【9号車】虚構の国(その4)~「心の友」

【13】

 6月に入ると、しらゆりちゃんのセーラー服は半袖の夏服となった。そして、7月に入ったところで梅雨もそろそろ本格的になってきた。

 土曜日の午後2時から3時の間に始まって、それから2~3時間ほどの間、二人の間で何となく催された「星の木」でのティータイムは、5月のしらゆりちゃんによる「乙姫心~」のあの日から、毎週定例の行事となって定着することとなった。そしてそれは6月、7月と続いたのだった。

 なお余談ではあるが、しらゆりちゃんの話によれば、このカフェはランチタイムの時間帯を除けば客の入りはそれほど多くはなく、週末の午後のひとときを静かな店内でゆっくりと過ごせて、それが彼女にとっては大きな魅力になっているという。

 一方、もやし君は「彼女の言うことには全く同感だ」と思いながらも、二人が長時間にわたって店内に居座ることでこの店の回転率を下げてしまうことになるのではないかと、そのことについて申し訳なくも感じていた。店内の出入口付近には「長時間の滞在はご遠慮ください」との貼り紙もある。それとは反対に利用客が少なければ、それはそれで気の毒なようにも感じる。そういうわけで、メニューの追加オーダーは結構まめに行うように努めた。

 それはさておき、この場では、もやし君の、彼がこれまで辿ってきた人生の遍歴について、しらゆりちゃんにいろいろと語る機会にもなった。


 少年時代の憧れだったブルートレイン「彗星2号」のこと、しらゆりちゃんと同じくらいの年頃だった時のこと、社会人になって「人生に絶望して潰れてしまった人」になった時のこと、人生に失敗して世間的に落ちぶれていった時のこと、そして独自に「ニヒリズム研究」を開始することになって、やがては「イデアと実存」の探求者となったこと、それらの過程を経てから、ようやくこの世界に辿り着いたことなど、これまで彼が体験してきた数々の出来事を彼女にいろいろと語ったのだった。

 彼のそれらについての一連の話題には、武勇伝らしきものは何一つなかった。


 こうして、カフェ「星の木」で行われる二人の談話は、いつの間にか毎週土曜日に開催される定例会のようなものになっていったわけであるが、場合によっては、それは閉店となる時間まで続くこともあった。

 閉店の時間になってから二人で店を出ると、しらゆりちゃんは虹ヶ丘公園の最寄り駅となる西結ヶ咲駅から電車に乗って、彼女のホームタウンである坂ノ浦港駅で降りてから帰宅した。一方、もやし君はいったん繫華街の方へと歩いて行って、それから中心街の最寄り駅となる結ヶ咲駅から電車に乗って帰宅した。結ヶ咲駅は西結ヶ咲駅の隣の駅で、坂ノ浦港駅までの途中にあった。


 そのうち、しらゆりちゃんは、もやし君と一緒に繫華街の方まで歩いて、結ヶ咲駅から電車に乗って帰宅するようになった。とはいえ、これはあくまでも帰途につく時の話であって、彼女がこの公園へとやって来る往路の時は、やはり西結ヶ咲駅で下車するのだった。

 これに関連した話題で、二人はある日、次のような会話を交わしたのだった。


「あたしが虹ヶ丘公園まで来るのに西結ヶ咲駅を使うのは、そこが最寄りの駅だからという理由もあるけど、それとは別に、あたしは人混みの中にいるのが苦手な方で、繫華街を一人でぶらぶらするのもあまり好きじゃないわ。賑やかな場所に一人で居るのって、あれはなかなか精神的に辛いものがあるよね。だけどそれは、あくまでも、あたしが一人の時の話。だから、誰かと一緒にいるような時には、また事情が違ってくるんだ。」 


「あ、それな。わかる。もっとも僕みたいな酔狂な風流人になってくると、繫華街を一人でぶらぶら歩きするのは、これも人生の味わいのうちだけど、それでも人気の観光スポットに単独で潜入とかいうのは、これは特段の事情がない限り、自ら進んでやろうとは思わないな。”ぼっちカラオケ”は普通に有り得ても、”ぼっち遊園地”は微妙かもしれない。”ぼっちディズニーランド”なんか、きっと難易度高いだろうな。」


「もやし君は、もしかして観光地が苦手な人なの?」


「うん、そうだな。だけど、それはもっとも自分が、ぼっちの非リア充であることを前提とした時の話だとは思うけどね。

 僕みたいな非リア充にとっては、リア充どもがウヨウヨと出現して湧いて出ては、あたりをゾンビみたいになってフラフラとさまよって、そういった場所というのは、あたかも魑魅魍魎ちみもうりょう跳梁跋扈ちょうりょうばっこする黄泉よみの国みたいなもんだよ。」

「〈黄泉よみの国〉は分かるけど、チミモウリョウ? チョウリョウバッコ? 何それ? もしかして、入試の共通テストに出るかな?」


「共通テストの国語に出るかもしれないね。魑魅魍魎ちみもうりょうというのは人に害を与える化け物の総称で、跳梁跋扈ちょうりょうばっこというのは悪人たちがのさばっているさまを指すそうだ。」

「あらまあ、ずいぶんな言いようね。もやし君はリア充の人たちが嫌いなの?」

「別に、リア充が嫌いというわけではないし、憎んでいるわけでもない。恨みも特にない。ただ羨ましいだけだよ。だけど、彼らの中にいると、何だか自分が惨めな気持ちになることはある。だから彼らが居そうな場所というのは、できるだけ避けたい。それが人情ってものだよ、たぶん。」

「そっか、なるほど。つまりそういうわけね。だけど、そういうあなたも、あたしとこうやって一緒にいる時は、傍から見れば、誰もが羨ましがるようなリア充になってしまうと思うわ。もっとも、ここは〈真・善・美〉の世界ではあるけれど。……」


「おお、なんとこれは! しらゆりちゃんにしては、ずいぶんと自信に満ちた大胆な発言だね。だけど、君の言ってることは正論だ。まあ、非リアルでリア充というのも変な話だけど。」

 しかし、それにしても、……〈世界〉について現実世界のことしか知らず、そして世俗的な幸福主義の人生観しか知らない、そういった人たちは僕と同じような境遇になると、人生がずいぶんと惨めなものになってしまうかもしれないね。

 自分に対する惨めさ、つまり自己憐憫から絶望の気分が醸成されて、他人に対する羨望の感情が嫉妬となって、やがてそれが嫌悪や憎悪や怨恨へと暗黒な方向へとドロ沼化して、それがやがて悪魔化して、しまいには市民社会の自由と平和に対する脅威へと至ってしまう。……心が弱い人などはこういった状況に陥りやすく、こういうのは現実世界では特に珍しいというわけでもない。しばしば観察される現象のようにも思う。」


「もやし君、たしか記事の中でも同じようなこと言ってたよ。それも一度や二度だけではなかったような。……」

「うん、そうだった。だけどこのことは、人に向けて語っているのと同時に、自分に対する警告や戒めのつもりでもあるんだ。こういった人類にとって大変に重要な問題については、繰り返し学習していく必要があると思うよ。

 人間の精神が〈世俗的な幸福主義〉や〈俗物根性〉の呪縛から自由になることができれば、それだけ不幸な感情からも自由になることができるだろう。消極的な幸福論ではあるけど、夢想家や詐欺師の説く幸福論よりは現実的で実践的なはずだ。」

「これは、もやし君にとっては大変に重要なこと。……もやし君は〈自由〉について語るのが本当に好きなのね。あたしも大事なことだとは思うけど。」


「うむ。われわれが、求めるものは自由。願うのは平和。」


「もやし君にしてはカッコいいこと言うわね。またそんなセリフどこで覚えたの?」

「キーハンター。大昔にそういうテレビドラマがあってね、僕はリアルタイムで見たことはないけど、僕がまだ生まれる以前の時代に放送してたらしいよ。OPの映像と音楽がとてもカッコよかったのを覚えてる。」


 そうして、カフェ「星の木」がまもなく閉店の時間になって店から出ると、二人は建物の正面側の階段の方には進まずに、二の丸跡の広場に連絡している歩道橋の方を渡って行った。それから河岸のある広場を通って幹線道路まで出ると、のぞみ川に架かる歩道と車道の幅員が同じくらいの広さになった何やら芸術性が感じられそうな橋を渡って行った。対岸に着いてすぐの場所にあるやや長めの横断歩道を渡ると、そのまま直進して、ここで川岸に沿った裏道のような細い路地に入ってから、そうやって繁華街の方へと歩いて行った。

 「星の木」から結ヶ咲駅までは距離にして1.5kmていど、時間にすると20分ほどの道程みちのりである。


 さて、芸術性が感じられる橋を渡ってから長めの横断歩道を渡り、川沿いの裏路地のような歩行者専用道へと進んで行くと、対岸には市役所のビルと現代建築のビル群が、またそれら建物の双方に挟まれて相対的に小ぢんまりと見えるお城の天守閣などが泰然自若と立ち並んでいる景色を眺望することができた。リバーサイドの景観に親しんでいると庶民的なカフェのテラス席になった場所に来て、そこを通り抜けると、間もなくして右へと曲がって、音声ガイド付きの小さな横断歩道を渡った。

