美しいNOUVELL(ヌーベル)

のぶあどれなりん

第1話 プロローグ

 ルビが朝目覚めると、冬の凍った窓からプチプチと水分が化学反応を起こす音が聞こえた。近くのパン屋なのか総菜屋なのか、飲食店らしきところから湯気が立ち、朝もやと混じって曇り空の密度をさらに高くしている。


 ルビが窓際にカフェオレをもって立つと、目の前の道路は通勤の人で溢れていた。東京に引っ越してきて3年、毎日この景色を眺めるのが日課になっている。


――みなまっすぐ歩く。


 横を見ることもなくまっすぐに…。

 窓の外の通行人達は、前は向いているが何も見ていないようだった。



 ほとんどすべての男性は同じような服装をしていた。

 スーツ・革靴・手提げカバン……。


 女性は少し個性がばらつくが、それでもどこか共通した方程式をもったファッションだ。


コツコツコツ――。


 ここからその足音は聞こえないが、国道に下りれば小さなカプセルを踏み潰したような革靴の足音が、通りいっぱいに広がっているはずだった。

 ルビは2杯めのカフェオレを飲むために、外に出ることにした。

 壁に向かって歩き、フックに吊るされた外出着のダウンジャケットに腕を通す。


 ネイビーカラーのダウンジャケットの下に薄い生地のワンピースだけを身に着け、無印良品で買った生成りのスニーカーといういで立ちは、この時間のこの通りでは異色である。

 駅に向かう人の流れと方向を合わせて歩くが、カラーフィルムの映画に一部分だけモノクロを入れたようなくすんだ目立ち方をしている。1分歩くとパン屋が、そしてもう1分歩くと総菜屋があり、総菜屋のダクトから大量の蒸気が噴出していた。


 総菜屋の隣には、ルビが通うチェーン店のコーヒーショップがある。

 店内は人でごった返し、半分は外を歩いているようなスーツの人たち、もう半分は少し経済的に余裕のありそうな老人たちだった。

 スーツの人たちはみな忙しく新聞を読んだりスマホやパソコンに集中している。


 老人たちも新聞や週刊誌を読んでいるが、どこかのんびりしていた。何か目的があるのかまたは目的を探しているのか、リラックスタイムのそれとは違った目つきで新聞の文字を追っている。


(彼らはどんな過去があるのだろう?)


 ”一応”小説で生計を立てているルビは、一瞬頭をよぎった考えを打ち消した。マンウォッチングほど泥沼にハマるものはない。とくに自分のような、一般平均の人々とは違う職業、違う生活リズムで生きる人間がその泥沼にハマって良かった試しはないのだ。


 ルビはこのコーヒーショップの常連だが、とくに癒されるといった感覚を持っていない。むしろ、ここに自分と同じように通うスーツ姿や老人たちに、軽い嫌悪感やコンプレックスのようなものすら感じていた。


