18.再出発とクラブハウスサンド

fresh start and a club house sandwich

 片山祐樹が怪我を負って十日が過ぎた。

 病院の会計課ロビーで、秋山尚央は片山が診療費の会計を済ませるのを待っていた。

 今日は片山の退院日だった。完治はしていなかったが、松葉杖を頼りに何とか歩けるようになったため、滋賀の実家で療養することにしたのだ。怪我をした当初は病院に通ってきていた両親も、今日は実家で息子を迎える準備をしているという。

 尚央は今朝、片山から退院の連絡を受けた。そして彼が一人で実家に帰ると聞いて急遽半日休暇を取り、大阪駅まで送って行くためにやって来たのだ。

「――尚央さん、お待たせしました」

 片山が戻って来た。まだ使いこなせていない松葉杖を不器用に動かし、尚央のそばに立った。

「終わった? じゃあ行こうか」尚央は立ち上がった。

「すいません、尚央さんに半休取らせたりして」

「気にせんといて。こうなりゃとことん面倒見るわ」

「悪いなぁ……」

 恐縮する片山の空いている方の腕を取り、尚央は彼と歩調を合わせて玄関までの長い廊下を歩いた。

「ユーキ、あんたにひとつ言うとくことがあるの」

 やがて尚央は言った。

「あ、はい」

「今回のことでしばらく休職するのは仕方ないとあたしも思ってる。怪我が治ったからって、いきなり出社して周りの好奇の目にさらされながら仕事するのもどうかと思うし、それで実際仕事になるのかって疑問もあるしね。あんたなりにいろいろ考えることもあるやろうし、それは実家のご両親のもとでゆっくりと過ごしながらの方がいいと思う。でも――そのまま辞めるなんてのは許さへんからね」

「尚央さん……」

「あたしはね、ユーキ、あんたのことを仕事上のいいパートナーやと思ってるから」

「……ありがとうございます」

「調子が良くて、ちょっと突っ走るとこはあるけど――時にはあんたの大胆さが役に立ったことも今まで少なからずあったよ。あたしなんかには思いつかへんアイデアも、あんたはいっぱい持ってると思うし」

「そんな、照れるじゃないですか」と片山ははにかんだ。

「あたしはいずれ編集者になることが目標やけど、あんたは今の企画部門で大きくなってやろうと思ってるんでしょ? いつやったか、そんなこと言うてたよね」

「ええ」

「それやったら今ここで絶対に諦めたらあかんから。苦い経験は大いに反省した上で今後の肥やしにして、仕事のことまでにして揺らぐことの無いようにね。中途半端は後悔するよ」

 噛みしめるような口調で言って、尚央は片山を見上げた。真剣な表情だった。

「……はい」と片山も神妙に頷いた。

「ひと月もしたら、『お調子もんのユーキ』が帰ってくるのを待ってるからね」

「分かりました。尚央さんの言葉、支えにします」

 こうして玄関に出た二人は、客待ちをしているタクシーに向かって歩いた。




 長い捜査会議を終えて刑事部屋に戻って来た鍋島と芹沢の二人は、自分たちのデスクに着く暇もなく課長に呼ばれた。

 一昨日、管内にある画廊で殺人事件が起きた。被害者はその画廊のオーナーで、画商でもあり、仕事上のトラブルを抱えていたらしい。署に捜査本部が置かれ、一係の捜査員の半分はそこに入った。鍋島と芹沢の二人もその末席に名を連ねた。そして一時的にコンビを解消し、それぞれ本部のベテラン捜査員に付いて、修行がてらを請け負うことになった。

 容疑者はすぐに浮上した。トラブルの相手だ。被害者と同じく画商で、とある人気彫刻家の作品を巡って売買上のいさかいがあったらしい。しかも分かりやすいことに事件発覚後に行方をくらました。周辺を訊きこんだら、愛人の存在が明らかになった。必然的に愛人の自宅を張り込むことになる。鍋島と芹沢のそれぞれの組も、張り込みのローテーションに組み込まれ、三交代で愛人の自宅を見張ることになった。

「――で、今日はどういうスケジュールや」

 デスクに両肘を突き、顔の前で手を組んだ課長は二人を見上げて言った。

「俺の組は今からです」芹沢が答えた。「島崎主任の組と交代で」

「ということは、鍋島の組はそのあとか」

「はい」

「逐一報告入れろよ。よりも先に」

「はい」

 鍋島はいささかうんざりして頷いた。課長は一昨日からずっとこの調子だ。所轄の意地とかで、どうにかして本部の連中を出し抜こうと狙っているらしい。ええおっさんが、アホらしいことやってんなと鍋島は思ったが、それを口にする気はもちろんなかった。