 そして二人は、この街で最も有名な老舗デパートの立地する街区までやって来た。そのデパートは壁面がチョコレート色をした8階建ての建物で、屋号は「ホシゾラリンチャンドー」といって、この街では古くから市民に親しまれている百貨店らしい。その裏にはさらに12階建ての新館も建てられている。デパート本館の正面玄関は、かつては路面電車も往来していたというこの街で最も主要な幹線道路に面しており、また本館の裏側となる裏路地には新館を中心にブティックや市民が憩える広場などがあって「裏路地おしゃれスポット」のような華やかさがあった。新館1階の正面玄関のすぐ横の場所にある壁面が総ガラス張りになった店舗には、低所得者層には敷居の高そうなアフタヌーンティー・ティールームが入居していて、このやや高級そうにも見えるティールームの存在が、そのことをさらに裏付けているようだ。


 もやし君は、ホシゾラリンチャンドー新館1階のガラス張りになった壁面の一角に「AfternoonTea」のロゴマークが貼ってあるのを見かけると、消費社会を満喫していた頃が急に懐かしくなったのか、彼はそこで突然立ち止まって、しらゆりちゃんに話しかけた。

「へえー、ここアフタヌーンティールームだったんだ。ここのアールグレイは柑橘系の芳香が強く感じられて結構好きだったな。自分のアールグレイの味は、この店のが基準になってるかもしれないな。だけど、まともな社会人から脱落してからは一度も行ってなかったような。……しらゆりちゃんはこの店知ってる? ここは、なかなかの高級店だよ。」

「そう言われてみれば、何だかセレブなオーラが漂ってるような気もするわ。ここは高級店なのね、そうなんだ。このお店のメニューの単価はどれくらいなんだろう。」

 もやし君はスマホでアフタヌーンティーのサイトをググると、彼女に答えた。

「紅茶はオリジナルブレンド、ダージリン、アールグレイ、アッサムなど、すべて税込みで836円だって。そうか、20年前と比べると80円くらい高くなったのかな。」

「図書館のカフェだと、Mサイズが4回おかわりできる計算になるよ。」

「うーん、そうだよね。だからこの店は、やっぱり高級だよね。」

「あたしの両親の会社もティールームの事業はやってるけど、たぶん値段はうちの店といい勝負だと思うわ。だけど、うちの店は観光産業の性格が強いし。……このお店はまだ開拓したことはないけど、だけどそうね、ここのダージリンは気になるわ。」

「おお、今のはもしかして、さりげなく、お嬢様らしい発言だったかも。」

「えっ!? そうだった? ま、まあ、そうだな、そういうことにしておこうかな。だけど、紅茶の王道はやっぱりダージリンだと思うわ。」

「うーん、そうなのかあ。オリジナルブレンドが王道ではなかったんだね。」


 それはさておき、ここで、このスポットで無料の憩い場となっている広場についてであるが、ここは老朽化したビルを取り壊した跡地を利用して比較的最近に出来たものらしい。この広場の周縁にはシルバーのステンレス製で流線形の車体をした、おそらく輸入車であろうトレーラー式のキッチンカーが四両ほど駐車されてあって、それがこの街区のお洒落感を一層引き立たせているように思えた。これらトレーラー式のキッチンカーの他にも、トラックの貨物室を改造した自走式のキッチンカーも2台ほど営業していた。それらはつや消しの黒に塗装されていた。

 それぞれの店舗ではカレー、スパゲティー、パニーニ、肉類の串焼きなどの軽食、それに併せて100%フレッシュジュース、レモネード、コーヒー、生ビールといった飲み物も販売していた。

 また、この界隈の路地は舗装路ではなく石板を敷き詰めた様式で整備されており、街路樹は3本しか存在しなかったが、西洋風のデザインを模した街灯やベンチの脇には大きめの観葉植物の鉢植えが設置されてあった。ここを往来する人たちもそんな街並みに合わせたかのように、どこか小ぎれいな身なりをしていて、この街区には華のある賑やかなムードが漂っていた。


 老舗デパート建物裏側の「裏路地おしゃれスポット」を通り抜けると、また車道との交差点に出た。この車道は昔には狭軌の路面電車も通っていたそうであるが、その割には道路幅は両側あわせて2車線となっており、それほど広くはない。歩道も設置されているが、路面電車の廃止後は歩道の方を拡幅したように思われる。この道路を渡ると、「海未うみ町2番街」というアーケードの商店街へと入って行った。ここで中心街もいよいよ繁華街らしい景観となってくる。

 6月のサタデーナイト、宵の口。街に漂う空気は、何やら甘ったるい感じがした。可愛らしい女の子を一緒に連れていたりすれば、なおさらだ。

海未うみ町2番街」は洋服店や宝飾店、生花店、コンビニや整骨院などの店舗も点在してはいたが、それにしても大部分は飲食店で構成されていた。隠れ家的な個人経営の小さな店から全国にチェーン展開するコーヒーショップまで、この細い路地に大小さまざまな店舗が集積していた。これから本日のディナーにしたり、飲み会に出かけたりする人たちも大勢いることだろう。この界隈には週末の夕暮れ時に相応しいとも言えそうな、雑踏の賑わいがあった。


 二人でてくてく歩きの道すがら、しらゆりちゃんは、あの店やこの店にいろいろと視線を投げかけると、いちいち指で差しては「このハンバーグおいしそうね」「ここのパンケーキ食べてみたいわ」とか話しながら、普段は無口というわけではないが、どちらかというと物静かでおっとりした感じのするこの少女は、いつにもなく気分が高揚してノリノリな状態にあるのか、そこには、いつになく饒舌じょうぜつで普段の彼女とはひと味違う、陽気で無邪気な屈託のない女の子の姿があった。

 車道の上を都市モノレールの路線が通るかなり広い幹線道路の大通りに突き当ったところで「海未うみ町2番街」は終点となった。この交差点の真上はちょうどモノレールの駅となっていて、駅の建造物が天上からふたかぶせたような設計で建設されているのだった。この交差点の周辺には居酒屋やコンビニ、金券ショップなどの店舗が営業しており、そのためだろうか、この場所には大都会のガード下や高架下にも似たような風情があった。

 この交差点を渡らずに左に曲がって300メートルほど直進すると、結ヶ咲駅に到着する。結ヶ咲駅の駅舎は14階建ての高層建築となっていて、大型の商業施設と高級なホテルで構成された複合ビルである。この地点からすでに、結ヶ咲の駅ビルをそれほど遠くに感じることもなく見渡すことができた。


 ついさっきまでお喋りだったあの陽気な娘はどういうわけか、この大通りを歩きだした時には、再び物静かでおっとりした感じのする少女に戻っていた。

 二人はしばらくの間、無言のまま歩いた。もやし君はしらゆりちゃんの方に時おり視線を向けてみた。彼女は前の方をまっすぐに見つめているようだったが、その表情はいたって朗らかで和やかなものに感じられた。そしてその様子は、彼に生まれて初めて恋人ができた時のことを思い出させた。もう、30年も昔のことである。 


 ――彼が生まれて初めての恋人は彼と同い年で、美人とは言えないまでも彼にとっては十分に可愛らしい女の子だった。

 彼の恋が奇跡的に成就されて、彼女と手をつないだり腰に手を回したり、お互いに寄り添うようにしながらK市のとある大通りの歩道を歩いている途中のことだった。

 彼女の方へふと視線を投げかけると、彼は思わず胸がときめいて、頭がくらくらとしてしまった。彼はこの現象を「ときめきの眩暈めまい」と名付けた。


「ああ、あの頃くらいに今の自分が若かったならなあ。……まあ、しらゆりちゃんの方が三十歳ほどオバさんになってくれても、それでも一向に構わないけど。……」


 その瞬間、もやし君は突如として、そこはかとなく悲しく寂しい気持ちになった。彼がそうした思いでしらゆりちゃんの方にそっと視線を向けると、彼は思った。

「そう言えば、ここに来るまでに彼女とは手をつなぐようなこともなく、彼女の身体には一指も触れるようなことはなかった。」

 彼にとって彼女は実の娘にも似た存在でもあるので、これは当然だと言えば当然のことなのだが、彼はここで、過ぎ去っては二度とは戻らない時間ときの流れというものをしみじみと感じては、それが何だか心に沁み入るような心持になった。


 やがて、先ほど登場したこの街で最も主要な幹線道路との交差点までやって来て、横断歩道の前で二人は立ち止った。ここから道路沿いに左の方を眺め渡すと、少し向こう側へと直進した所でやや屈曲していて、その場所に、これも先ほど登場した8階建ての老舗デパート「ホシゾラリンチャンドー」のチョコレート色の建物が夕陽を背にして泰然とした様子で構えている姿があった。屋上に立つ屋号のシンボルマークはネオンサインにもなっていて、建物の存在感をさらに際立たせているようだ。

 この交差点の界隈には居酒屋などの飲食店が多く立地しており、モノレールの駅とまたバスの停留所もあって、ついさっき通ってきた「海未うみ町2番街」ほどの人口密度ではないにせよ、通行人の数はそれなりに多かった。