 そして、その小さなストレスのようなものをルビは必要としていたのかもしれない。

 少しネガティブなやり方だが、このコーヒーショップで感じる緊張感によって、自分の肉体と精神に目覚めのアイドリングがかかるような気がしていた。



 ルビは一作だけ小説をヒットさせ、その後の作品は少しづつ売り上げを落としている。

今はなんとか飯代だけは稼げているといった状態だ。現在の売上と評価が本当の実力であることは自分でもも十分に承知していた。


 普通ならば、新人の作家が売上を度外視した自由気ままな執筆などは許されない。

しかしルビの所属する出版社が小さくアットホームで作家に無理をさせないことや、担当の三浦が商売根性の薄い人柄だということが重なりルビは放任されていた。



「いいよ、ルビちゃんの好きなもの書きなよ」


 売上の低さに責任を感じているルビに、いつも三浦はそう励ましの声をかけていた。正直ルビは作家としてスランプの状態にある。


 スランプの理由はというと……検討もついていない。

 そして、三浦がいつもいう「好きに書いていい」という言葉が、スランプ脱出の動機と危機感をぼかしてしまう原因になっていた。



 夢を心に描いた人間が、それ以外の職業に就いていると、現状の未熟さを「本当にしたいことじゃないから」と言い訳することができる。

 今生活している場所は「本来そこにいないはずの人間」であり、もっと実力と才能を発揮できる世界が別に用意されていると考えるのだ。


 しかし、夢の形を手に入れてしまうと、もう誰にも言い訳はできなくなる。

 そこで起きるスランプは手に負えないほど凶暴である。

 自分の本当にしたい仕事に携わったとき、人は最も危険な状態に陥るとも言えるのだ。

 幼い頃から小説家になることしか考えていなかったルビの抱えるスランプは切実で致命的だった。



 ルビはカフェラテとパストラミビーフが入った英国風サンドを注文し、タバコが吸える3階へ向かった。喫煙できる客席は1階よりも人が少ない。空いている2人用席にドスンと腰を下ろした。


 窓際のその席から、国道をはさんで対面に自分のマンションが見える。

 先ほどの通勤の流れを反対から見るかたちだ。カフェオレに砂糖を入れて口を付けると、軽くげっぷが出て、昨晩飲んだジンの臭いが鼻をつく。


 ルビは酒飲みだが、酒を飲むのがあまり好きではない。いつも酔いが回ってくると、その匂いの刺激で亡くなった父に関する過去の嫌な記憶が数珠つなぎで思い出されるからだ。

 ルビの父も物書きのはしくれだったが、結局本屋に自作を並べることなく生涯を終えた。

 出版関係とは少しつながりがあったようで、書籍の評論などの小さな仕事を請け負い、それを家業としていた。もちろん、そんな仕事の収入くらいでは家族を養えるわけもない。その補填をしていたのが看護師をしていた母だった。


 ルビの父親は、昔の文筆家そのものであり、作品の源泉を夜の街と酒とギャンブルに求めるタイプだった。


酒乱ではないがいつも酔っぱらっては大声で話し、家族にあきれられていたダメおやじの典型……。


 そして、ルビは祖母が大好きだった。

 祖母はルビの父親に「小説家みたいなヤクザな商売してんじゃねえ!」といつも口汚くののしる豪傑であり、戦中戦後を生きた苦労人の器のでかさを持っていた。


 精神的にか弱い子供にとっては、エネルギーの強すぎる両親よりも、”おばあちゃん”くらいの存在がちょうど良い。

 その小説家嫌いの祖母が亡くなったあと、すぐにルビの処女作の出版が決まった。ルビは少し後ろめたさを感じ、祖母の墓前で手を合わせて詫びた。



 9時を回ると国道の通勤もコーヒーショップの店内もひと段落して落ち着きはじめる。ルビはこの瞬間が好きでたまらない。

 食べ終わったサンドイッチの包み紙をくしゃくしゃに丸め、食後のタバコに火をつける。店内には高齢者とルビだけが残っている。


 ルビはおばあちゃん子だったが、老人は嫌いである。

 ルビの子供の頃の老人と現代の老人は異質だと感じている。その感情を決定的にしたのもこのコーヒーショップだった。


 ルビはこの店で2度も高齢男性に”ナンパ”されている。

 一見枯れて俗世間と切り離され、欲望を悟りによって克服したように見える老人男性の目の奥に「性的な光」を見つけたときから、ルビは男性老人に近づけなくなった。

 


ルビは同性愛者ではないが、子供の頃から男性が苦手で、近くに来られることを拒否してしまう癖があった。

 ルビにとっては女性は人間だったが、男性は大型の動物のように感じられる。近くで座られると、迫力のある大型犬がいるようで、本能的な恐怖を感じるのだ。


 おかげで30歳になっても男性経験はなく、逆に学生の頃には同性愛者の女性から何度か告白された。何か共通する”匂い”でもあるのか?とルビは不思議だった。もちろん告白を了承してもいないし、行為に走ったこともない。


***


 急に花が買いたくなりコーヒーショップを出た。まだシャッターの下りている店が多い駅前通りを歩くと、自分が社会に組み込まれていない人間に思え少し不安になる。


 朝マンションの窓から見た通勤の人たちは、今頃それぞれの会社で仕事を始めているだろう。嫌なことがあっても、人間関係がうまくいっていなくても、そこに居続けなければならない彼らを想像すると、自分が一般社会ではうまくやっていけない人間だということを自覚する。

