第6話 知らない自分~母
ルビはあのペットショップで三毛猫を抱いてから、ほとんど毎日ショッピングモールに出かけるようになっていた。
そして、できるだけ客でごった返している時間に、こっそりと三毛猫がまだそこにいるのかを確認しに行くのだ。そこに三毛猫の姿を見つけると安心してコーヒーショップに行き、タバコを吸うのが日課のようになっていた。
少しづつ成長し動きが活発になっている三毛猫を見ると、ルビはそれだけで幸せだった。
猫を買う経済的余裕も環境もあるのに、それでも購入しないのには理由があった。
精神科に通い始めてから少し経ったとき、朝、部屋に異変があるのを気づいたからだった。
前日触った記憶もないのに、机の上のパソコンがカバンの中に入っていたり、服がクローゼットから引き出されていたり、覚えのないカップ麺を食べた形跡があったり、グラスや皿が割れてそのままになっているようなことが起きていたのだ。
最初は”侵入者”がいるのか、と恐怖を感じたが、どうやらそれは自分でしているらしかった。
ルビは夜に無意識に夢遊病者のように徘徊し、部屋のあちこちを触り移動させ、そして夜食まで食べているのだった。
おそらく、毎日飲んでいる3種類の治療薬のどれかにそういった副作用があるのだろう。ネットで各治療薬の副作用を調べると、自分のように飲酒もしている使用者には夢遊病の症状が現れることがあることを知った。
(知らない自分……)
知らない自分が夜な夜な活動するなど、想像しただけで恐ろしかった。そしてそれは日に日に悪化していくのが分かった。
ルビはもう一人の自分が、次に何をしでかすかわからず不安でたまらなかった。一度はスマホで寝ている自分を撮影してみようかとも考えたが、それはそれで怖い。暗闇で歩き回る自分の動画など、考えただけでも身震いしてしまう……。
かといって、今の睡眠導入剤は手放せない。もちろん酒も。
ルビは寝ている自分に自身が持てない。子猫なんてデリケートな生き物を、夢遊病の自分がどうかしてしまうんじゃないかと不安だったのだ。
八方塞がりで答えが出ず、まるでストーカーのようにペットショップに通うしか方法がなかった。
***
ある朝ルビはまたやってしまっていた。
酒の瓶は倒れこぼれた酒を処理しようとしたのか、濡れたバスタオルが床に放置してある。グラスが逆さにテーブルに伏せてあり、お湯を入れて食べられていないカップ麺は、ふやけた麺が膨らんで紙蓋を押し上げていた。
なぜかライダースブーツが窓際に揃えて並べられているのを見つけると、”自殺”が連想されて冷たい汗が出た。
医者には「酒と薬の併用は絶対ダメ」としつこいくらいに注意されていた。
ルビは「酒から睡眠導入剤のどちらかをやめれば」と、葛藤したがやはり答えは「どちらも手放せない」だった。
口の周りには唾液が乾いてこびりつき、異臭を放ってガビガビしていた。
――うなだれてため息をついたとき。玄関のチャイムが鳴り響いた。
ひどく乱暴なチャイムの連打とその後に鍵穴に乱暴に鍵を突っ込む音で、それが母だとすぐに気づく。
ルビはベッドに座ったまま「最悪なときに来たな」と部屋の有様を再確認すると、玄関から強い光が差し込んできて、後光をバックにした母親がドシドシと廊下を歩いてやってくる。
「あらら、この不良娘が……」
ルビと部屋の乱れ具合を見た母がそう言うと、ガチャガチャと散乱したテーブルと床のバスタオルと、それ以外のところも掃除し始める。ルビは「ごめん」と小さく言葉を発したが、そのまま動こうとはしない。
ルビの母は時々暇を見つけては、実家から1時間かけてルビの部屋に「掃除人」としてやって来る。
ルビがいないときに部屋をピカピカにし、煮物や焼き魚、漬物などを冷蔵庫に入れて、ルビに合わずに帰って行ってしまうこともある。母は洗濯もしてくれたが、同じ洗剤と洗濯機を使っているはずなのに、仕上がりや匂いが違うのはなんでだろう?と不思議に思うことがあった。
母は55歳だが、一向に老いを見せないし、むしろ年々パワーアップしている。
父もパワフルだったがどこか病的で繊細なのに対し、母は健康優良児の健全なエネルギーの塊だ。
洗い物と掃除をするときに怒っているような動きをするのはクセなのだろう…子供の頃、母が掃除を始めると、ルビはその音が聞こえないところまで逃げていた。
「ごめんね」
もう一度母の後ろをすり抜けて風呂場に向かいながら言ったが、やはり返事は返ってこない。
母は豪快そのもので、誰も太刀打ちできない迫力を昔から備えていた。ただ、父と夫婦げんかをするところは見たことがない。母は強いのだが常に父を立て、意見が違うと自分の方が折れていたのだ。
父があまりにも稼ぎが悪いので母は家計を支えるために、一般病棟の看護師から救急医療の方に志願した。そこはハードだったが給料も倍近くになる。母は昔から強かったらしいが、その頃から母の肝っ玉はさらに太くなったのだった。
――救急医療では、一般病棟よりもはるかに「死」に直面する機会が多い。
事故で体のあちこちが破損した人、脳梗塞であの世とこの世の境を行ったり来たりしている人、激しく吐血しながらストレッチャーで運ばれてくる人、すでに心臓が動いていない人…。
心拍計のインジケーターが波打ちからフラットに変わる瞬間を日々目にしてきた母は、肝っ玉母ちゃんから、映画ランボーの主人公のように心身ともにマッチョへと変貌していったのだ。
精神論や理念やらモラルやら理想を、酔っ払って声高らかに唱える父を、リアルな戦場をかいくぐってきた母はどう見ていたのだろうか?……とルビは時々考えてみた。
ルビは自分と母とに共通点らしきものを今だに見つけられずにいる。
もちろん母に対して愛情はあったし、親孝行などもしたいと考えている。母は確実にあの家と父と私と祖母の守護神だったが、ルビは抱きついて甘えた記憶があまりない。
(母に最後に抱きしめられたのはいつだろう?)