「今日はもやし君と一緒だったから、賑やかな街もそんなに億劫じゃなくて、いつもより楽しめたと思うわ。」

「うん、それはよかった。僕も、いつになく楽しい気分だったよ。」


 横断歩道を渡って大通りの歩道をさらに直進すると間もなくして、駅の正面口へと連絡するペデストリアンデッキの歩道橋に上っていく階段が現れた。


 結ヶ咲駅は正面口の中央コンコースと中央改札口が3階にあって、列車が発着するホームは2階にあった。それでこの駅は正面口から列車に乗ろうとすると、地上からペデストリアンデッキのある2階に上がって、さらに3階まで上がって、改札を抜けてから2階のホームに降りていくという、どういう理由でそうなったのか、なかなか奇妙で面倒な構造をしていた。ここでペデストリアンデッキは駅前広場の役割を果たしているようだ。またその下になっている土地は車両専用道路となって、タクシーの乗降場や駐車スペースなどに利用されていた。

 14階建ての駅ビルはデザイン的に見れば、虹ヶ丘公園の図書館ほどには感興を催すこともない単なるハコものに過ぎなかったが、この駅ビルは都市モノレールの終着駅にもなっていて、駅ビルの正面にモノレールの線路が突っ込んだ形態の正面切った感じのする構造は、未来都市のイメージを彷彿とさせるようなカッコよさがあった。

 ペデストリアンデッキから眺めると、メトロポリス中央駅にもたとえられそうなその景観は、眺めていてなかなか壮観なものがあった。これは昼間に見るよりは、夜景として眺めた方がずっとムードがあった。ちなみに、モノレール駅のホームは駅ビルの4階部分に設けられていて、3階が改札口となっていた。

 

 この駅の正面口というか中央口は駅ビルの3階に位置していたが、1階にも改札口はあった。中央改札口と比べるとそれはマイナーな存在ではあったが、しかし利用のしやすさについては、むしろこっちの方が便利なように思われた。

 また、これは全く趣味の話ではあるが、1階の改札口の周辺には先代の駅舎の面影を現在に留めているような、そういった箇所がいくつか散見された。それらには昭和の情趣がそこはかとなく染み付いていて、それは、もやし君に対して心温まるような懐かしさを伴った喜びを与えるのだった。


 交わす言葉も少なく大通りの歩道を二人は歩いてきて、結ヶ咲駅のペデストリアンデッキの方へと昇っていく階段のところまでやって来た時、しらゆりちゃんはもやし君のシャツの袖をつまんでは軽く引っぱりながら、話しかけた。


「ねえ、もやし君、マックシェイク買ってよう。Sサイズでもいいんだにゃん。」


 その時の彼女の振る舞いはといえば、上目づかいのいじらしい仕草で、甘えるような声をさせてはささやくような物腰で、俗に言う男女の情交で「求めてくる」時にも似たなまめかしさすら伴っているかのように、もやし君には感じられた。


「はっ! キ、キューン♡ か、かわいい!!」

「ん? 急にどうしたの? なんで、もやし君がデレデレしてんのよ?」

「恋は〈する〉ものではなく〈落ちる〉もの、とはよく言ったものだな。……」

「えっ、恋って、まさか!? もやし君、どうしたの? 大丈夫?」

「あ、いや、何でもない。何でもないさ。……あ、シェイクね? うん、いいよ。」

「やったあ! サンキュー。」


 正直なところ、もやし君はしらゆりちゃんのことが好きだった。もっと言ってしまえば、恋してしまいたいくらいに大好きだった。しかし、彼女とは親子ほどの齢が離れた実の娘のような関係であって、彼女に恋愛感情を抱いてしまうことに対しては、やはり禁忌タブーに触れてしまう事案であると、彼はつねづね警戒していた。


 結ヶ咲の駅前には商店街やデパートが接近して立地していた。マクドナルドは商店街の入口付近にあった。マックシェイクを二人分テイクアウトで買い求め、駅の1階の改札口まで食べ歩きした。

 マクドナルドのすぐ横にはロッテリアもあった。もやし君は、そこで何か咄嗟とっさに思いついたかのように、しらゆりちゃんに話しかけた。

「さっきのおねだりは、なかなか〈あざとい女子〉してたね。でも僕は、こういうのは大変に好きだね。次回も今日みたいな感じでやってくれたら、その時はロッテリアシェーキをおごってあげよう。」

 しらゆりちゃんはもやし君の話に対して無邪気に応じた。

「うん、オッケー。まかせといて!」


 結ヶ咲駅ビルの1階には銘菓・おみやげ品の名店街と飲食店街をはじめ、コンビニなどが入居していて、地階には食料品専門のスーパーマーケットやドラッグストア、100円ショップなどの店舗が営業していた。1階のコンコースはそれらの各方面へと進める場所になっていて、そこに鉄道駅の機能として、自動券売機のみで構成された切符売り場、改札口、忘れ物預かり所があった。


 もやし君は、毎週土曜日に結ヶ咲にやって来ては、ここで1泊して日曜日の午後に帰宅するのが恒例になっていたので、特に事情がなければ、しらゆりちゃんのことは改札口まで見送ることにしていた。

 1階コンコースのフロアには、このビルディングの骨組みの一部を構成していると思われる、円筒形の太い支柱が5本、T字型になって等間隔で突っ立っており、その支柱の一隅いちぐうで二人は、この日の最後の会話を交わした。


「ところで突然だけど、もやし君は、カノジョがほしいと思う?」

「えっ? そりゃあ、僕なんかでよければ大歓迎だけど、それにしても、……これはまた突然に大ネタを振ってきましたね。可愛いフリして、君もなかなか大胆だね。」

「あら、また何わけ分かんないこと言ってるの? イミワカンナイですよ!」

「ああ、それはどうも失礼しました。だけどどうして、今頃になってそのような質問を僕にされるんです?」


 もやし君は、なぜかここで敬語になってしまった。しらゆりちゃんは一句一句と、慎重に繋げるようにして、そして、つぶやくように話を続けた。


「そうね、……あたしは今は恋人がほしいとは思わないわ。……あたしが毎週土曜日にもやし君と会うようになったのは、これはある意味で、放課後の部活みたいなもので、実際、それはあたしのためにもなってる。……あたしはもやし君の読者でファンではあるけど、だけど、あたしたちにはあたしたちのお互いの立場っていうものがあると思うの。……これまで毎週、あたしに付き合わせといて、こんなことを言うのも何だか失礼だとは思うけど、……ゴメンなさい。」


「そんなことないよ、僕も毎週きみと会えるのをとても楽しみにしてるんだ。それにしても、……そうか、見透かされてたんだな。君はもしかして読心術の心得でもあるのかい? 降参したよ。完敗だよ。君の瞳に乾杯。」

 もやし君はそう言うと、手に持っていたマックシェイクのカップで乾杯のポーズをしらゆりちゃんの方に向けてやってみせた。


「ん、それってダジャレのつもり? うーん、だけど、なんて言えばいいのかなあ。女の勘みたいなもの? ですが、とにかくですね、わたくしといたしましては、不純異性交遊は全く歓迎しません。ダメ、ゼッタイ。清らかにして純情、健全で健康的な交際を所望する所存です、ですわ。」


 その時の彼女の態度というのは、表面的には使い慣れない格式ばった表現を用いて冗談を交えたような、それは滑稽こっけいな語り口ではあったが、内面には芯のある毅然さを秘めているようにも感じられた。


「僕の本心を未然に察知して、君の方から抑止の行動を起こしてくれるのは、とてもありがたいことさ。僕の立場としては、いま君が明言したことに従うほかない。感謝するよ。それにしても、ずいぶんあっさりとフラれちゃったもんだな、ハハハ。」

「ごめんね。今日はこんなこと言っちゃったけど、……来週もまた会えるよね?」

「もちろんさ。いいともー。……それと、今度はロッテリアシェーキおごらせてよ。だけど、あの時の、あの表情に仕草、すごくよかったなあ。またぜひ拝ませてもらいたいな。演技でもいいからさ。しらゆりちゃんの〈おねだり〉は、あれは何だか妙にゾクゾクきちゃって、君は音楽の方面のみならず、バラエティの才能もあるのかな。これで僕はさらにあなたの大ファンになってしまいました!」

「あらやだ、懲りない人なのね。……うーん、そうね。あたしのファンになってくれたんだ。それは大歓迎だよ。じゃあ、あれはファンサービスってことで、またやってあげてもいいかな。楽しみにしてるといいわ。」

「わーい、やったあ!」


 二人が1階の改札口のところでこの日の別れを交わした後、もやし君は、彼が週末の〈別荘〉にしている、とあるネットカフェで夜を過ごした。

 一人用の狭い個室で、灯りもつけずに、ひとり横になって、彼はぼんやりと考え事にふけっていた。


「今日は、彼女の方からやんわりとフラれてしまったな。しかし彼女とは、やはり何らかの情緒的な絆によって結ばれている。それは〈愛〉の諸相における一つの類型には違いないのだが、しかし恋愛感情とはまた違ったものだ。……」

 

 社会心理学者であり倫理学者でもあったエーリッヒ・フロム(1900~1980)は、彼の著書『愛するということ』(邦題)の中で〈愛〉という心理現象について「親子の愛」「兄弟愛」「母性愛」「異性愛」「自己愛」「神への愛」と、それぞれに分類しながら解説していた。

