1-11.

       ◆


 夕方という時間が濡れそぼっている。シャノンが赤い傘をさして待っていた。雨雲で黒ずんだ景色のなかで鮮烈な赤の花が開いたように見える。シャノンが道は知っていると言うから、ムーウも白い傘を開き、並んで門を出、小雨によって作られた薄い水面をヒールで割った。


 行けば行くほど都市の喧騒は濃度をなくす。のっぺりとしたビルの四角い知覚に塗りつぶされる。あたりまえがあたりまえでなくなり、コスモスの花壇を平気で踏み荒らしている。噴水のなかやビルの壁に直進する。


 やはり此処を一人で歩くのは今のムーウにはできそうにないことだった。慣れない足取りでシャノンのあとをついていく。地図を起動すると、ちゃんと地図上でも梅の太い幹を突っ切っている。なるほど、面白いものだ。そう映るんだ。


 網羅しない。


 それが地図というものの本質なのだった。


 曇った空と無機質なビルの群れとが同化した、灰色の視界に、ぽつんと開いた赤い傘は目立った。なめらかに盛りあがったちいさなドームが、シャノンの歩くのにあわせて上下左右に揺れ動く。小柄な肩のはじっことスカートから伸びる脚の下のほうを濡らしているのを見て、ムーウは昨日のことをおもいだした。


「赤い傘でした……」


「ん?」


「わたしは赤い傘を追ったんでした。忘れていた……」


 呟くなり、左腕に抱えていたハードカバーの手帳を濡れるのも構わず引っ張りだしてめくった。赤い傘のあとを追って珈琲店を見つけた。と昨日はほかの日と比べて簡潔に日記をおしまいにしている。だからなんだって別にたいしたことではないのだけど、この強烈な違和感はなんだろうか。


 シャノンを階段まで追いかけて珈琲店へ入り、マスターに会い、再びシャノンに会い、カメを見た、カチッと頭でピースがはまり記憶は平らに均されてもとからそうあるべくしてあるみたいに自然になった。


 だからなに?


 威圧的なビルとビルのあいだに、人一人なんとか通れる幅の階段が地下へぐぐっと落ち窪んでいる。昨日見つけた珈琲店が幻想ではなくて実在していたことに少なからず衝撃を受けた。かつっ、と女の子が傘を地面につく。濡れたような黒髪を雨に濡らし始めながら、振り向く。


 かつっ。


「……あたしがムーウからクォルフォア教官についてのエピソード記憶を奪っちゃったってことだね」


 なんの話をしているのか分からなかった。




 で、なにをしているのか分からなかった。


 店は閉まっていた。かたく閉ざされた樫のドアにシャノンがへばりつき、ヘアピンを鍵穴に挿しこんでなにやらぐりぐりとやっている。


「……あの。なにをしてるんですか?」


「ぴっきんぐ! 見て分かるじゃんばっかだなあ!」


 鍵は軽快な音を立てて開き、ドアノブも抵抗なくまわり、警報のたぐいも発動せず、シャノンのうるさいガッツポーズを見、なんら警戒する必要無く不法侵入に成功した。


 鼻歌交じりに照明をつけて歩くシャノンの後ろについていきながら思考入力でユーザー辞書を起動した。


 ピッキング。セキュリティー系魔法へ特殊なクラッキング魔法を用いてドアの錠をこじ開けること。


 シャノンは手に持った二本のヘアピンを髪へ丁寧につけ直している。そのへんのコンビニで売られていそうなごく普通の安物だった。と、ごく普通に見えるのはムーウがたとえ国唯一の国立学園を首席合格したとはいえ人文科の学生であるからなのかもしれず、魔法の専門家にしか見えない仕掛けでおびただしい量の〈消音〉やら〈コード照会〉やらがヘアピンに刻みこまれているに決まっていた。なにせぐりぐりとやるだけで高級珈琲店をこじ開けることができるピンだ。


「お前さんが人文科だあ!? がっはっはっ冗談きついぜ。魔法科学の最先端を突っ走る天下のノクテリイ家が、技術科じゃねえって? 人文科あ?」


「よく驚かれます」


「専攻は?」


 勝手に店内へ入ったあとシャノンが珈琲を作る準備を始めているとほどなくしてマスターがおおきな欠伸をしながら入ってきてこういう話の流れになった。


 ガガガガと豆を挽く機械音が混ざり、と同時に香ばしさが広がってくる。なにかを作りだすよりかは壊すことのほうに向いていそうなワイルドな傷にまみれる腕で、マスターが珈琲カップをお湯であたためている。


 深く、深く……幾重にも重なったほの甘い苦みが店内の隅々にゆき渡り、古めかしい電動式のCDプレイヤーやPC、木製のテーブルにかかった花柄のクロス、手作りのメニュー、額縁に入れられたモノクロ写真、数千冊並んだ紙の本の、一ページ一ページにまで、すべてへゆっくりとしみこみ、深く……世界は染めかえられていく。そういうものに染まってしまいたくて、すーぅ、息を吸いこんでみる。


 このちいさな珈琲店の空間に、自分という存在が溶けだしていくような気がする。


 そこには社長令嬢もお客さまもなにも無い、という気がするのだ……。

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