と思い出そうとしても記憶のノートが開かれることは一度もなかった。
***
ルビが風呂から上がると母はテーブルの横の椅子に座り、コーヒーが2つ用意してあった。
母はタバコを吸いながら「あんた精神病院にかかってるの?」とよく通る声で言った。
部屋を掃除しているときに薬を見つけたのだろう、ルビは薬を隠してもいなかった。母はその道のプロであるから薬のパッケージを見ただけでそれが抗不安薬や抗うつ剤・睡眠導入剤であることは当然理解した。
ルビは濡れた髪をだらんとさせ、うつむいたまま「うん、眠れなくて……」と申し訳なさそうに答える。
「何年飲んでるの?これ初診で出す薬じゃないでしょ?」
ルビは母のこの尋問のような話し方が苦手だった。
「2年くらいかな」
「じゃあ、病院変えた方がいい。そんな長期間飲み続ける薬じゃないよ。あんまりいい医者だと思えないけどね」
「うん……」
ルビが通う医者のレベルが低いことは初診のときから分かっていた。しかし、ルビは「薬そのもの」が欲しかったのだ。ただ、それを母に言えるはずもなかった。
――ルビがうつむいたままでいると、母は大きく深呼吸し、いつもと少し違う声色で言った。
「私が中学生のとき、まるであんたと一緒だったんだよ……」
「――?」
ルビはこれまで聞いたことがない母の昔話に強く反応し、しなだれていた首を起こした。 しかも、この重戦車のような母が虚弱体質の私とどこか一緒だと言うのだろう??
「青白くて体力なくてね。体重なんか40キロ台だったよ。心も弱くてね、神経質で。私の方の母親はオロオロするばかりでね。あんたが小さい時死んじゃったから知らないだろうけどね。精神病院とかお祓いとか連れて行かれて大変だったのよ。結局はノイローゼだと診断されたよ」
一息でコンパクトにまとめられた「母の学生時代」は、まったく想像もできないアナザーワールドだった。
今、自分の目の前にいる女性はたくましく鬱陶しいくらいに生命の息吹を放出している。暗い過去をもつ人物だとは到底信じられるものではない。
ルビは華奢で弱々しい母親を必死で想像してみたが、目の前にドスンッと座る現在の母の姿が空想をかき消してしまう……。
ルビの母親は、目の奥で記憶をたどるように次の言葉を発した。
「でも私はめぐり合わせが良かったんだ。友達が優しくてね、ソフトボール部に誘ってくれたんだよ。体を強くしろって怒られたよ、同じ年なのにしっかりした親友だった。私は情けなくてね」
「……それでどうなったの?」
映画の続きが観たくなるくらいに次の展開が待ち遠しい。ルビは目の前の”偉人”のサクセスストーリーにプロの文筆家ながら惹かれてしまっていた。
「ルビは知らないだろうけど、女子ソフトボール部ってどこもハードなんだよ。ランニング5kmに腕立て伏せ100回。腹筋背筋にスクワット300回。運動なんてしたことなかった私だったから、死ぬかと思うくらい辛くてね。それでも叱ってくれて誘ってくれた友達の期待に応えようと頑張ったのよ。先輩たちも優しくしてくれたしね。家に帰ったらバタンキューだよ毎日」
ルビは空を見つめたまま母の話す昔話を、やっと脳内で映像化することに成功し、友人の恋の悩みを真剣に聞く人のように、うんうんと頷いて相槌を打つ。
「毎日泣いて泣いて、吐いたりおしっこ漏らしたこともあったけど、それでも頑張って続けてたらね、ある日自分の中で何かが変わったような気がしたの。多分あれは……最初は5回しかできなかった腕立て伏せが100回できたときだと思う。急に体に疲れを全く感じなくなってね。下半身からエネルギーがこみ上げてくるみたいだった。それで暗い気分なんか吹っ飛んだんだよ。昔の自分を思い出そうとしても思い出せないくらいにね。それで思ったんだ。(私はこうやって生きていかなくちゃならないんだ)ってね、そういう運命なんだって――」
ルビの母はコーヒーをごくりと飲み干し、新しいタバコに火をつける。