 ここで補足しておくと、フロムが語る「親子の愛」とは〈母親の愛〉〈父親の愛〉についてであり、「兄弟愛」には〈隣人愛〉や〈同志愛〉に加えて〈友情〉もこれに含まれる。またフロムが言う「自己愛」は利己主義とは明確に区別されて、「個人主義は利己主義に非ず」と語るような場合と同様の説明がなされている。

 

 ――しらゆりちゃんとのつながりは、フロムの分類で言えば「兄弟愛」ということになるだろう。「異性愛」の可能性については彼女の方から否定された。そしてまた彼女が歌っている時は、ある種の神性が姿を現したようにも見えて、自分は全くそれに心を奪われてしまった。そうなると、彼女に対しては「神への愛」というのも該当するのかもしれない。

  

 もやし君がそんなふうにして考えを巡らせていると、そこでふと、ある過去の記憶がよみがえった。かれこれ20年ほど昔のことだ。


 ――あれは、もやし君が、まだまともに社会人をやっていて、関西の都会・K市に住んでいた時のこと、ある春の日のことだった。彼は職場の同僚であるS君と仕事帰りに某駅前の地下街にあるコーヒーショップに立ち寄って、コーヒーをすすりながら恋愛談義を交わしていたことがあった。S君は、もやし君に、このような意見を述べたのだった。


「いくら彼女を『愛している』と言っても、しかしそれは結局のところ『欲しい』と言っているに過ぎない。」


 S君にはS君なりの思いがあって、このような見解に至ったのであろう。精神的に未熟であった当時のもやし君には、S君の意見については素直には受け容れ難い何かを感じたものの、しかし彼が今頃になって思うのは、S君の言葉を一言に縮めると「愛欲」という単語で表現できて、つまりそれは「性愛の欲望」に過ぎない。


「あの時の自分は間違っていて、S君の言っていたことは正しかった。……」


 もやし君はここで、今日の出来事について思いをめぐらしながら、そうしてまた、ぼんやりとした思考の中へと、彼は沈潜した。


「……もしここで、しらゆりちゃんのことを『愛している』ではなく、『欲しい』と思ったなら、自分はきっと、あの子を失ってしまうことになるだろう。……

 また〈愛〉というのは、抽象的な理論や思考の中ではなく、具体的な行為や実践の中にある。……つまり、そういうことだったよな。 」


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 7月に入ると梅雨の天気も本格的となってきた。雨がしとしと降る、土曜の朝。

 もやし君は、この日は開館時間から図書館の自習室で、時間概念と客観的世界に関する哲学的な小難しいエッセイを読んでいた。11時前になると、しらゆりちゃんもここにやって来た。彼女は、もやし君の横まで来ると、このように言った。


「あたし、今日はあまり勉強とか読書とかする気分じゃなくて、こんな天気じゃ広場で歌うこともできないわね。……そうだわ、あのカフェのランチは、なかなかの人気メニューだったわね。小さなデザートも付いて、あれで500円だよ。なかなか良心的だと思わない? ねえねえ、今から一緒に行ってみようよ。」


「うん、それはいい考えだ。あのカフェのランチは僕たちが入店した時間にはいつも売り切れていたから、僕も久しぶりに食べてみたいと思ってたんだ。」

「よし、そうこなくちゃ。それでは、レッツゴー!」


 11時になって二人はカフェに入店した。あいにくの天気のためか、店内はいつもよりずっと客の入りが少ないように思われた。

 さて、ここの500円ランチのメニューは日替わりならぬ週替わりランチで、1日に数量限定で提供されており、12時を回った頃にはすでに販売終了になってしまうという、この店では人気のメニューらしい。ランチの内容は、ご飯・メインのおかず・サラダ・スープ・プチデザートといった品揃えで、これで500円(税込)というから、消費者側のコスパは抜群に良さそうだ。

 この日のメインのおかずはハンバーグで〈レモン風味マスタードソース〉といった一風変わった味付けとなっていた。サラダは水菜、クレソン、赤玉ネギの生食野菜にナス、ズッキーニ、パプリカをソテーしたのを添えてあった。スープはオニオンコンソメ味のカップスープで、表面にカイワレが2、3切れほど浮いていた。プチデザートは赤や黒の木イチゴの入ったゼリーで、それは小さなガラス製の透明な器に流し込まれていて、見た目にも涼しげだった。なお、ご飯の量は少なめで、ボリューム的には女性や子ども、高齢者の視点に立ったメニューと言えるかもしれない。


「今日はハンバーグだね、久しぶりのランチでこれはラッキーかも。レモンの酸味がハンバーグのヘビーさを和らげて食が進むな、これは。ところで、僕は酢豚にはパイナップルが入ってたら嬉しい方だけど、しらゆりちゃんは〈酢豚にパイナップル〉は許せる派? 許せない派?」

「ハンバーグから酢豚の話に飛ぶのは、もやし君らしいよね。あたしはどっちでもいいけど、酢豚よりは八宝菜の方が好きかな。あたしチンゲン菜が大好きなんだ。」

「チンゲン菜を炒めたの、あれ美味しいよね。僕も大好きだ。」

と、ハンバーグから始まった話がどういうわけかチンゲン菜に着地して、二人の会話はいつもこんな調子だった。


 ランチを食べ終わると飲み物を追加オーダーして、この日はランチタイムからそのままティータイムの談話へと移行することになった。もやし君はここで自分の家族に関する最近に起こった出来事について彼女に話したのだった。


「それで、うちの甥っ子の話なんだけど、甥っ子と言ってももう30になるんだけど、最近、こいつが家庭内暴力を起こしやがってさ。君よりもずっと年上だよ。まったくいい歳して勘弁してくれよ、って感じで、おじちゃんは情けなってくるよ。……」


 もやし君の甥が実家暮らしで30にもなって家に毎月1万2千円しか入れないのは前にも触れたことである。しかし、これも毎月欠かさず確実に入れているわけではなさそうで、たまに入れない月もあるようだ。

 年老いた母親(甥からすれば祖母)が甥の部屋の前で「今月はお金は入れてくれんのかね?」と話していると、この甥(孫)は「この家はどうせ崩壊する!」などと喚き散らしては、まともに取り合おうとする態度を見せない様子であった。甥の喚き声はもやし君の部屋まで届いた。その言葉が何度も聞こえてきた。この家を崩壊の危機から救うための努力を今や家族の中心となって行っている、もやし君の立場からすれば、この投げやりな暴言には、当然のことながら聞き捨てならないものがあった。


「この家の崩壊を促進している奴が、いったい何を身勝手なこと言ってるんだ。」


 普段は〈愛せない場合は通り過ぎよ〉をモットーとしているもやし君ではあるが、この時はさすがに黙って通り過ぎることができずに、彼は甥の部屋の前まで来ると、こう言い放った。

「無責任なこと言うな!」

 すると甥は反抗的な態度を露わにして返した。

「うるせえ! なんか文句あるんか!」

「だから無責任なこと言うなよ。」

「うるせえ! 貴様ッ、殺すぞ!」

「けっ、クソが。ジコチューのクズが黙れ。」


 これでは話にならない様子なので、もやし君はさっさと自分の部屋に戻ると部屋の仕切り戸を閉めた。すると甥は逆ギレして仕切り戸に金属製の物体を投げつけた。

 この家屋は戦前に建てられた古い物件で、各部屋は障子しょうじふすまを用いて区切られている。もやし君の部屋の出入り口はりガラスを建具に使用した障子しょうじとなっていた。甥の投げつけた物体はりガラスを割って、この障子の3分の1にあたる面積を崩壊させた。


「だから、さっきから『無責任なことはするな!』って言ってるだろが!」

「なんか、やるんか、貴様ッ!」

「30にもなって、そんな幼稚なこと言うなよ。悲しくなるぞ。お前、いつから鬼になったんだ。悪が正義に勝つようなことがあったら、本当に崩壊しちまうだろうが。何でも暴力でケリがつくと思うなよ。少しは冷静になって物事を考える習慣でも身につけろ。」


 もやし君は、今回の件の顛末について、しらゆりちゃんに話し終えると、それからさらに続けた。

「話はざっとこんなことなんだけど、それにしてもなあ、あいつもいろいろと事情はあるとは思うけど、子供のガキっぽさと大人のずる賢さを受け継いだような卑劣漢になってほしくはないよなあ。」

「甥っ子さんの身に何があったのか、あたしには分からないけど、もやし君の家庭もいろいろと大変みたいね。」

「〈金持ち喧嘩せず〉とは言うけれど、貧乏人にしてみても心まで貧しくなければ、人並みに愛する能力が備わってさえいれば、ケンカする必要など無いはずなんだが。貧乏人の子が奴隷道徳を克服して貴族的な精神を持ち合わせるというのは、やっぱり至難の業なのかなあ。僕は全く受動的な運命論みたいなのはヤダなあ。……」


 夏への季節の移り変わりとなるこの時期、スッキリしない雨模様の天気が続いた。ガラス張りの壁面から見えた外の景色は雨に煙って、全体に暗くて重たそうな灰色の調子を帯びていた。


