1.下痢と子猫
diarrhea and a kitten
朝からずっと腹の具合が悪い。起きてから何度もトイレに行った。
家を出るときには少しは治まっていたが、電車に乗って駅に着いた頃には、またちょっとぶり返してきた。やばい。
昨夜は飲み過ぎた。前赴任地での最後の日で、同じ課の有志が開いてくれた通算三度目の送別会だったせいもあるが、調子が悪いのはそのせいだけでもなかった。
実は昨夜、軽く失恋したのだ。
ちょっと前からイイな、と思っていた女性がいた。別の課の一つ歳下の女子職員で、明るい笑顔の、少しおっちょこちょいなところがなんとも癒されるお気に入りのコだった。異動が決まって、この際だから最後にデートに誘おうかと思っていたのに、昨日の送別会で同僚から彼女に付き合っている相手がいると知らされた。それでやけになって、つい飲み過ぎ、食べ過ぎたのだ。結果この体調だ。
新しい職場は、これまで何度も前を通ったことがあるが、行くのは今日が初めてだ。どの経路を取れば一番近道なのかは分からなかったが、とりあえず
少し前を男が歩いていた。ダークグレーのスーツ姿で、身長180cmくらい。手ぶらで右手をパンツのポケットに入れ、長い脚で悠然と進んでいく。後ろ姿で年齢は分からなかったが、張りのいい姿勢や髪の艶などからおそらくまだ若そうだった。
自分もあれくらいの身長があればな、と思った。そしたらきっと、スタートラインに立つ前の失恋くらいでやけ酒ややけ食いなんかしなくて済んだかも――
そんな思いが頭を過ぎった途端、すぐに我に帰った。
なんでこんなこと考えるんや。身長のことでネガティブ思考になるなんて、今までほとんどなかったのに。あのコに彼氏がいたことがそんなにショックやったんか? いや、そうやない。彼女との行く末をあまりにも楽観視していた自分がひどく滑稽で、かっこ悪くて、それをごまかそうと、理由を他に求めただけの話だ。
そのとき、前を歩いていた男が立ち止まった。そばの建物をじっと見上げ、そして周囲を伺うように振り返った。びっくりするくらい綺麗な顔立ちをしていた。
咄嗟に電柱の影に隠れた。理由は分からなかったが、たぶん職業病だ。
すると男は、こともあろうに見上げていた建物――たぶん何かの会社か事務所だ――の塀をよじ登った。
何をするんや、と思って一歩を踏み出そうとしたところで、腹に刺し込むような痛みが走った。思わず腹を押さえて電柱に寄り掛かった。ああだめだ、これは行けない。
痛みをこらえながら顔だけを上げた。男は塀に右膝を掛け、左足はぶらんと伸ばしたままで塀のすぐ向こう、つまり建物の敷地内に植わっている木の幹に左手をついて身体を支え、右手を伸ばしていた。
木に生った柿でも取っているのか、と思った。あんなにスマートな男が、時代錯誤甚だしい柿泥棒なんてまさか、と思っていると、男は塀から飛び降りた。
男の手には、その掌より少しだけはみ出るくらいの、小さな子猫が乗っていた。
そして男は、子猫の頭を一度だけ撫でると、通りの向かい側にあるビルの、芝生の敷地に猫をそっと放した。猫は芝生に顔をこすりつけ、すぐにうずくまった。
男はまた悠然と歩き出した。
――猫を助けたのか――。
きっと母猫とはぐれて迷っているうちに、勢い余って木に登ってしまい、我に返ったところで降りられなくなっていたのだろう。男はその鳴き声でも聞いたのかもしれない。
助けたところで最後まで面倒を見きれるわけでもないのに、逆に大きなお世話じゃないかと思った。
それでも、目の前で他者の窮地を見たらとりあえずは身体が動く人間がいるものなのだ。
きっと今、それを見たんやなと思った。
そこでまた、腹に刺し込みがきた。今度はちょっと、度が過ぎている。
もう猫のことも男のこともどうでもいい。大慌てで辺りを見回した。
今、歩いてきた道の遥か遠く後ろに、コンビニの看板を見つけた。
頼む、あそこまで持ってくれと願いながら、思いっきり慎重にダッシュした。
おかげで少し遅刻した。
メインロビーから伸びる階段を上りながら、幸先悪いなと思った。
だいたい、基本スペックからしてウケが悪いのは分かっていた。父親は署長、たいした実績もないのに最短期間での昇格、所轄ではあるものの花形と言われる部署への順調な異動。嫌われる要素満載だ。いや、嫌われる要素しかない。自分だったらこんなやつと一緒に仕事したくない。
――親の七光りなんてとんでもない。俺はあいつが大嫌いなんや。あいつみたいにだけはならへんと決めて、あえてこの世界に入ったんやから。
けどそんなこと、誰も分かってくれない。聞こうとすらしない。
ええわ、遅刻は遅刻や。昨日不摂生したのも自分や。それを基本スペックと結びつけてどうレッテルを貼られようと、受け流すと決めている。もっと言うと、できるだけ品行方正な
階段を上がって少し行ったところの左側、廊下との壁による仕切りの無いオープンオフィスと聞いていた。だからすぐに分かった。廊下との仕切りはカウンターになっている。その端っこに、腰くらいの高さの間仕切り戸が付いていた。早足で近付いて行くと、その気配に気付いたらしい入口付近の捜査員が顔を上げた。
「あ」捜査員は言った。
「おはようございます。本日より刑事課勤務を拝命した、
まっすぐな姿勢で言って、勢い良く一礼した。「遅刻しました。すいません」
「――ああ、はいはい」
捜査員は言うと席を立って間仕切り戸の前に来た。「どうぞ」
「失礼します」
中に入ると、そこにいる人間から一斉に見られた。――ああ、嫌だ。
「鍋島巡査部長」
「あ、はい」
呼ばれた方に向かった。上座の席に陣取る、この部署のボス、
「五分遅刻やな」課長は言った。
「はい。申し訳ありません」もう一度頭を下げた。
「理由は」
「えっと、あの――」俯いて小さく咳払いをした。「ちょっと、体調を崩してて」
「風邪か」
「いえ」
「腹でも壊したか」
「え、まあ……はい」
課長はふんと笑った。「きみ、寮に入っとるんか」
「いえ、部屋を借りてます」
「独り住まいか。自己管理はちゃんとせえよ」
「はい。すいません」
すると課長は彼の後ろの席に向かって呼びかけた。「
「――はい」
若い男の声がして、こちらに近付いてくる足音がした。
少し離れた左隣に男が立った。背の高い男だ。
振り返って見上げると、思わず「えっ」と声を出していた。
子猫を助けたあの男だった。
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