「小説家」という職業に対して憧れや尊敬、うらやましさを感じる人もいるが、ルビはルビで会社勤めの人に引け目を感じているのだ。


 ルビは、自分に職業選択の自由がないように感じていた。何をするのも要領が悪いし、不器用なのだ。細く色白で幸薄そうな風貌から知的にも見られることが多かったが、勉強も得意ではない。生まれて初めてほめられたのが「作文」だったのだ。


――それよりもなによりも「ルビ」という名前に、ルビは自身の運命が縛り付けられているような気がしてならなかった。

 大人になってから祖母に聞いたことだが、ルビが生まれて役所に届けを出しに行く際、前もって夫婦で考えていた「詩織」という名前を、昼間から酔っぱらった父が強硬に「ルビ」で登録してしまったのだ。



 ”ルビ”は、あのフリガナの「ルビ」である。その軽薄さを受け入れる子供は少ないかもしれない……。

父は「ルビの語源は宝石のルビーなんだよ!」と役所でがなり立てたらしい。いくら語源でルビーであっても、日本で「ルビ」を言うときには、やはり”フリガナ”でしかないのだ。


 だからルビは自分の名前が嫌いだったし、そして自分が文章を書く以外に長所がないのも、この名前のせいだとも思っている。まあ仮に「詩織」だったとしても、どこか文学に通ずるところがあるので、どのみちルビは今の運命をたどっていたのかもしれない、という諦めの感情もあった。



 花屋のドアを引き、中に入ると強い草の匂いが鼻をさした。店員の女性とはすっかり顔見知りで、エプロン姿の彼女は「あら、どうも」と軽い言葉を出した。


 店員は陳列棚の整理をしていたが、ルビに挨拶をしたら、またしていた作業を続ける。ルビはこの距離感が気に入っていた。いろいろと話しかけられると、本当に欲しいものが選べない。

昔から「さあ、やってみて!」と催促されてうまくできたためしがないのだ。


 駅前のその花屋は小さいがセンスがいい。この街に越してきたその日から通っているから、今年で3年目になる。



花の購入する時、人間性や環境などがすべて現れてしまうものだ。

 色のセンス、部屋の飾りつけのセンス、服装や小物の趣味、花を買う人の経済力や生活習慣、どんな教育を受けてどういった精神性をもっているのかまで何となくにじみ出てしまう。


 だから花屋の店員の中には占い師くらいの眼力を持つ人もいるはずだ。

しかし、多くは語らずだまって微笑んでいるのだ。



 店員は「ミサ」といい、ルビよりも少し年が若い。 直感でルビと波長が合うことを察知したのか、週に1、2度訪れるときには少々の雑談を交わす。

 雑談の多くはどこのパン屋がおいしいとか、どこの雑貨屋にかわいいものが売られているとか、スーパーはどこが安いとかいったものだったが、知らない土地に引っ越してきたばかりのルビにとっては、ミサから得られる情報はかなり役立った。

 ルビは孤独で友人がいない。ミサと交す短い会話は、ルビにとって心を癒してくれる大切な時間だった。もしミサがこの店の店員ではなかったら、訪れる回数も半分くらいになっていたかもしれない。


 ルビは青いデルフィニウムとカスミソウを少しだけ手に取ってミサに声をかける。

 ミサは無言のまま笑顔をつくり、レジに向かった。


「寒いよね・・・また雪降るのかな」


「うん、寒い、降るかも」


 短い言葉を交わし、ルビは店を出た。



 小さく地味な花束を抱えて歩くルビの姿は、どこか退廃的で生命の潤いを感じない。色褪せたような弱い色の花と服、カスミソウとデルフィニウムの細長さとルビの痩せた体は、すべてが「線」でできているようで平面的だった。


 コツコツと道路を叩く足音までが細く、乾いて無機質に響く。


 さっきまで空を覆っていた雲は、少し隙間を見せている。


 冬の強い日差しがルビの額を照らす。ルビは二日酔いと昔の思い出によって重くなっていた心に、ふんわりとした安らぎのようなものが差し込んでくるように思えた。

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