 しらゆりちゃんは、もやし君が話しているのを聞いて、

「もやし君はもやし君なりに、これまでだけじゃなくて、今もいろいろと苦労してるのね。だけど今こうやって、あたしと一緒にいることは、それは決して悪いことじゃないよね? あたしは、もやし君に会えてよかったと思ってるわ。」 


 彼女はそう言って彼のことを慰め励ました。そして「この曲は、こんな歌だったかしら?」と言っては、もやし君が青春時代に慣れ親しんだ、彼にとってはとても懐かしい楽曲をささやくようにして、少しばかり歌ってくれた。


「リンダリンダー リンダリンダリンダー♪ 

              リンダリンダー リンダリンダリンダー♪ 」

 

      ……ドブネズミみたいに

         誰よりも やさしい

          ドブネズミみたいに

           何よりも あたたかく


      ……もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら

         そんな時はどうか愛の意味を知って下さい

          愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない

           決して負けない強い力を僕は一つだけ持つ


              ――THE BLUE HEARTS「リンダリンダ」――

                (作詞:甲本ヒロト 作曲:甲本ヒロト)


 しらゆりちゃんの思いやりの言葉と歌とによって、外のじめじめとした灰色の景色とは対照的に、屋内には一面にほのぼのと明るく清涼で、温雅で和やかな雰囲気に満ちているように、もやし君には感じられた。

 彼はしらゆりちゃんと出会うことによって、自分の情けないばかりの人生も少しは肯定できるような気がしてきた。

「とりあえず、今まで何とか生きてこれてよかった。もっと人生を愛さなければ。」

 ――そのような気持ちが、ささやかではあるが彼の内に芽生えたのだった。


「それにしても、いったい何と言えばいいのだろうか、……あの甥にしても、聖なる存在者から放たれる神々しい輝かしい光にほんの少しでも触れることができたなら、少しは畜群から人間へと成長できるかもしれない、進化できるかもしれない、そしてまた、自己の人生を、利己主義ではなく、もっと愛することができるようになるかもしれない……だったらよいのだが。」


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 7月の中旬に入ったあたりの土曜の午後。梅雨は未だ明けず。とはいえ雨上がりの晴れ間の数だけ夏が近づいてくるのを感じる日々。


「うちの学校では、1学期の期末テストは、現代文が読書感想文の提出ということになってるの。1年の時は『イワンのばか』、2年生は『ロビンソン・クルーソー』、それで3年生の今回は、この本が課題図書になってるの。」


 定例ティータイムの場で、しらゆりちゃんは、もやし君にそう言うと、彼に一冊の文庫本を紹介した。ヘルマン・ヘッセの『デミアン』という小説だった。

 彼女の話では、これらの課題図書は昔から変わることがなく、ある意味において、これが”トラ女”の伝統や教育方針みたいなものになっているという。期末テストが近づくと現代文の授業はしばらくの間は自習の時間になって、それを読書と作文の時間に充てるということになるのだが、勉強のできる子や文学を愛する子などは1年生の時の自習の期間内ですでに3作品とも読み終えてしてしまうのだそうだ。そして彼女は「そんなの信じられないことだわ!」とつぶやきつつも、さらに話を続けた。

  

「あたし、そんなわけで読書感想文を書くことになったんだけど、課題図書になった本にある、この物語の主人公のシンクレールという名前の男の子はどこか、もやし君に似てるような気がしたから、だから『私の友人にちょうど〈自己の探求〉というのを実践しているような人がいて、物語の主人公の姿と友人の姿が重なって見えたように感じたので、次に会った時は、この本をその人に紹介したいです。きっと気に入ってくれると思います。』って書いたの。そうしたら、なぜか先生に好評だったわ。」


「へえー、そうなんだ。感想文が先生にウケたんだ。それはよかったね。僕も大学生だった時は期末試験がレポート提出だった講義が多かった気がするけど、あれは文学部だったからかな。もし法学部なんかに行ってたら、きっと留年してたに違いない。それにしても、高校の期末テストが作文提出なのは、少数精鋭の進学校だからできることなのかな。なかなか進歩的な学校だねえ。」


「ふふ、そうなの? もやし君もちょっと読んでみる?」


 しらゆりちゃんは、微笑みながらそう言うと、それは偶然なのか故意なのか、あるページを開いた状態で、もやし君にその文庫本を手渡した。


「えっ、いいの? それでは、ちょっと中身を拝見させてもらおうかな。……」


 ……神がわれわれを孤独にし、自分自身に立ち帰らせる道はいろいろある。その当時、神は私に対して上述の道を取った。それは悪夢のようだった。

                (中略)

 ……「いずれにしても大酒飲みや放蕩者の生活は、非の打ちどころのない市民の生活よりおそらく活気はあるだろう。そして――いつか読んだことがあるが――放蕩者の生活は神秘主義者になる最上の準備の一つなんだ。聖アウグスティヌスのように予言者になるのは、いつもそういう連中だ。聖アウグスティヌスもかつては享楽児で道楽ものだった。」

                (中略)

 ……私たちの最後の、すこぶるおもしろくなかった、めぐり合いの際、彼が道楽ものと聖者について言ったことも、突然まざまざと心に現われた。私はそのとおりになりはしなかったか。酔いと汚れ、まひと背徳との中に生きはしなかったか。そのあげく、まさしく反対なもの、すなわち清浄への願いや聖者へのあこがれが、新たな生活衝動をもって私の中に活気づいてきたのではないか。


        ――ヘルマン・ヘッセ 高橋健二 訳『デミアン』(新潮文庫)――


 そこに書かれてあったことは、なるほど、もやし君の過去の体験にも通じる内容であった。彼は最初の一文を目にするや否や、まるで何かに憑り付かれたかのように、あたかも自らの生命を求めるかのごとくそれらの文章に目を通した。一瞬、本の世界に引き込まれたものの、ほどなくして彼が我を取り戻すと、彼には、この作品が大変に興味深く面白そうなものに思われた。

 この日にしらゆりちゃんと別れた後になって、彼は駅ビルの中にある書店に立ち寄って『デミアン』の文庫本を購入した。なるほど、もやし君はこの小説の主人公に対して並々ならぬ親しみの情を覚えた。それだからなのか、翌日には、すでにこの本を読み終えてしまった。 


『デミアン』の物語は、大まかに言えば、文庫本にある解説によれば「シンクレールという少年が、デミアンという年長の友だちの手引きによって真の自我を求めていく過程が描かれている」といった内容の作品である。そこにはニーチェの思想やユングの深層心理学の影響が随所に感じられて、人生の挫折の体験から「ニヒリズム研究」を開始したもやし君にとっては、己の心身に極めて浸透しやすい作品であった。


「自分の立場を物語の主人公であるシンクレールに重ね合わせてみると、しらゆきちゃんは、シンクレールの親愛なる指導者であり盟友でもあるデミアンということになるのだろうか? なるほど彼女はデミアンのような力強い知識を有しているわけではないが、しかし彼女の歌声には生命の底力を呼び覚ますような力強さを秘めている。彼女の人を導く能力は、たぶんデミアンのそれと通じるものがあるはずだ。」 

 もやし君はそのようなことを考えてみた。そして、この考えは彼にとっては大変に好ましいことのように思われた。彼はヘルマン・ヘッセの『デミアン』という作品を大変に気に入った。


 この小説をいったん読み終えてみると、作品の本文にあった次の記述は、もやし君の関心を特別に惹きつけた。というのも、これには、もやし君としらゆりちゃんとの関係性について、見事に言い当てているかのように思われたからだ。


 ……私はまたひどく夢を見た。しかも夜よりも昼しきりに夢を見た。さまざまの観念、形やあるいは願望が心にわいて来、私を外面的な世界から遠ざけたので、私は現実の環境とよりは、心の中のこれらの形や夢、あるいは幻と、より現実的により活発に交わり、かつ共に生きた。


 そして、デミアンがシンクレールに語った次の言葉は、これは当時(1910~1920年代)のキリスト教道徳を単に慣習的に自明のものとして鵜呑みにしてしまうことに対する忠告のようにも受け取れそうな内容である。『デミアン』という作品は、読み方次第では、18世紀から20世紀にかけてのヨーロッパの思想潮流の変化(教条主義→ロマン主義→実存主義)について言及しているようにも思えた。

 その一方で、もやし君にとっては、このくだりにあるデミアンの言葉は、己の人生に対する態度の在り方であったり、己の思想、哲学、美学の基礎をなす内容としても大変に相応しいものに思われた。これは「自分もこのような方針に則って己の人生を運営していくべきだ」という確信を彼に与えたのだった。もっとも、もやし君にとって、世界の半分というのは「世俗的な幸福主義」で、第二の半分については「イデアと実存」といった文脈に置き換えられてしまうことにもなるのだが。


 ……きみは人に言いうる以上に考えているよ。さて、そうだとすると、きみはきみの考えたとおりに生きてこなかったことがわかる。それはよくない。生活されるような思索だけが価値を持つのだ。

 きみの『許された世界』は世界の半分にすぎないということを、きみは知った。きみは、牧師さんや先生がやるように、第二の半分をごまかそうと試みた。そうはいかないだろう! いやしくも思索を始めた以上、それはうまくいきはしない。


 ……きみはたしかに殺害したり、少女をもてあそんで殺したりしてはならない。断じて。

 しかし『許されている』とか『禁じられている』とかいうことが実際どういうことなのか、悟るところまで、きみはまだいたっていないのだ。

                 (中略)

 ……だから、われわれはめいめい、許されていることと、禁じられていること――めいめいに禁じられていることを見つけなければならない。

 禁じられたことをまったくなしえないで、しかも大悪人になるということはありうる。その逆も同様に言える。――実際それは気楽さの問題にすぎない!

