4.上司の懸念と新規案件

a worry of a boss and a new case


 翌朝、まだ日勤の捜査員たちが出勤していない早めの時間。植田課長と高野係長は来客用のソファに向かい合って腰を下ろし、コーヒーを飲みながらいくらか長閑な雰囲気で話していた。

「――そうか。そんなことがありましたか」

 課長はため息混じりで言った。実は高野より年下なのだ。

「まあ、若いから血気盛んなんでしょうけど――さすがにちょっと呆れましたわ。本人らの歓迎会ですからね」高野は困ったように笑った。

「ゆとり世代やから、ってのとはちょっと違う感じやね」

「ですね」

 高野は頷くと、コーヒーをテーブルに置いて課長を見つめ、声のトーンを落として言った。「……大丈夫でしょうか」

 課長は高野を見た。そして同じように小声になった。「……二人が組むこと?」

「ええ」

「確かに、今の話を聞くとちょっと不安やね」

「ちょっとどころか、不安要素しかないです」

 課長はううむ、と唸った。しかしすぐに顔を上げた。

「かと言って、それぞれ別の誰かに付かせて、それで彼らがおとなしくついて行くとも考えにくいんやないかな」

「……まあ、それはそうかも知れませんが」

 高野はゆっくりと、降参だと言わんばかりにソファに背を預けた。課長の意図をあらためて認識したからだ。


 先月、あの二人がやって来るという通達のあった日。高野は課長に呼ばれて二人の経歴を聞かされ、二人を組ませるという方針を知らされた。驚く高野に課長は言った。

「――もう、この二人のことは諦めよう」

 どういうことですかと訊き返す高野に、課長は説明した。実は自分はかねてから、次の異動では若手の活きのいいのを寄越して欲しいと上層部うえに頼んでいた。しかしあまりにも頻繁に頼みすぎた。だから上は面倒になって、こんなやつらを送り込んできやがった。自分もずいぶんと見くびられたものだ。だが一方で、自分の戦略ミスだったことも否定できない。だからせめてここは被害を最小限に抑えたい。周りの捜査員と組ませて世話を押し付け、彼らの足を引っ張ることだけは避けたい。二人を組ませるリスクは当然あるが、そこは自分と係長で引き受けよう。申し訳ないが呑み込んでもらいたい。

 そう頭を下げられて、高野は断れるはずもなかった。


「――まあ、とにかくこれからや。様子を見ましょう」

 課長の声で高野は我に返った。

「ええ、そうですね」

 いろんな意味で、諦めるしかなかった。


 今日も先に出勤してきたのは芹沢だった。白黒のグレンチェックのジャケットの中は黒のVネックニット、薄めのこげ茶のシャツにネクタイも同じチェックで合わせていた。ボトムは黒のデニム、足元はダークブラウンのレザースニーカー。昨日のかっちりとしたスーツ姿とは違っていたが、刑事部屋に入ってくるなりまるでそこだけに光が差したような、まさに“王子様オーラ”を放っていた。

 課長はその様子を見て、やれやれ、本当に面倒くさいなと心の中でため息をついた。

 その“悪ガキ王子”はまず課長に挨拶を済ませると、まっすぐ高野の席にやってきた。

「おはようございます」

「ああ、おはよう」

「昨日はありがとうございました。それと、すいませんでした」芹沢は頭を下げた。

「え、あ、ああ――」高野はちょっと面食らった。それで訊いてしまった。「なんでや」

「ムキになって、みなさんに食ってかかって」

 ちゃんと分かってるんやなと高野は思った。「まあ別に、たいしたことやないから」

 芹沢は黙ってもう一度頭を下げ、席に着いた。

 五分ほどして鍋島が出勤してきた。トレーナーにGジャン、チャコールグレーのパンツに黒のコンバースというラフなスタイルで、まるで大学生だった。

 そして課長に挨拶をして高野のそばに来ると、おはようございます、昨日はありがとうございましたとだけ言って席に着いた。

 ――なるほど。昨日の自分は悪くないと思ってるんやな。まあ、それはそうかも知れん。

 高野はそれで、自分はもう昨日のことを考えるのはよそうと思った。

 席に着いた鍋島に、芹沢は言った。「おはようございます」

「あ、おはようございます」

 それっきり会話はなかった。

「――鍋島くん、芹沢くん」

 課長が呼んだ。顔を上げた二人に、厳しい表情で言った。「早速やが案件を担当してもらう」


 南森町みなみもりまちにある単身者用マンションの一室の前で、若い男性が太股を刺されて倒れているのが見つかった。発見時、男性に意識はなかったが、一夜明けた今朝ははっきりしているという。しかし男性は一時的に記憶を失っているようで、刺されたときのことは何も覚えていないと話しているらしい。俄かに信じがたく、男性が何かを隠している可能性もあった。発見したのは男性がその前で倒れていた部屋の住人で、男性の職場の同僚だった。その人物が彼を刺した可能性大だ。しかしそこは否認しているという。帰宅したら被害者が部屋の前の廊下で倒れていたので、慌てて119番したのだと。

「――怪しすぎるやろ」

 課長は言った。

「はい」

 二人は同時に、しかも一様に平然と答えた。

「じゃあ任せたぞ」課長は明るく言って二人を見た。「さほど難しい案件ではないはずや」

「――え」鍋島が目を丸くした。「それだけですか」

「ああ。お手並拝見といこう」

「……分かりました」

 その頃になると他の捜査員たちもポツポツと出勤してきていた。今日もまた騒々しい一日の始まりである。

「――何を言われてるんですか」

 一係に二人いる主任の一人、島崎巡査部長がデスクに着くなり高野に訊いてきた。

「え?」

「あの二人ですよ」

 島崎は課長と話す二人に視線を送って言った。飄々とした風貌の長身の男で、刑事というより役場の職員のような気安さを湛えていた。

「ああ、案件を充てがわれてるんや」

「いきなりですか?」

「ゆうべ起きた傷害らしい。マンションの部屋の前で、男が足を刺されて倒れてた。帰宅したその部屋の住人が発見者や。被害者の職場の同僚やて」

「なんや、内輪揉め?」

「発見者は否定してるらしいがな」

「被害者はどう言うてるんです?」

「そのときの記憶がないって」

「またまた、ご冗談」と島崎は笑った。「それをあの二人に?」

「ああ。発見者か被害者か、どっちかの口を割らせりゃ済む話やからな。そう手こずるもんでもない。ルーキーのデビュー戦にはうってつけやろ」

「なるほどね」

 そう言うと島崎は廊下に視線を移して言った。「――それと係長、あれ」

「ん?」

 高野はカウンターの向こうの廊下を見た。若い女子職員たちが二、三人ずつ集まって三つくらいのグループを作り、刑事部屋の中を伺っていた。

「何やあれ」

「芹沢のことを見に来てるんですよ」

「何で」

「署内で噂になってるんですよ、凄いイケメンが配属されてきたって。きっと誰か難波署に知り合いがいて、情報が入ってきたんでしょうね」

「……何やそれ」高野はため息をついた。「まるでアイドルの追っかけやないか。職場放棄も甚だしい。あの子らの上司は何しとる」

「うちにもいますよ」

「――え?」

 ほら、と島崎は言って後方のデスクに振り返った。高野が見ると、そこにはデスクに両肘をつき、手にしたボールペンをくねくねと回しながら芹沢の背中をうっとりと眺めている香代の姿があった。

「……あぁ……面倒くさい……!」

 高野は俯き、思わず吐き捨てた。


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