第2話 父

 ルビはパソコンでネットサーフィンをし、すでに2時間を無駄に浪費している。とくに調べものをするわけでもなく、連鎖的に気になるニュースや記事を開いているだけだった。

 

 ルビは小説をパソコンで書く。一応は小説家なので、目覚めてから一連の朝の習慣を済ますと、とりあえずパソコンの前に座るのだった。

 しかし、ここ数か月はパソコンを起動しても、数行書くとため息をつく状態だった。文字を打ち込むことに苦痛を感じ、つい横道にそれがちになった。


 文筆稼業とはこういうものなのだろうとルビは仕事の難しさを実感していた。これがタイムカードを押して、会社で文章を書く仕事であれば、苦心しながらももう少し執筆は進んだだろうが、人間は自分自身をコントロールして「労働者」にするのは苦手なのだ。


 せめて出版社の担当が尻を叩いてくれる人ならば、無理やりにでも書いたかもしれないが、担当の三浦は放任主義なのでそれも期待できない……自分でやるしかない。


 まだ昼前だというのに、朝から5杯目のコーヒーをキッチンに作りに行く。

 カフェインやニコチンの常習者は、コーヒー豆に湯を落とす瞬間や、ライターのボタンを押す瞬間「これで何かが変わるかもしれない」と思うのだろうか?


 最近自分と父親が頭の中でクロスオーバーしてしまうことがよくある。父親も曲がりなりにも文章を生業としていた人間なので、彼が抱えていたであろう苦悩のようなものに共感できることがあるのだ。

 言葉と文章が浮かばないとき、「父親にもそんなことがあったのだろう」と考える。自分はただただ時間が過ぎるのを待つだけだが、父は夜の街に出かけ酒をぶち込み、ギャンブルをすることで見えない苦悩に打ち勝とうとしたのではないか?私と父の違いはスランプ脱出の方法の選択肢だけなのかもしれない。



――父とルビは真逆の性格だ。

 父は、実家のあった下町の飲み屋に入り浸っていた。

よくもここまで集まったな、というくらい「〇〇のできそこない」が集まる飲み屋で友人達に囲まれていた。

 小説家になれない男、ミュージシャンになれない男、有名女優になれない女、画家になれない男など、中年のできそこない達は、年甲斐もなく夢と理念をがなり立て、大量のアルコールを消費しながら夜を楽しんでいた。


 ルビは父の友人の生々しいエネルギーに圧倒されて、大きな声で話す大人が苦手になった。


 ルビは学校でもおとなしくて友人もほとんどできなかった。いつも一人で家に帰り、あとは祖母と過ごす毎日だった。こんな親子でも、一定の年齢を過ぎると、どこか似たところが出てくるのが不思議だ。ルビは「父親が嫌い」とは言っていたが、それも今となっては曖昧だった。


 人が人を嫌うときには”嫌い”という感情に加えて、神経や筋肉なども拒絶反応を示し、吐き気や発汗、悪寒などを表すものだ。

 しかし、ルビは父にそういったものを感じたことはない。 

 父のしてきたことで許せないものもあったが、生理的に拒絶するようなものではなかった。父は祖母より2年早く亡くなっていたが、ルビが小説家になったとき、一番先に報告したかったのは墓の中の父だった。


 ルビの母は看護師で活動的な性格だった。父親よりもはるかに器用でまじめで仕事ができ、副婦長の役職を任されていた。父とは対照的に現実的で芸術などには目もくれない。間違いなく見た目も中身も、ルビの中には父のDNAが色濃く現れていた。


「よし!」


 ルビは何かを吹っ切るようにはずみをつけ言葉を吐き出すと、散歩に出かける準備を始める。くわえタバコのままクローゼットにかかっている服を物色し、数少ない洋服のバリエーションからデニムのカットソーを引っ張り出した。

 ライダースのハーフブーツは、ルビが少し遠出をするときの定番である。


 お昼の駅前通りは人があふれる。

 近くには小さな会社もあり、OLやスーツ姿の男性たちが昼食を求めて弁当や中華料理店、そば屋などに行くために通りを急いでいる。

 殺伐とした朝とは違い、みな表情はいくぶん穏やかだ。


――なぜ人は仕事に行く前にあんな物騒な顔をするのだろうか?

 寝起きが悪いのか、前日の酒が残っているのか、それとも会社そのものに嫌なことがあるのかもしれない。

「もしかしたら不景気な世の中だから、今日明日にでも会社が倒産するんじゃないだろうか?」と思っているかもしれない。

 どちらにしろ午前中に仕事をして大丈夫だと確信したり、体と心が慣れてしまえば不安は消え失せてしまうのだろう。

 だから昼休みはみな穏やかな表情をするのだ。


 行きつけの花屋の中をのぞくと、相変わらずミサは何か作業をしている。目が合えば会釈くらいするのだが、こちらに気づいている様子ではない。ルビはそのまま駅に入り、3駅分の切符を買ってホームに向かう。


 スマホにヘッドフォンのプラグを指しプレイボタンをクリックする。散歩のときに聞く音楽はいつも『エンヤ』である。

 クラシカルなフレーズを聞きながら、流れる景色を見ていると、意識があちこちにタイムスリップを始める。



***


 3駅電車に乗るとそこには大きな公園があり、広い芝生が見える。ジョギングやウォーキングをする人が多く、暖かくなると弁当やサンドイッチを持った人で賑わうこともあるが、この寒い3月の平日では人もまばらだった。大学が近くにあるからか、若い人がやたらと歩いている。


