4-16.

       ◆


 カウンターテーブルに指先をすべらせて、シャノンは嗚咽を漏らしていた。マスターがおろおろと困り果てていてなんの作業も進まないので、わたしは勝手にカウンターへ入って珈琲豆の準備をし始めた。


 焙煎してある豆を電動ミルにざっと適量流しこみ、スイッチを入れる。ちょっと手慣れているのは、何度かマスターの手伝いをしたことがあるからだった。エスプレッソマシンの電源を入れ、ドーシングのためにフィルターをホルダーへセットする。その際に水気をしっかり取っておくよう気をつける。電動ミルが豆を挽く音が軽快に店内に響き渡る。


「あたし……このカウンターを知ってる。あの本棚も、そこの傘立ても……。此処に来たことがある……なのにマスターのことおもいだせない…………ううう、うう……」


 雨がしたたる赤い傘のハンドルを握り締め、カウンターの前に立ってシャノンは涙に濡れた声でちいさく叫んだ。


「ごめんなさい……!」


「な、な、な、泣くなって……! おい、いいんだよ、うちはそういうとこなんだ!」


 マスターが慌てて言うとカウンターへ身を乗りだした。シャノンと視線の高さをあわせ、まくしたてた。


「いいか? うちはいのちに関する悩みを持つ奴のための店なんだよ。なんにも気にするこたあねえ。な? お前さんみたいな奴が頼っていい場所なんだ」


 シャノンは真っ赤に泣き腫らした目をマスターへ向ける。祈るような声で呟いた。


「うううっ……そうなの?」


「そうだとも。なんで看板ひとつ外に出してねえか分かるか? うちには特別な客しか来ない。な? 安心していいんだ。なにかあったらこの店に来い」


 矢継ぎ早に言うマスターの声を聞きながらわたしはずっこけそうになった。もっとうまくやっているのかとおもっていた。へたくそだ。なんてへたくそなんだろう。笑ってしまった。


「来ていいの……?」


「ああ」


「ほんと……?」


「もちろん」


「ほんとにほんと……?」


「ほんとうだとも。嘘なんかつくもんか」


 大嘘つきですけどね。とおもいながら電動ミルから珈琲粉を取りだす。シャノンはとにかくなにかにすがりたいほどさみしいのだ……。こんな不器用なマスターの嘘を信じ切ってしまうほどに。極細挽きにした中深煎りの豆の香りがただよう。店内にしみこんだ珈琲の深い香りが、からだじゅう、全神経、五感に共鳴している。外からかすかな雨音が入りこんでくる。おだやかに掛け時計が一秒を刻んでいる……。


「ほんとうに、困ったらこのお店に来ていいの……?」


「いつでも来い。歓迎するぜ。日記に書いとけや」


「でもあたし、申し訳ないんだけど、あんまり珈琲は飲まない……だって苦いんだもん」


「シャノン、大丈夫ですよ。此処のカフェモカって美味しいですから。マスターがチョコレートシロップをたっぷり入れて作ってくれます。ね、マスター」


 わたしはにこやかに言いつつフィルターホルダーとタンパーをマスターの傷痕だらけの手に押しつけた。さっさと作業してください。いつまで客に器具の準備をさせる気なんですかこの人は。


「……あ、あの、あたしシャノンっていいます。よろしくお願いします!」


「おう。俺はナモってんだ。よろしくな。……だからもう泣くなって、頼むよ……」


 困り顔のマスターが面白かった。


「ナモ。ナモ……、ナモ……」


 噛みしめるように繰り返すシャノンの横から双子の片割れがひょこっと顔をだす。


「やれやれマスターよ、いつまでお喋りしているつもりだい? さっさとマキアートふたつ作ってくれないか」


「……適当に紅茶を頼む」


「ええい、いっぺんに注文すんな! 急かすな! うちは珈琲しか出さねえ! まったく。今日の客も、珈琲の味なんざ分かりそうもねえ乳臭いガキ共とまともに注文すらしやがらねえ憎たらしい若造かよ」


 トーガが朴訥な口調でツッコミを入れた。


「マスター、『今日の客も』って、おれたちや教官はともかく、シノさんとノクテリイさんは客ではないのか」


 シャノンはテーブルに立てかけられた見開きをゆっくりと開いた。天井から低い位置にぶらさがった照明の、暖色をそうっと伸ばし広げたような色あいでつくられている、紙製で、ペンで手書きされたお洒落なメニューだった。少し紙に濡れたあとが残っている。