 自分で考え、みずから裁き手になるには気楽すぎる人は、しきたりになっている禁制に順応する。そのほうがらくなのだ。

 他方また、自己の中におきてを感じている人もある。その人たちにとっては、れっきとした人がみな日常やっていることが禁じられているのだ。そして、ほかの人には厳禁されていることが、彼らには許されている。めいめい自分で責任を持たなければならないのだ。



 これまで、もやし君の人生というのは概して孤独なものであったが、この文学作品には「自分は孤独でありながら、どうやら孤独ではないらしい」といった、ある種の救済の可能性を示唆するような不思議な感慨を彼に抱かせた。そうやって彼を心強い気持ちへとなれるように鼓舞してくれそうな素晴らしい魅力を持っていた。

 また、この作品の中で語られたシンクレールの次の言葉は、もやし君の現実世界の人生にもそのまま当てはまってしまうような普遍性があって、彼にとっては特に含蓄に富んでいるように思われた。


 ……ああ、いまにして私は知った。この世の中で人間にとって、自分を自分自身に導く道を行くより、心にさからうものはないということを。


 ……私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。


 こうした、もやし君にとって重要な意味をなすような共鳴を禁じ得ない金言とも言えそうな言葉に次々と触れているうちに、その一方で、彼にも彼なりに文学の世界に見ている理想というものがあって、『デミアン』は、もやし君の抱く文学観ひいては人生観と大変に相性の良い作品であるように思われた。

 さらに付け加えれば、この文学作品は、もやし君の技量では相対化・表象化できるまでには至らず、そのモヤモヤで苦しめられているような事象を概念化・可視化させて、彼の「終わりなき日常」を援護してくれそうな記述が豊富であった。

 そこで彼は「やはり、文学というものは、こういうものでなければならない」と、つくづくと、そしてまた、しみじみと痛感するのであった。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 7月も半ばを過ぎた頃になると、梅雨は最後の畳みかけの状態となった。おそらく今年に入って一番と思われる非常に激しい雨を広い範囲にわたって降らせ続けた。

 しかし、下旬に入る頃にはきっと今年の梅雨も明けて、どんよりと重たそうに低く垂れこめた雨雲は、やがては水平線から天空に昇ろうとする綿菓子のような入道雲と交代して、強い日差しの照りつける、晴れた真夏の天気が訪れることになるだろう。


 さて、しらゆりちゃんが、もやし君に提供した文学ネタは『デミアン』だけにとどまらなかった。彼女は引き続き、定例のティータイムの場において、このような話題を彼に仕掛けたのだった。

 彼女はニコニコと微笑しながら、もやし君に話を振った。

「あたし、きのう学校の授業で、こんな詩を習ったの。この詩を現代語訳にしてきなさい、って宿題になったんだけど、もやし君はこの詩のこと知ってる? もやし君だったら、こんな詩の現代語訳なんて造作もないよね。あたしは知っているわ。」

「何の話すか、それ?」

 彼はそう言いつつも、彼女からプリントを受け取ると、その内容に目を通した。



               山のあなた


                     カール・ブッセ 作 上田敏 訳


      山のあなたの空遠く「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。     


   噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。     


      山のあなたになほ遠く「幸(さいはひ)」住むとひとのいふ。 

 


           【もやし君による現代語訳】


      山の彼方の空の遠くに「幸せ」が住んでいると、人々は言う。


   ああ、吾も人も、誰もがそれを探し求めてっては、

              目に涙をためながら、帰って来たのだった。


      山の彼方のさらに遠くに「幸せ」が住んでいると、人々は言う。



 またプリントの下半分には、次のような記述が印刷されてあった。


 ……プルーストの美学の中には、これからある世界に入っていこうとするとき、

つまりその世界に強い関心と憧れを抱いているときと、そしてその世界を去ったり、その世界を失ってしまったあとになって、回想するときに最もその世界の魅力を

味わうことができるという美学がある。

                (中略)

 ……プルーストによれば人生上のいろいろな価値はそれに憧れているときと、それを回想しているとき、つまりある距離を置いたときに一番美しいのだが、芸術とは

いわばそうした距離を置いて人生を見ることを可能にする装置のようなものなのだ。それはいいかえれば、現実を内的なビジョンによって見るということだろう。

         ――『人と思想127 プルースト』(石木 隆治著、清水書院)――


※注)カール・ブッセ(1872~1918)

    ドイツの詩人・作家。新ロマン派に属した。

    日本では、上田敏が1905年(明治38年)に訳詩集『海潮音』に収めた

   「山のあなた(Über den Bergen)」で知られる。上田の名訳のおかげで 

   「山のあなた」は国語教科書にもたびたび採用されたのでドイツ本国では

   殆ど無名のブッセは日本での方が随分有名と言われている。


   マルセル・プルースト(1871~1922)

    フランスの小説家。代表作『失われた時を求めて』

    ジェイムズ・ジョイス、フランツ・カフカと並び称される20世紀西欧文学

   を代表する世界的な作家として位置づけられている。

                        ――Wikipediaより引用――


 もやし君は、ここで思わず「はっ!」と息を呑んだ。

 どういうわけであろうか、ここに書かれてあることは、もやし君のこれまでの人生の遍歴を端的に指し示しているではないか!

「何なんだ? 何なんだ? この驚きの普遍性は!! 君の学校では授業で人生哲学でもやっているのかい? 素晴らしい先生だね。」


「もやし君、ちょっと興奮してる? だけどそうね、リエちゃん先生は授業でこんなことも言ってたわ。……」

 

 ――この詩は、未来の希望に満ち溢れているあなたたちには、まだピンとこないところがあるかもしれません。けれども、将来になってから、あなたたちも人生の悲哀というものを身に沁みて知る時が来るかもしれません。

 そんな時は、あなたたちも芸術の目で人生を見る修行に精進されて、人生の味わいを知るすべを会得して、人生を深く生き、実りある人生を送ってほしいと思います。あなたたちの人生には辛いこともいろいろとあるかもしれませんが、けれども、皆さんには、幸せな人生を送ってもらいたいと思います。


「なかなか良いことを言う先生だね。僕と同じことを言ってるような人がいるんだ。この人とは何だか気が合いそうだ。……そうか、リエちゃん先生なんだ。ここで全く関係のない話だけど、しらゆりちゃんは〈ニコチャン大王〉という鳥山明のマンガに出てくるキャラクターを知ってるかい?」 


「あ、それ知ってる。たしか『Dr.スランプ』とかいうタイトルだったかな。子どもの頃にパパの持ってるマンガの単行本で見たことがあるわ。だけど、リエちゃん先生はニコチャン大王とは違ってスタイルが良くてなかなかの美人なのよ。教育熱心で、生徒からの人気も高くて、だけど仕事への情熱が強すぎるのかな、45歳になってもまだ独身なの。リエちゃんは仕事熱心で、理想家で、ついでに言うと、男性に対する理想もかなり高いみたいで、それでこの歳まで売れ残ってしまったみたいね。大変に遺憾なことだと思うわ。」


「そういった意味では、リエちゃん先生も残念な人なのか。……だけど、僕のような明らかな人生の負け組とはちょっとわけが違うようだな。きっと近い将来、君の学校の校長にもなれるくらいの器の持ち主なんだろうね。僕のようなただのダメ人間とは全く違う世界に生きてる人なんだろうな。」


「そうね。リエちゃんは、もやし君みたいなダメ人間にはもったいない女性ひとだと思うわ。残念でした。……お前はもうフラれている。」

 しらゆりちゃんは、もやし君の方を指をさして、からかい気味にそう告げた。


「ひでぶ、あべし。ぷぎゃあああっ! お前はケンシロウかい!……それはそうと、たしかにそれは正論だとは思うけど、ストレートで返されると何だか悔しいな。

 だけど、カール・ブッセの詩に、そしてプルーストの美学か。……人生ってやつはつくづくロマンだよな。僕はそう思うよ。」


「そう言えば、先月だったかな。もやし君、寝台特急〈彗星2号〉の話してたよね。ブルートレインに青い鳥のイメージを重ねてしまう、そんなもやし君も、なかなかのロマンチストだと思うわ。」


「〈彗星2号〉か。懐かしいなあ。……これにはまさに、プルーストの美学に通じるものがあるかもしれないね!」


 もやし君がそのような話をした、その刹那、――「今、ここ」で、しらゆりちゃんが眼前に存在していることが、彼には何だか殊更に感慨深いことのように思われた。

 そして、もやし君がしみじみとした感慨へと浸りつつあった、ちょうどその時、


――「そうだ!」


 しらゆりちゃんは突然、その場の雰囲気にはまるでそぐわない、素っ頓狂な声を、ここで発したのだった。もやし君は思わず「はっ」と目を丸くして彼女の表情に注意を向けると、彼女は何だか得意そうな表情を浮かべながら、彼にこう語った。