 デスクに戻ると、芹沢が深いため息をついた。

「どうしたん」鍋島が訊いた。

「張り込み、憂鬱だなぁと思って」芹沢はゆっくりとかぶりを振った。

「そらまあ、退屈やけどな」

「そうじゃないんですよ」芹沢は顔をしかめた。「俺と組んでる本部のあのおっさん、チョー体臭がキツくて」

「あ、そうなん」鍋島は苦笑いした。「そういやちょっと臭ったかも」

「ちょっとどころの話じゃないですよ。汗なんだか汚れなんだか、分かんないけど混然一体となって、そりゃもう臭いったら。車中なんか、地獄だし」

「風呂入ってないんちゃうか」

「そういうレベルじゃないような気がする。体質っていうか」

 そう言うと芹沢は自分の右腕を顔に近づけ、匂いを嗅いだ。「やべ、俺にも移ってんじゃないかな」

「……良かった。もう一人のおっさんで」鍋島は胸に手を当てた。「小言が多いけど、臭いよりマシや」

「交代、遅れないようにきてくださいよ」芹沢は眉間に皺を寄せた。

「分かってるって」

 そう言うと鍋島は立ち上がり、窓際のコーヒーメ-カーのところへ行ってカップにコーヒーを注ぐと、隣に並んだ小型の冷蔵庫を開け、中から紙包みを取り出して戻ってきた。

「ほぃ」

 鍋島は紙包みを芹沢のデスクに置いた。

「何ですか」芹沢は紙包みを見つめた。

「開けてみ」

 芹沢は紙包みを開けた。中には、コンビニ弁当などで使用される、使い捨てのプラスチック容器が入っていた。蓋は透明で、容器の方は英字新聞模様だった。

「え、これって――」

「クラブハウスサンドイッチ」鍋島は得意げに答えた。「言うまでもなく、俺のお手製」

「……マジで?」芹沢は容器を覗き込んだ。「わ、すげ……」

「ベーコン、半熟玉子、グリルチキン、チェダーチーズ、グリーンリーフにトマトスライス」

 鍋島は流れるようにそらんじ、コーヒーを飲んだ。「食パンはライ麦と小麦の二種類。マスタードマヨネーズを薄めに塗った」

「俺に作ってくれたんですか?」芹沢は目を輝かせて鍋島を見た。

「もちろん自分のもあるよ。冷蔵庫に」

 あっそうか、と芹沢は頷いた。「ありがとうございます」

「これで少しは張り込みに楽しみができたやろ」

「えぇ……できたらあのおっさんのそばで食いたくないなぁ」芹沢は顔をしかめた。「今、ここで食っちまいたい」

「そう言うな。楽しみは取っとけ」鍋島はにっと笑った。

「――鍋島くん、芹沢くん。さっさと用意しろよ」

 高野係長が声をかけてきた。

「あ、はい」

 鍋島は頷き、立ち上がって芹沢に振り返った。「ほな、頑張れよ」

 鍋島は刑事部屋を出て行った。残された芹沢はサンドイッチを丁寧に紙包みに戻し、ふうっと息を吐いて自分も立ち上がった。

 そのとき、ジャケットの携帯電話が鳴った。芹沢は内ポケットから取り出し、相手を確認して耳に当てた。「はい」

《――あ、芹沢くん?》

「尚央さん」芹沢は紙包みを持って刑事部屋を出た。「どうしたの?」

《今朝ね、ユーキが退院したの》

「そうなんだ。もう歩けるようになったんだね」

《まだ松葉杖だけどね。実家で療養して、会社はしばらく休むって》

「実家はどこ?」

《滋賀県。彦根ひこねだって》

「松葉杖じゃ、帰るの大変かもな」

《そう。だからね、さっき大阪駅まで送ってきたの。向こうに着いたら、お父さんが迎えに来てるらしいし》

「相変わらず面倒見がいいね」芹沢は笑った。「尚央さんらしいや」

《お節介なだけよ》尚央も笑った。《それでね。ユーキから伝言を言付かったの》

「伝言?」

《――『じっくり話を聞いてくれてありがとうございます』って》

「聞いたっけ?」

《そうじゃないの? ユーキはそう感じてたみたいよ》

「そうなのかな」芹沢は首を傾げた。「ま、彼がそう思ってるならそういうことにしとくよ」

《相方の刑事さん――鍋島さんだっけ。あの人にも伝えといてね》

「分かった。伝えとく」

《じゃあ――大変な仕事やと思うけど、頑張ってね。久しぶりに会えて嬉しかったわ。ありがとう》

「俺の方こそ。いろいろ助かったよ」

《身体に気をつけてね。危ない目に遭わないよう祈ってるわ》

「うん。ありがとう」

 芹沢は電話を切った。内ポケットに戻し、帳場の置かれている会議室に向かった。


 ――やっていけるかもな、と芹沢は思った。


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