4-13.
手首からグリクトを外した。
初夏。
ビル。
絶望。
屋上。
幸福。
夜空。
意味。
意図。
高さ。
いつも持ち歩いている分厚いハードカバーの手帳を足元へ置いた。
風が吹いて、ページがぱらぱらとめくれた。
ムーウは手ぶらになった両手で、フェンスをつかんで、慎重に乗り越える。
背後で紙のめくれる音がした。
「……こんなことなら、最後に一杯だけ、マスターの珈琲を飲んでおけばよかったなぁ……」
ムーウは呟いた。
両足を揃えて屋上の端に立った。
ムーウは、後悔していた。
アナログアンブレラの珈琲を飲まなかったことを。シャノンを連れだせなかったことを。ゴウたちを名前で呼べなかったことを。名前で呼んでほしい、と打ち明けなかったことを。教官を覚えていられるようになれなかったことを。マスターに恩返しできなかったことを。ムーウは恐々と下を見た。こわくてたまらなかった。それでもこうするしかないとおもうのだ。
風が吹いていた。
日記のページがめくれる音がした。
足を踏みだそう、とおもった。
ムーウは、
いや、
少女は、
いや――、
――わたしは、
わたしは、遺書のつもりで春時雨の十六時半から書いている日記を、振り返って、後悔していた。
他人事みたいに文章を綴れば少しは自分自身の絶望と距離を置けるかもしれないとおもって、三人称で書いていた日記、入学辞退届を用意したあの日、三月三十一日の十六時半から思考入力で書き始めた日記は、遺書のはずだったのに死に損なったために今までずっと続いていた。
それももう終わりだ。
馬鹿だなあ。
わたしは号泣しながら後悔していた。こんな気持ちで死ぬなんて苦しいとおもった。そうだ。わたしは苦しいのだ。誰がなんと言おうと、わたしは苦しい。感情の存在を自身に認めてあげることさえできないで生きてきた。そういうこと全般を、今非常に後悔していた。高層ビルの屋上で、誰もいないから声をあげて泣いた。
散々泣いて、何時間も経って、足の感覚がなくなってきて、泣き疲れた頃、すっかり夜になっている真っ暗な空と、地上に灯った四角い窓の星たちを見て、わたしは最後にインターネットを開いた。
死ぬ準備をする。
いつも書いている小説のワークスペースを開き、完結にチェックしていく。未完のものは非公開にする。遺書を用意していないから、わたしが死んだあとに残るのはこれだけだ。せめて整理してからにしたかった。
そうしてわたしはサイトの右上、ベルのマークに赤い通知のマークがついているのを見つけた。
通知を見つけてしまったのだ。
抗えなかった。
選評はこうあった。
『圧倒的な絶望の描写に脱帽しました。暗いのに読ませる作品です。作者は苦しみ悩みながら生きてきたのでしょう。体験しなければ書けない、そう思わされます。貴重な経験を持っていて、それを昇華する筆力がある。このような作品・作者を必要としている読者がいます。感性を育てて書き続けてください。審査員満場一致で堂々の大賞受賞です』
――書籍化が決定していた。主人公がロープを持って近所の公園に行ってしまう短編小説のひとつだった。わたしは、こんなときでさえ選評を無視できなかった。
後悔ばかりだった。
こんなのおかしいと感じた。
おかしいよ。
こんなの、――どうやって飛び降りればいいの。
『このような作品・作者を必要としている読者がいます――』
わたしは咆哮した。
屋上の端で両足を揃えて立ったまま、叫んだ。
灰色の世界には夜が降りしきっている。
風が優しく頬を撫でて通り過ぎていった。
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