「でも人にはそれぞれあるからね……お父さんはあんなだったけど、あれはあれでいいんだよ。お父さん楽しく暮らしてたからね、友人に囲まれて。私が笑ってたら調子に乗るから笑わなかったけど、影ではおばあちゃんと笑ってたんだよ、おかしい奴だってね。お父さんはあんたを作家にするのが夢だったし、遺伝でいうと、お父さんの方を強く引いたのかな?同じ道に進んで、もうお父さん抜いちゃったからね。でも才能でしょ?作家って。だからルビはお父さんに任せることにして、家計の方を私が担当することにしたんだよ」
ルビは普段母親の前では絶対にタバコを吸う姿を見せなかったが、無意識にタバコに手をかけていた。母は灰皿とライターをルビの方に押しやり、話を続ける。
「遺伝って怖いよね。お父さんの才能と、私の……よりによって弱い部分を引き継いじゃったんだから。精神科の初診で、最初に『家族でうつ病の人か自殺した人はいますか?』って聞かれなかった?」
たしかにルビは精神科での初診のとき、今母が言ったのとまったく同じセリフを聞いていた。そのとき一瞬父の顔が浮かんだが、あんなに明るいうつ病はいないと思い直し「誰もいません」と答えていた。まさか母から”うつ病”を連想することはできなかった。
「だからあんたの今の状態はお母さんにも責任があるんだよ。全部お父さん任せにしないで、少しは口を挟んどきゃ良かたって思ってる」
そして、母は一呼吸おいてこうつぶやくように言った。
「ごめんね、ルビ……」
目の前が真っ白になった……。
ルビは母親が自分に謝るところなど見たことがなかったのだ。
母は誰にも謝らなかったし、謝るようなミスもしないし、謝る必要のある生き方をしていなかった。
ルビは混乱したが、まったく悲しくなかったし、胸も締め付けられなかった。
だからなぜ涙が出るのか理解できなかった。
うつむいて吸いかけのタバコを指に挟んでテーブルの上に肘をかけたまま、涙は床に向かって一直線に流れる。
眼球から次々に生まれだす水分は止まらず、まるで水道の蛇口をひねっているようで、そして息をするたびに塩水が口に漏れ出して味を感じる。
突然発表された母親の昔話は、トリックめいていて衝撃の展開だった。
推理小説のハイライトのような母の告白は、ルビの母親に対する印象を塗り替え、初めて母に「温度」を見ることができた。
(なんで30歳にもなってはじめて言うんだろう)と一瞬思ったが、自分と同じ雰囲気を持つノイローゼの小さな母が必死になってグラウンドを走っている姿がまた思い出されると、思考回路はストップしてしまう。
ルビの脳裏に浮かぶ子供時代の母は走っては転び、泣きながら嘔吐し、また立ち上がって走っている。
ルビは自分を何度も恥じることしかできなかった。
――そしてルビはなぜか真美のことを思い出した。
彼女に対するこれまで抱いていた疑問が、母の話が引き金となってあふれでる。
真美はルビから離れたのではなく、母と同じように”這い上がろうと”したのだ。きっと真美は自分以上に苦しみ、そして限界を感じて打開策をとったのだろうとルビは理解した。しかも真美は自分に救いの手まで差し伸べていたことが10年以上経った今やっと分かったのだ。
最後にルビが真美の誘いを断ったときにつぶやいた「……なんで?」という絶望の言葉が、頭の中をぐるぐると回転した。
ルビはこれまで母親のことを気に留めず生きてきた。変則的な看護師のシフトの合間を使ってジョギングをしていたことも思い出した。そして1年に1回同じ月に必ず「同窓会」とっいってよそ行きの服装をして出かけていたことも。
その同窓会に出かける前、父親との会話の中に”ソフトボール”という言葉を何度か聞いたことも、突然思い出された。
ルビの母親は言葉を続ける。
「いい?あなたにはあなたのやり方と抜け出し方があるのよ」
ルビの母は立ち上がり、座ってうなだれるルビの横に立った。
母は分厚い手のひらをルビの頭に添え、自分の腰の辺りに抱き寄せた。
ルビの涙はさらに大粒になり、ズボンの太ももと床をビショビショに濡らした。
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