4-09.

       ◆


「ああ、お前さん」


 ジオル兄弟の後ろから珈琲店へ入ったムーウを見るなり、マスターはかすかに目を見開いた。


 ――二週間ほど来ていなかったお店はいつもと変わりがなかった。


 先ほどまでマスターがいじくっていたのであろう電動式PCが起動していて、店内に明るいジャズのCDがかけられている。


 セピア調で撮るのがいっとうしっくりしそうなレンガの壁には、数枚のモノクロ写真が飾られ、その周辺にプランターの観葉植物がいくつか置かれ、右手側には年代物の美しい本が並んだ木の棚、ドアの横には十本ほどの傘がたてられて、シャノンの手書きの貼り紙がある。


『傘は雨を弾く。「弾く」は「はじく」と読むし「ひく」とも読む。傘とは、雨を遮りながら雨を奏でるもの。昔ながらの傘をお貸しします。明日でも十年後でも気が向いたときに珈琲を飲むついでにご返却いただければ幸いです。魔法社会の「現代」という時間の喧騒に埋もれがちな貴方へ』


 あまりに変化がなくてアナログアンブレラだけ時がとまっていたかのような不思議な感覚がした。


 マスターは真っ青になっているトーガをお店の一番奥のよく双子が陣取っているテーブル席へ座らせる。それから「いつものだな?」とヤズーに尋ねた。急いでカウンターのなかへ入り、エスプレッソマシンの電源を入れる。ムーウは抱えていた双子の荷物をテーブル席へそっと置くと、カウンターのほうへ行って一番右の椅子に腰かけた。


 マスターが白いシャツの袖をたくしあげた。極細挽きにした中深煎りの珈琲粉を電動ミルから取り外す。


 手のひらサイズの鍋みたいなかたちをしているホルダーに、フィルターをセットし、そこへ粉を山のかたちになるよう入れていった。二ショット分だ。俯いたマスターの表情は見えない。しばし作業する音だけが聞こえていた。


「……嬢ちゃん。バイトの奴は、どうだった」


 ぽつりとマスターが言った。


「断られました」


「会えたのか」


「はい」


「……そうか」


 ホルダーをカウンターのへりに引っ掛けて、タンパーという道具を珈琲粉の上からぎゅっとちからを入れてホルダーへ押しこみ、粉を均等に固める。タンパーはシーリングスタンプのような形状をしている。しっかり粉を詰めないと抽出にムラが出てしまうので、タンパーの平らな部分をホルダーへ平行に強くあてる。


「あいつなあ……」


 粉がよく押し固められたらエスプレッソマシンの湯抜きをする。


「体調が悪い日はグリクトの文句ばかり言ってたんだぜ。グリクトを選ぶとき親御さんと喧嘩したって話は聞いたか? あいつ、グリクトが地味だ地味だとずっと言ってたろ? 親御さんに『大人になっても子どもっぽいグリクトをつけ続けるのは恥ずかしい』と言われた話、あれな、大人になるまで生きてほしいって意味で親御さんに泣きながら言われたんだそうだ……」


 エスプレッソマシンの湯抜きは、給湯口近くの中途半端な温度のお湯を捨てて適温を保つのと、古い粉を流すために行う。終わったら、粉が詰められたフィルターホルダーを給湯口へセットする。珈琲粉が湿気を吸わぬよう素早く抽出を始める。


 ムーウは黙っていた。言いたいことがたくさんあった。でも言葉にならなかった。マスターが腕を動かすたびに生々しい傷の痕が見える。サックスが悲鳴じみた高音を切なく響かせる。深い……深い珈琲の香りが店内に広がっていく……。


「嬢ちゃん」


「マスター、ごめんなさい」


「いや……」


「あんなこと言うべきではありませんでした」


 いっきにエスプレッソの香りが店内に満ちた。目的量まで抽出したのだろう、マスターがマシンのスイッチをとめる。珈琲はいったん置いておき、冷蔵庫から冷たいミルクを取りだした。ステンレス製のミルクピッチャーへ注ぐ。


「わたし、断られたあと一度もシャノンを迎えに行けませんでした。もう行けません。あなたにあんなこと言うべきではありませんでした」


 エスプレッソマシンのノズルの先に濡れた布巾をあてると、しばらくからぶかしをした。いつだったか、ノズル内部に溜まった湯を抜くためにからぶかしをするとマスターから聞いたことがあったのをおもいだした。そんな些細なことを彼からたくさん聞いたのだと、この珈琲店で、なにげない日常をたくさん過ごしたのだと、ムーウはおもいだしていた。


 ノズルの先端をミルクに浸ける。マスターが筋骨隆々とした腕で優しくミルクピッチャーの角度を変え、ミルクを泡立たせていく。


「……つまんねえ話だがよ。仕事柄、昔の俺は家族と縁を切らなきゃなんねえ立場にあった。もちろん恋なんてもってのほかだったが、その頃の俺はほんものの馬鹿者だったからな。安心して俺に守られていろ、なんてできもしない約束をして、結局大切な女を死なせちまった」


 ミルクが泡立つくぐもった音が聞こえる。


「たまにおっしゃっている『かみさん』のことでしょうか……」


「実際には婚約者だからかみさんじゃあねえんだけどな」


 にっと歯を見せ、顔の深い傷痕を歪ませるマスターの笑みは、笑顔よりも泣き顔のようにムーウには見えた。


「――怖えんだよ。この両腕で守れるのはちいさな店ひとつだけだ。だから、待つことしかできねえ。俺は待つ。ただ待っている。情けねえだろ? こんな姿、あいつには見せられねえや」


 でも、とマスターは続けた。


「お前さんがまた来てくれてほっとしてんだ……」


 ミルクが泡立っていく。

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