「そうだ、もやし君。夏休みになったら、一度うちの店に遊びに来ない?」

「えっ、”うちの店”って何!? スナックゆり子? ガールズバー・リリー? 僕は思わず勝手に期待してしまったけど、けれども、君はまだ高校生なのに、そんな店で働いてもいいのかい? 処分の対象になるような心配はないのかい?」

「もしもし、もやしさん? また何わけの分からないこと言ってるの? イミワカンナイですよ? うちの店はいたって普通の、いや、それよりも、……そうね、ちょっとは由緒のある割烹料亭なのよ。」

「割烹料亭って、……あの、まさか、もしかして接待でもしてくれるのかい?」

「まあ、そういったところかしら。楽しみにしてるといいわ。」


 しらゆりちゃんは機嫌よさそうにニコニコしながらそう話すと、テーブルの上に置いてあった彼女のスマホを手に取った。今まで全く気にも留めていなかったが、よく見てみると、それはメタリックブルーの最新型のiPhoneだった。

「おれの、購入してからから4年目になる安物のアンドロイド端末とは、ちょっと訳が違うぜ。……」――そこで彼は思い出した。彼女は地元にある有力企業の社長令嬢だったのだ。


「そう言えば、お互いの連絡先、まだ交換してなかったね。」

「ああ、そうだったね。僕の電話番号を言うから、ワン切りしてよ。登録しとくよ。ついでに僕のメアドも教えておこう。」

「うん、わかった。」


 もやし君はここで、普段は決して他人に見せることのないような大変に無邪気な、朗らかな表情になって、しらゆりちゃんに語った。

「〈夏休みの楽しい計画〉みたいなのがあると、何だかワクワクしてくるね。」


「ふふ、そう? 坂ノ浦が港町で、この地域でも一番の観光地だっていうのは前にも話したことがあったよね。でも、もやし君は観光地は苦手な人だったよね。あたしも人混みとかは苦手な方だから、それはわかる気がするわ。だけど、坂ノ浦はやっぱりいい所だから、だから、あたしからこの街を、もやし君に一度、案内してあげたいと前から思ってたの。」


「そうかあ、それはわざわざありがとう。君の地元愛に乾杯だね。君がガイドさんを務めてくれるんだ。そりゃあ、今から楽しみだな。僕は大変に光栄です。」

「そうそう、そうこなくっちゃ。ぜひ楽しみにして待っててね。」


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 時刻はそろそろ午後4時を回ったところだろうか。もやし君はここで飲み物の追加オーダーをしらゆりちゃんに提案した。それから二人は次の話題へと入って、さらにこの場に居座っては談話を続けた。


「今日は18日か。そろそろ学校が夏休みに入る時期だね。しらゆりちゃんの学校は普通に夏休みはあるの?」

「うちの学校は月曜日に終業式があって、それから夏休みだけど、『普通に』って、どういうこと?」

「それは、僕が大昔に通っていた高校というのが田舎の自称進学校で、補講がやたらと多くて、しかも強制参加で。3年生の時の夏休みなんて1週間くらいしかなかったなあ。もっとも当時の僕は私立大の文学部を志望していて、入試科目も国語・英語・社会の3教科だったから、理数系の教科は逃げてたけど。」 


「ふうーん。何だか忙しそうな学校ね。生徒も先生も大変そう。うちの学校は、勉強のできる子たちは予備校の夏期講習に通ってたかな。あたしは芸大専願だから、普通の生徒とはちょっと事情が異なるんだけど。」

「へえー、そうなんだ。しらゆりちゃんは受験勉強とかはしなくていいの?」


「あたしも夏休みから本格的に受験の準備をしようと計画してるわ。ママの知り合いで音楽家の先生がいて、中学に入った時からあたしの家庭教師をしてもらってるの。

 その先生というのが東京芸大の出身で、声楽や器楽のレッスンだけじゃなくて受験の傾向と対策にも協力してくれるって言ってたわ。」

「東京芸大卒の音楽家の家庭教師かあ。資産家のお嬢さんというのは、何ていうのかなあ、すごいなあ。」

「あら、そう? ……あっ、そうだった!」


 しらゆりちゃんは、ここで突然、何かを思い出したようだった。それから、さらに話を続けた。


「それでね、あたしもこれから家庭教師の先生のもとで本格的に受験の準備をすることになって、夏休みの予定はそのスケジュールでほぼ埋まってしまうことになりそうなの。それで、しばらくの間は、結ヶ咲の方にも来れそうにもないわ。突然こんな話になっちゃって、こめんなさいね。」

「そうかあ。これまでのように君と会えなくなるのは、正直さみしいことだとは思うけど、だけど君も大事な時期だから、こっちがわがままを言うわけにもいかない。

 そう言えば、僕が大学受験の時も、夏休みを境にして一気に戦況が好転して勝算が見えてきた記憶があってねえ、……君も勝機を逸するなよ。がんばってね。」


「やさしいのね、ありがとう。」

「ところで、しらゆりちゃんは、志望校の方は決まってるの?」

「そうね、東京の芸大と、京都の芸大を受けようと思ってるわ。」

「えっ? 〈…の〉は要らないでしょ。東京芸大と、京都の方は市立芸大かな?」

「まあ、その通りなんだけど。受かればいいなあ。」


「君は、生まれきっての天然の音楽家なんだから、君の行動が純粋で素直なものなら芸術の神様も助けてくれるんじゃないかな。『神は自ら助くるものを助く』だよ。」

「Heaven helps those who help themselves. ――英語のことわざね。1年の時に授業で習ったことがあるわ。」


「なるほど。英語で言うと、そうなんだ。ミッション系の名門進学校の生徒さんは、田舎の公立の自称進学校の生徒とは、さすが格が違いますなあ。

 それにしても、……しらゆりちゃんがこれからさらに成長して、世界へと羽ばたいていくのは、それはとても楽しみだけど、それにつれて、君がだんだんと遠い存在になっていくんだと思うと、それはそれで、何だか寂しい気もするな。」


 二人はふと、窓越しの外の景色の方へと目を向けてみた。二人が入店した時には、雨は時おり勢いを強めたりしながら降り続いていたのであるが、それもいつの間にか止んでいて、空一面を覆っている雲にも、どんよりとした重たそうな気配はすでに感じられなかった。さっきまでは雨に煙って一様に灰色のトーンに染まっていた対岸の街並みも、そろそろ平素の表情を取り戻しつつある、そんな予感に満ちていた。

 

「もやし君は、あたしと会えなくなることが、さみしいの?」

「そりゃあね。だけど僕は、人情に通じた粋な風流人を標榜している手前、君の足手まといになるわけにはいかない。」

「まあ、そんなセリフがスラスラ出てくるなんて、あなたはよほど素敵な人なのね。

そうだわ。……あたしたち、さっきお互いの連絡先、交換したわね。」

「うん、そうだった。」


「あたしのことが恋しくなったら、電話するといいわ。あたしの声を聞かせてあげるくらいなら何とかなるかも。」

「それはありがとう。君もやっぱり素敵な女の子だ。……あっ、もうこんな時間か。僕たちもそろそろ行こうか。」

「もやし君はもう帰るの? あたしは今日は、閉店までここに居たいわ。」

「うん、それはいい考えだ。僕も君の意見に賛成だ。」


 それから二人は特に何を話すというわけでもなく、お互いに今その場から離れてしまうのが何だか忍び難いように思われたのか、カフェ「星の木」が本日の営業を終了する夕方の5時半まで店内に居座っては、ただぼんやりと時を過ごした。

 店を出ると、二人は結ヶ咲駅への方に向かって、いつものコースを歩きだした。


 図書館の建物の左端(東端)にある歩道橋を渡って、二の丸跡の広場、川沿いに面した噴水のある広場を通過した後、幹線道路の歩道へと出た。すぐに横断歩道があって信号待ちとなった。対岸にある街並みや河口にある工場の煙突などが眺められる。信号が青になって横断歩道を渡ると、のぞみ川に架かる道幅の広い橋を渡って、それから川沿いの歩道へと進んで行った。

 空には雨雲らしき姿はもはやなく、これから晴れた青空が徐々に広がりつつあるようだ。河口の方を眺めると、遠くには入道雲らしき姿も待機している。すでに西日となってはいるが日差しも復活してきた。さっきまで雨に洗われて、そして今になって日の光を浴びることになった川沿いの街並みは、ここで耀かがよい光景となって、彼らの前に姿を見せた。太陽はこの時間になって、明日には本格的な夏が訪れることを予告しに来たかのようだ。

 

 もやし君は、しらゆりちゃんに話しかけた。

「今年の梅雨も、このへんでようやく明けたようだね。」

 彼女は大きな欠伸あくびをする時のように両腕を大きく広げて背伸びした後に、ひと言、そっとつぶやいた。

「世界って、美しいなあ。」


 川沿いの歩道を少し歩くと、ホシゾラリンチャンドーデパートの本館の裏側と新館の建物の正面の双方に挟まれたアメニティ空間な路地に入った。この「路地裏おしゃれスポット」の界隈を通過すると、次は「海未うみ町2番街」のアーケードへ。時刻は夕方の6時前。通りを往来する人々の姿はまだ少ないようだ。梅雨は先ほど過ぎ去ったばかり。この界隈は、今夜はいつにも増して多くの人出で賑わうことになるのかもしれない。

