4-10.
信じられない手際のよさでマスターはひょいひょいとカップにラテアートを描きだした。ミルクピッチャーをリズミカルに振り、きめ細かい光沢のあるフォームドミルクを自在に操って、エスプレッソに凝ったリーフを描く。涼しい顔でふたつめもひょいひょいとやってしまった。何度見ても圧巻だ。
できあがったマキアートをマスターから受け取り、双子のいるテーブル席へ持っていった。
トーガは少し落ち着いてきているようだった。あたたかいカップを両手で包みこむと、震えながらゆっくりと口元へ運ぶ。ヤズーがその隣に並んで座り、時折弟の肩や背中を叩いたり、なにか耳元で囁いたり、手を握ったりした。こ、こ、こ、こ、壁の掛け時計がおだやかな時間を優しい音で耳に刻んだ。
「嬢ちゃん、待たせて悪いな」
「とんでもございません」
「いつものブレンド珈琲でいいか」
「ありがとうございます。しかし今日はこれで失礼しようとおもいます」
飲食店へ入ったのになにも注文しないなんてことは普段のムーウなら絶対にしないことだったけれど、今日はとにかく疲れきっていた。もう独りになりたかった。気持ちが沈み、暗い思考が研ぎ澄まされていく。笑えるうちに笑っておかねばとおもった。
ムーウは今できる最大の笑顔を浮かべてマスターへ嘘をついた。
「また来ます」
「おう。……待ってるぞ」
とにかく疲れていた。
双子がいるテーブル席のほうへ振り向き、ピンヒールを響かせて数歩歩くと、ムーウは二人の前で深く頭をさげる。
「ご迷惑をおかけし大変申し訳ございませんでした」
ボブヘアーのプラチナブロンドへ唾でも吐きかけるかのようにヤズーが鼻で笑って答える。
「謝って済むとおもってるんだ? お嬢さまにとっては下々の人間が傷つこうがどうでもいいって?」
もうほんとうに疲れていた。
「そうではありません。わたしには謝ることしかできなから、せめて謝りたいんです――」
なにもかもどうでもよかった。
ただ疲れきっていた。
――なにをされて生きてきたら、寝ているときちょっと本がぶつかっただけでこうも取り乱すようになるのだろう。
ヤズーに嫌われている理由が分かった気がした。
だからもう独りになりたかった。
ムーウには、苦しいと感じる資格なんて無い。
『これ以上ない恵まれた数十年の未来を持っていながら、それを手放そうとするムーウさんの思考が許せないです』
わたしもわたしを許せないです、とそうムーウはおもった。
「ヤズー、お前さん、そんな言い方しかできんのか――」
マスターがひらりとカウンターを飛び越えてテーブル席へ来るとヤズーの頭を小突いた。「わ、なにするんだ」抵抗してヤズーがバタバタと手を振る。
「マスター。いいんです」
ムーウがまたマスターへ笑いかける。
なにもかもがムーウの人生には関係ないというような感覚がした。この洒落たお店に満ちた濃厚な珈琲の香りも、掛け時計の規則的な鼓動も、今時珍しいCDプレイヤーから流れる明るいジャズも、どこかほっとするような非魔法空間も、すべてに拒絶されてムーウは独りだとおもった。笑っていられなくなった。
自力で笑えないときに人と会ってはならない。
人生の基本だ。
可もなく不可もない一般人として退場することにした。
虚ろな挨拶を落とし、傘立ての横を通りすぎ、樫のドアを開け、アナログアンブレラを出て薄暗い初夏の空を見あげ、人一人やっと通れる幅の階段をのぼろうとして、後ろから手を握られていた。おおきな手だった。少し、震えているのが伝わってくる。なまぬるい空気がよどんでいる階段の下で、ムーウは緩慢に振り返った。
「……待って、ほしい、説明させてほしい……なにより、謝りたい……」
荒い息をしながらトーガは言うとふらふらとただようように何歩か進んで階段へくずおれた。膝を抱える。その背景は空が灰色のビルと同化して書割のようにひらべったい。
これも人間関係を完結させるためだとムーウは少年に向きあった。
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