「あたしの筆跡だ……」


 呟くシャノンをわたしはカウンターチェアーに座らせる。するとマスターが手元のミルクピッチャーに集中しながらなにかのついでみたいに言った。


「シャノンとムーウはうちでバイトでもしねえか」


 おもわず、わたしたちは顔を見あわせる。


「……俺は絵心とかねえしな、メニューやら看板やら作ってくれる奴がいると助かる。それから、此処にはコミュニケーション能力が欠如している連中ばかりで、放っておくとすぐバラバラになっちまうからな、嬢ちゃんのような橋渡し役が必要だ」


 シャノンが首を傾げた。


「ナモ、でもあたし、あんまり動けないけど……」


「仕事なんてたまにしかないから心配すんな。それに非魔法空間のほうが多少からだの負担が減るだろ」


 わたしもあまりに唐突なことだったのでぽかんとして言った。


「……あの。わたしは橋渡し役をした覚えがないのですが」


「クォルの馬鹿野郎はたまに引っぱたかれたほうがいいし、ジオルたちはお互い以外の人間と少しはつきあうほうがいい。シャノンには友だちが必要で、俺にとっても……とにかく! お前さんらが嫌でなければ、時折此処でバイトでもしろや」


 傷だらけの腕で丁寧に淹れられ、カウンターテーブルへ置かれたのは、ふたつの可愛らしいカフェモカだった。ひとつはチョコレートシロップがたっぷりかかった甘い一杯、もう一方は甘さ控えめのダークチョコレートで作られた一杯だ。


 わたしたちはそれぞれカップを受け取って両手で包みこむように持つ。白いカップは熱い。じんわりとあたたかみのある熱さだ。からだにその温度がしみこんでくる。深く、深く、全身がこの香りに塗り替えられていくようなここちがする。たからもののようにひとくちを飲む……。


 やっぱりアナログアンブレラの非魔法珈琲は世界一美味しい。


 わたしはそのことを毎回新鮮な気持ちでおもう。


 シャノンは味をおもいだそうとしているのだろう、確かめるみたいに何度も、何度も、カップを口へ運ぶ。


 静謐な時間だった。


 わたしたちは珈琲の味に、ぬくもりに、香りに、壊れていたものを包みこんで、静かに泣いている……。


 そして喧騒が戻ってくる。


 なにげない日常があふれだす。


 此処に、わたしは帰ってきた。


 帰ってきたのだ。


「――やれやれ、早く珈琲を淹れてくれないか、ぼくは待つのが嫌いなんだ」


 ごつん。


「横柄な奴ですまない、マスター」


「いいやそれよりな、ヤズー、今さりげなく魔法を使ったな? またグリクトの依頼でも受けたか? 店内で魔法を使うなって言ったよな……?」


「おっと、なにをする気だいマスター! 目が笑っていないぞ、ぼくをどうするつもりなんだ!」


「どうなってもいいから魔法を使ったんだろ……?」


 袖をまくってからマスターがひらりとカウンターを飛び越え、奥のテーブル席へ突進していく。シャノンもそのあとに続いてテーブル席へ行った。彼女が泣きながらも笑顔を浮かべていることにほっとして、わたしは珈琲をもう一口飲む。


 ヤズーたちがわいわいと騒いでいるのを眺めながら、隣の席に座っていた美しい青年がぽつり言った。


「ところで、訊くが。進むか終えるか迷っていたのはどうなった?」


 テーブル席のほうに視線を向けたまま答える。


「保留中です」


「そうか」


「でも」


 マスターのお気に入りのCDがピアノの切ないバラッドをゆったりと流している。外から混ざりこむ雨音が、世界に不思議なやわらかさを与えているような気がする。初夏の夕方を刻む掛け時計の規則正しい音。楽しげな、みんなの声。


「積極的に、『しばらく保留にしていたい』とおもうようになりました。進むか終えるか決めかねてしかたなく保留にせざるを得なかった頃に比べたら、ほんの一歩ですが前進したのだと感じます。できれば、進みたいとおもえるようになりたい、です」


「……そうか」


 教官は手元の紙の本へ視線を戻した。長い髪に顔が隠れる瞬間ふっと、わずかに笑っていたようにわたしには見えた。

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