 ルビは大学を中退していて、あまりいい思い出もない。ルビは勉強もできなかったので、入れた学校も3流だった。文化的な趣味を持つ学生も少なく、異性にしか興味を持たないようなクラスメイトとはしだいに挨拶すら交わさなくなった。

 

 気温は低いが太陽の日差しは強かった。

 いつものようにウォーキングロードを少し歩き、駅の売店で買ったワンカップの蓋を開ける。ゴクリと飲み込むと腹に火がつき少し暖がとれた。

 脳が麻痺した状態で見る木の葉のざわめきは美しい。


 いつも自然の植物を見ると「機械だらけのSF映画よりもSF的だ」と思う。あまり科学には興味のないルビだったが、おそらく世界最高峰の科学をもってしても、あの木にぶら下がっている葉っぱ一枚を作り出すことはできないだろうと、調べたこともなかったが根拠のない確信を持っていた。

 風が強くなるたびに少し首元が冷えるが、2本目のワンカップのフタを開け、ツマミに買った魚肉ソーセージにかぶりついた頃には、体内で作られる温度が寒さを消してくれていた。



 父は何らかの小説を書いていたようだ。すべて未発表のまま生涯を閉じてしまい、その小説をルビは見たことがなかった。

 父はいつも「これから小説書くから書斎に入ってくるなよ!」と家族みんなに宣言し、サントリーの角瓶とピーナッツを持って自分の部屋にこもる。”書斎”と言うのは父がつけたその部屋の「呼び名」であり、6畳敷きに本が山積みになっているだけの「ただの部屋」だった。


 そこで父は酒を飲んだ勢いに任せて小説を書いた。

 これはルビにはできない芸当だった。時々欲望に負けて執筆中に飲んでしまうことがあるが、創作の蛇口が硬く閉ざされて何も書けなくなってしまうのだ。


 その父はルビにある種の期待をしていた。


 小学校のときに書いた作文が担任の国語教師に絶賛され、学校から家への連絡帳にもそのことが書かれていた。それを聞いた父は、その作文を見せるようにルビに言い、一度読んで真剣な顔つきになり、それから数回素早く読み返してから言った。


「ほら!やっぱり俺の子供だ!文豪になるぞこりゃ!」


 と大騒ぎした。その派手で大げさな喜び方は別として、子供のルビはやっぱり嬉しかった。あの時の光景は今でも鮮明に覚えている。




 処女作がヒットしたとき、出版社や週刊誌からたくさんのインタビューを受けた。


「小説家になろうと思ったきっかけは何ですか?またそれは何歳くらいのときですか?」


 これはよく向けられた質問だが、ルビはこのときいつも作文のことで父が喜んでくれたことが頭に浮かぶのだった。

 だがルビは「高校生の頃に登校拒否になって小説ばかり読んでたので、自分も書いてみたいと…」と答えるようにした。

 おかげで「元引きこもりの女流作家」「ニート女性小説家」などという、迷惑な肩書をつけられるハメになった。



 ルビ自身、なぜ小説家を目指したのか認識していない。

 家には父の集めた蔵書が千冊以上あり、ルビは他の子どもたちのように絵本や漫画を読まず、三島由紀夫や梶井基次郎、カミュやカフカなど手当たり次第に読み漁った。

 小説の中に意識を住まわせることはルビにとって自然な行為だったし、みんなそうしていると思っていたのだ。


 ただルビは有名な作家たちを神的にあがめるようなことはしなかった。

物語に入り込むことなく、作者の意図を読み取り共感するような読み方をしていた。

 ”物語”に詰め込む文豪たちの考えや、そこから漏れ出す生活感は、ドキュメンタリー番組よりも生々しく、それは時間の制限を超えた自由な旅だった。


 父も母も祖母も、担当の三浦も自分も、世界の文豪たちと同列にしか考えられない。

 それを口に出せば”身の程知らず”と言われるかも知れないが、それは多くの作家が思うことなのかも知れない。




――ざわざわと風に揺られた大木が音を上げる。

芝生の青い匂いがルビの周辺を埋め尽くすと、スーッと気分が晴れるように感じた。ナチュラル志向でもスローライフ実践者でもないルビだが、こうして公園の緑の中にいると傷んだ神経が癒やされることは知っている。

 ルビは小説を読み、そして小説を書くと、どこか違う世界に引き込まれる感覚になる。

 それは物語という空想空間にいる感覚ではなく、インターネットのような”交信”の感覚だ。現代作家はもちろん、すでに半世紀も前に亡くなっている作家も、命ある生命体として生きている実感がある。 


 この世界には生死は関係なく、切り離された意識はそれそのものが生命を持ち存在している。

 それは、湿った朽木に発生する菌類のようなもので、人はそこから生み出されるキノコのようにも思えた。 意識という菌類は、キノコを動物や人間に食べられても存在し、増殖し続けるのである。


 人間は「体」を持っているが、小説やインターネットの住人になっているときには、体はほとんど使わないし、物理的な干渉も必要としない。その行動は脳内だけで行われ、そして同じく脳だけで生きている人たちと交信を続ける。


(ほんとうに体は必要なのだろうか?)


たまにそう考えることもある。

 ただ、人間の中にはそういった交信をせず、リアルな世界だけで生きている人も多いし、むしろそっちの人種のほうが大多数なのかもしれないとも思う。


 ルビはベンチから立って歩き始める。 

 また電車に乗って5つ駅を進めば繁華街があって、そこには大きな本屋とコーヒーショップがある。息をすれば日本酒の匂いが口の周りに立ち込めるので、早くコーヒーが飲みたくなった……。

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