4-12.
◆
ふと、気紛れを起こした。今日はユアンを部屋へ待機させている。自由な独りの時間だった。気分が沈んでいた。それも、かなり沈んでいたから、ちょっとだけ予行練習というか、冗談のつもりで、気が済むかとおもって、気軽に行ってみることにした。
書割のような灰色の空に空中ディスプレイの地図を起動した。そこから〈タグ〉を検索する。地図上に道順が表示される。〈フェイク〉が書かれたオフィス街で地図通りには進めないだろうとおもう。でもゆくべき方向は分かる――。
そのビルは極力使わぬことに決めていたヒトロイドグループの万能パスカードでするりとドアのロックが外れ、いかにもオフィスビルといった様子の、実用性ばかり追求して無難に無難を重ねた、いろいろな濃淡の灰色に塗りつぶされるロビーのその広い無個性的空間に、〈瞬間移動〉用の〈箱〉魔法がかけられていて、ムーウは部外者だけれどあっけなく屋上へ〈瞬間移動〉することができた。
ビル内の見えるところには人がいなかった。外も人が歩くことを想定されていない〈セキュリティー〉にまみれており人通りが無い。屋上にももちろん人影は無かった。ムーウは夜に向かって黒ずんでいく世界を一人佇み見おろしていた。
コトナが飛び降りようとしているところを見つけたときの、あのビルだった。警備が薄いから、無許可で〈タグ〉を貼りつけたフェンスの近く、ムーウが日常生活にバラまいた、生きないための賭けみたいなもののうちのひとつだ。とにかく疲れていた。なにも考えられなかった。
風が吹いていた。
フェンス越しの世界を静かに見た。
初夏。寒くなんかないのに震えがとまらない。
――人間は空中ディスプレイや街灯、部屋の照明などをつけることで地上を明るくしすぎて、見あげる星の数を減らした。だけどムーウは、この地を見おろして、人間が消した数の星は地上のほうに灯されているんだなあとおもった。無数の白い窓。ちいさくきらきらしたわたしたちの故郷。それが人間の美しさだった。愚かで、非合理的で、涙がでるほど綺麗だった。
悔しかった。人間なんて所詮みんな一個の星の表面にへばりつくように並んでるだけのくせして、何故人の頭踏んだり頭踏まれたりしてるとおもうんだろう、なぁ……。
涙がぼたぼた落ちた。
需要の無い人生を今日も歩んでいる。
何故まだ死んでいないのだろう。
自分の需要は自分である程度うみださなければならない。
それを自尊心という。
自分には無いものだ。
人任せにしたら承認欲求オバケになってしまう……。
風が吹いていた。
フェンス越しの世界が徐々に夜に塗り替えられていった。
その経過を無言で見ていた。
涙ばかり流れた。
どうしてこんなに苦しいのかな。
苦しいわけがないのに。
「……恵まれていて、ごめんなさい」
ぽつりと、呟きがこぼれた。
そしたらとまらなくなった。
「お金持ちでごめんなさい。有名人で、健康で、五体満足で、頭脳も容姿も人に褒められて、生活のことはなんでも使用人がやってくれて、親から殴られたこともなくて、苦労を知らなくて、ごめんなさい。それなのに上手に生きられなくてごめんなさい」
自分はただの観光客で、ただふらっと地獄へ旅行に来たにすぎず、いつかは住民登録地の「幸福」に帰っていくはずだから、だから大丈夫。わたしは大丈夫。今日も幸せです。
「こんなに幸せなのに、死にたくてごめんなさい。お母さまを殺してごめんなさい。お父さまを苦しめてごめんなさい。生きていてごめんなさい――」
幸福うまれ幸福育ちの恵まれたわたしがどんなに苦しんでみたところで、そんなの決してほんとうの絶望なんかではないのだということ、そのこと自体が軽い絶望だとおもう……。
「うまれてきてごめんなさい……!」
わたしがうまれなければ、きっとみんな幸せだった。
自分がいなければトーガは今日あんなふうに苦痛を味わわずに済んだ。シャノンを深く傷つけずに済んだ。お母さまは産後鬱にならずに済んだ。お父さまはお母さまを失わずに済んだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――」
わたしの人生だから、わたし以外の誰の所為にもできない、この不合理をどうかどなたか受けとめてください。そのために小説を書いてきました。誰か答えをください。助けてください。お前の所為だ、と言ってください。直接そう言ってください。どうしてこんなことになったんだろう。どこから人生を間違えたんだろう。ああ、どこからだなんて。
風が吹いている。
「――うまれてこなければよかった……!」
風が吹いている。
どこからもなにも、最初からじゃないか。
風が吹いている。
最初っから、なにもかもが間違いだったんだ。
風が、吹いている。
夜の魔法社会がにじんでぼたぼたこぼれ落ちる。
雫は風にさらわれていく。
震えがとまらない。
あああ。
――間違えているんなら、今、此処で、正せばよいのだ。
すんなりとそうおもった。
そのために此処へ来たのだと、気がついた。
ムーウは泣きながら決めた。
――春にしようとしていたことを、少し遅くなったけれど今やろう。
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