 都市モノレールの駅の真下となっているために鉄道のガード下にも似た風情のある交差点に来たところで「海未うみ町2番街」は終点となり、ここからは車道にモノレールが立体的に並走している大通りに沿って、結ヶ咲駅の方へと歩いて行った。

 

「6月に入ってから毎週土曜日に僕たちはこのコースを歩いてたから、今回は7回目になるね。」

「もう、そんなになるんだ。だけど、そうだなあ。あのハンバーグの店は一度行ってみたかったなあ。」

 のぞみ川を渡ってから結ヶ咲駅に着くまでの間、二人はそうした他愛ない会話をぽつりぽつりと交わしては、てくてくと歩いた。


 今日は、しらゆりちゃんは駅前でマックシェイクもロッテリアシェーキもおねだりすることはなかった。

 ここで念のため説明しておくと、しらゆりちゃんの〈おねだり〉は、あの日以来、すっかりもやし君のお気に入りとなって、一方、彼女はというと、こちらもまんざらでもないご様子で、やぶさかでない感じの反応だったので、実はこれまで二人が駅前まで来た時には、これは毎度のお約束事となっていたのだ。

 とはいえ、今日に限って、彼女はそのことをすっかり忘れてしまったかのように、素っ気なく店の前を通り過ぎたのだった。彼はこのことに対して、彼女には特に何も言わなかったものの、それでもやはり多少の物足りなさを感じた。

 彼は心の中で、こうつぶやいた。

「ええっ? 今日に限って、スルーしちゃうんですか!?」

 

 二人が1階の改札口のところまで来ると、もやし君はいつものように、しらゆりちゃんを見送ることにした。すると、彼女は彼に、こう言った。

「今日はせっかくだから、ホームで別れようよ。」


 1階の改札口を抜けると次は連絡通路となっていて、そこから階段を上がって2階にあるホームへと向かう。この駅のプラットホームは1番線から8番線まであって、1・2番のりば、3・4番のりば、5・6番のりば、7・8番のりば、という具合に4本の島式ホームから成っている。なお、しらゆりちゃんが乗ることになる坂ノ浦港行きの電車は8番線からの出発だ。

 連絡通路から階段を上がって2階のホームに出ると、目的の電車はすでに停車していて、二人が出てきた階段は、ちょうど車両の最後尾にあたる場所に位置していた。

しかし、彼女は「先頭の車両に乗りたい」と言う。この電車は4両編成で、ここから先頭の車両まで行くには70メートルほど歩く必要がある。二人はホームを歩いて、その地点へと向かった。その途中にジュースの自動販売機があって、そこを通り過ぎようとした時だった。しらゆりちゃんはもやし君のシャツの袖を指でつまんで、彼のお気に入りである恒例の〈おねだり〉を今日は、ここでやってくれたのだ。


「ゆり子、”おいしいミルク バニラ”がほしいでちゅー。買って、買って、買って、買って!」


「んー、130円かあ。べにしょうがない子だなあ。……ところでさ、君いま自分で自分のこと『ゆり子』って言った? 言ったよね? それに『でちゅー』って、おお、これは新しい展開だ! 君に胸キュン。」

「えーっ、もやし君ったら、こんなノリが趣味なの? もしかして、ロリコン?」

「ゆり子ちゃんは、僕の娘のようなもんだ。グッジョブ。”いいね”星5つだ。」

「あはは、言ってることがよく分かんないけど、そうなんだ。……」

「それじゃあ、僕は100%パイナップルジュースにでもしようかな。」


 もやし君は、おやじギャグを交えたリアクションを返しては、何やらパァッとしたご機嫌な気分になった。二人がそんなやり取りを交わしている間に、しらゆりちゃんが乗るはずだった電車はバタンと扉を閉めると、とっとと発車してしまった。


 二人は、目の前を過ぎ去っていく電車に少しは気を取られはしたものの、しらゆりちゃんはここで特に残念がる様子もなく、もやし君との話を続けた。

「あー、行っちゃったね。もっと先の方にベンチがあるから、そこに座ろ。」

「うん。」


 そうやってホームを歩いている途中に、各方面への電車の出発時刻の掲示板があるのを見つけた。もやし君は、次の電車の時刻を確認した。 

「次の電車は18時16分か。18分後だね。次は8両編成みたいだよ。」

「あたしは、7時頃までに家に帰り着ければいいかな。」


 この掲示板の隣に、片面4席を背中合わせにして、全部で8席のベンチがならんでいたが、彼女が言うのはここではないようだ。すぐそばには立ち食いのうどんのスタンドもあった。余談ではあるが、しらゆりちゃんも、もやし君もすでに知ってはいたが、ここの立ち食いうどんは、口コミで「美味い」と評判なのだそうだ。


 先ほど彼女が指示したベンチは、このうどんスタンドを通り過ぎた場所にあった。二人はそこに腰掛けた。ここのベンチは片面10席を背中合わせにして、全部で20席あったが、電車の来ない間は座っている人もなく、席数の割には人気ひとけのない場所となっていた。

 8番線の線路の隣には貨物専用線が複線で並走していた。二人がぽつんとベンチに座って紙パックのジュースを飲んでいる間に、精悍そうな電気機関車が牽引するコンテナを積んだ長い編成の貨物列車が、ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、……と疾走しながら、彼らの目の前を通過していった。


「今になって何だか蒸し暑くなってきたね。これから本格的に夏が始まるよ。」

「そうね。……あっ、そうそう。今日カフェで話した、あたしたちの夏休みの計画、いつにしようかな。もやし君の、この日は都合がいい・悪いとかあったら今のうちに聞いとこうかな。教えて。」

「土日と盆休みなら、ほぼ都合がつくと思うけど、できれば土曜がいいかな。」

「うん、わかった。じゃあ、具体的な日時が決まったらメールするね。」

「オッケー、よろしく。楽しみにして待ってるよ。さて、このへんで、もうそろそろかな。君の家の門限からすると、今度の電車は、乗り遅れない方がいいよね。」

「うん、そうね。」 

 ここで、二人はお互いの顔を見合わせた。


「そろそろお別れの時間になっちゃうね。今日はありがとう。あたしの都合が整ったらメールするね。」

「ああ、待ってるよ。こちらの方こそ、ありがとう。」

「……もやし君、握手しよ。」

 しらゆりちゃんは、そう言うと、彼にの方に手を差し伸べた。

「君は、本当に素敵な子だなあ。」

 もやし君はそう言って、彼女の握手に応じた。すると、

「今日は、両手の方がいいな。」

 彼女はそう言うと、もう一方の手も添えた。

「お、これは嬉しいね。」

 彼はそう言って、彼女の作法に従った。


 二人はベンチに座ったまま、お互いに両手で握手を交わしていた、その時だった。しらゆりちゃんはもやし君の目を見つめては、凛としながらも優しげなまなざしで、彼に向ってひと言、こう告げた。


「現実に、負けないでね。」


 もやし君は、その瞬間、まるで我を忘れたかのようにただ茫然として、彼女の表情をただ無心になって、彼女の瞳を


「今見たのは、大天使だったのか、聖母だったのか、……しらゆりちゃんだ!」 


 彼が「はっ」と我に返った時、彼の目の前にいたのは、たしかに、しらゆりちゃんであった。

「あれ、どうしたの?」

「いや、なんでもない。……ただ一瞬、君に見惚れてしまったんだ。」

「ふふ、正直なのね。そういうの嫌いじゃないわ。むしろ素敵かも。」

「わかる、おれも。……だけど、これは何て言ったらいいのかな。何だか今、世界の真理みたいなのが一瞬、見えたような気がしたんだ。」

「あはは。ナニソレ? イミワカンナイですよ。」

「ま、まあ、そうだよね。……あっ、発車までもう時間がないね。この何やら魔訶不思議まかふしぎな知覚認識については、また次に会った時の話題にとっておこう。」

「そうね。もやし先生、楽しみにしてるわ。」


 そう言っている間に、次の電車がやって来た。しらゆりちゃんは、その電車の先頭車両へと乗車した。彼女が乗りこむとホームに出発のアナウンスが流れ、電車の扉のところでお互いにバイバイと手を振った、そうしているうちに扉が閉まり、それから程なくして、電車はおもむろに動きだした。

 8両編成の坂ノ浦港行きの電車は、じわじわと速度をつけながらホームに沿って流れるようにして遠ざかって行った。

 もやし君は、最後尾の車両の赤いテールランプの光を目で追いながら、その光景を何だか名残惜しそうに、切なくなるような心持で見届けた。


「それにしても、あの瞬間にふと見えた彼女の表情は、あれはいったい何だったんだろう。……あの神聖さ、神々しさ。神秘的だった。一瞬の刹那に永遠の実相を垣間見たかのようだった。しかし、それも今となってはすでに観念のうちにすっかり取り込まれてしまったのであるが。……とはいえ、あの時、思わずして触れることになった〈永遠の真理〉の残影だけでも、今は瞳の奥にしっかりと焼き付けておきたい。」

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