉を切り、幼い子供のように頬を膨らませた。美形の王子がやるから、それはそれで似合ってしまうのがまた憎らしい。


「それをスヴェンが止めたんじゃないか」

「当然でしょうが!」


 スヴェンは声の鞭を王子に叩きつけた。側にいたクリスが、びくっと身じろぎをするのが視界の端にちらつく。しかし当の王子は、何食わぬ顔でそっぽを向いた。

 豪快にため息をついたスヴェンは、無駄と知りつつも王子を諭しにかかった。もしかしたら、ついうっかり、何かの気まぐれで王子の心に響く、という可能性がゼロであると言い切ることは、誰にもできないはずなのだから。


「いいですか、王子。

 あなたは、その。いくらあれでも、一応、血筋的には、王子なんです」

「ところどころ引っ掛かるのだけれど」

「そのあなたが!」


 スヴェンが声を荒げた。自然と王子の声は遮られる。


「たとえペットのためであろうと、ご自身で勝手に外出されるなど、あってはなりません!」


 なにしろ、放浪癖のある王子のことだ。一度旅に出たりしたら、数ヶ月は戻らないこと請け合いだ。その上無駄に能力値の高い王子は、きっと王室きっての追跡者さえ躱すだろう。

 王子を見つけられないなどということになれば、その責任は王子の護衛隊長であるスヴェンが取ることになる。最悪の場合、極刑もあり得た。


(何が悲しくて、この馬鹿のために俺が死なねばならんのだ!)


 この説得にはスヴェンの命がかかっている。何としても、王子を城に留めなくてはならない。何時間でも耐えて、説き伏せるだけの覚悟はできていた。

 しかしスヴェンの決意を嘲笑うように、王子はにっこりと微笑むと両手を合わせた。ぱちん、と気の抜けた音が響く。


「ああ、それは良かった」

 しまった、と心の中で叫んでももう遅い。スヴェンの表情が強張った。


「優しい部下を持って、僕はなんて幸せ者なんだ。僕の代わりにスヴェンたちがぽちを探しに行ってくれると、そういうことだね?」

「……え?」


 他人事のような顔をして、成り行きを見つめていたクリスが、素っ頓狂な声を上げる。そう、王子は今『スヴェンたち』と言った。


「ぽちの首輪には、僕が作った発信機を導入してある」

 発信機は王都から八十キロ程先の、小さな村の付近を示しているという。

「発信機を……作られたのですか」

「うん。まあ、そんなに難しいことではなかったよ」

「王室直属の研究室で、現在開発中の技術なのですが」


 まだ試作段階で、なかなかうまくいかないと、知り合いの研究者が漏らしていた気がする。


「先週完成したはずだよ。材料をもらう代わりに僕が手伝ったから」

「ああ……そうですか」

「どうしたのスヴェン、頭なんか抱えて。体調が悪いなら、やっぱり僕がぽちを迎えに行こうかな」

「……いえ。大丈夫ですから」

「そう? じゃあ二人とも、ぽちのことよろしくね」

「……かしこまりました」


 スヴェンとクリスは恭しく……と言いたいところだが……実際には、うなだれた様子で深々と頭を下げた。

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