僕は勇者にならない(第一章)
白雪花房
序章
0-1 真白
プロローグ 三月二九日
ガラリと窓を開け放す。かわいた空気と冷たい風が個室に入った。
現在外では日が沈み、暖かい光をばらまいている。寒さの強まる時間帯。長袖一枚であるため、冬の空気が身にしみる。青ざめた唇を噛みしめて、ガラス窓からスタッと降りた。
植え込みの上に降り立つ。顔を上げると門へ駆け、雪の積もったフィールドを突っ切った。
道路へ飛び出し、背後で鳴るはクラクション。後方に車が迫る。薄闇でヘッドライトがまぶしく光る。あわてて右端に逃げ込んだ。間一髪、走る凶器が走りさる。あわや交通事故だった。寒さとは異なる意味でひやりとする。
ぼうっとしている間にエンジンの音は遠くへ去る。排気ガスの臭いが清らかな空気の中を漂う。自動車の残り香を追う形で、少年は走る。町にたどり着いても足を動かし続けた。民家の建つ通りを突っ切って、角を一つ曲がる。下り坂が見えた。転がるように走る。雪で靴下が濡れた。じんわりと足が冷えて指先からくるぶしのほうまで、痛みが
「っと」
ぬかるんだ地面に足が滑る。バランスを崩して前のめりになった。体全体を使って踏ん張る。転ぶ寸前で持ちこたえて、ふたたび足場を蹴った。
坂を下りきったあと、フラットな道路の上でストップする。体力の限界だ。荒く息を吐いて、顔を真っ赤にしながら汗をぬぐう。体はポカポカだが、足は凍りついて、固まってしまった。
ひとまず大きく息を吸って吐いてを繰り返して、肺に酸素を取り込む。息を整えてから走り出そうとした矢先、エンジンが接近。低くて落ち着いた音だった。ゆるやかなスピードで迫る気配に気付いたとき、あたりの音も消し飛ぶ。少年は目を見開いて、右を向く。黒いベンツがそばで停まった。運転席からストロベリー色のコートを着た少女が下りる。
「あら、こんなところまできてしまったのね」
淡い紅色の唇がゆるやかな弧を描いた。
背後からオレンジ色の光が差し込む。彼女は一歩二歩と、歩を運んだ。黄色のブーツが立てた足音は、雪に吸い込まれるようにして消える。同じタイミングで、萌黄色の瞳が少年をとらえた。とっさに黒い眼をそらして、空を見上げる。いまだに青い部分に助けを求めるように。もっとも、だいだい色より上は深い青紫に染まりつつあるのだが。
「逃げなくても大丈夫なのに。あなたを悪いようにはしないわよ」
甘い声が迫る。ひらりと真っ赤なコートがひるがえった。
雪とアスファルト――白と灰色の色彩の中で、少女だけが色鮮やかに映えている。例えるのなら大輪の花。国に住む男性五〇〇〇万人の憧れの的だ。彼女の容姿と声は、対象の心を溶かす。まともな人間ならあっという間におとなしくなり、言いなりにならなければおかしい。
実際に少年は心臓をドクドクと鳴らしている。ただし、顔は引きつって、体は石像と化していた。
彼の心に染み込んだのは砂糖味のときめきではない。圧倒的な絶望だ。黄昏から夜へ急に切り替わったような心持ちになり、周囲から色が抜けていく。枯れ葉の匂いの漂う荒涼とした空気の中、少年は背中を丸めた。
なにもかもが終わったとあきらめた上で、最後の抵抗を見せる。
「違うんです、僕は。勇者なんかじゃ」
「安心して。私がついているわ。それに、例の通知が嘘だと言いたいのなら、今確かめたらいいだけの話だもの」
淡い紅色の唇がやわらかな声で本質を突く。少年は口を閉じた。無駄だと分かると、潔く運命を受け入れる。
先ほど運動で温まった体は一瞬で冷えた。静寂の中、澄んだ空気を吸い込む。握りしめた拳を汗で濡らしながら、空いた手でタブレットを取り出す。確かめる前にツバを飲んだ。
遠慮がちに液晶をタップすると真っ黒な画面が白く染まり、テキストが映る。
『あなたは勇者に選ばれました。おめでとうございます』
味気ない文章を視界にとらえて、体から力が抜けた。いっそ、笑い飛ばしたくなる。とはいえ文は本物だ。端末の持ち主は肩を落とす。
「変な役職だった?」
「いいえ、君の期待通りの展開です」
「なら、よかった。運がいいわね。素直に喜んでいいのよ。一生に一度の機会で『勇者』を引き当てたのだから」
「その運をこんなときに発揮しなくてもいいでしょうに」
口元に花を咲かせる少女をよそに、彼の顔は真っ白になる。体の内側で土砂崩れのような音が低く響いた。頭の上には鉛色の雲が垂れ込んで、あたりをどんよりとした空気が包む。
「ちょうどいいでしょう? あなたにも目標ができたんだし。ほら、覚悟を決めて受けたのならやらなきゃ、ね?」
彼女は嬉々として両の腕をつかむ。まっすぐで熱のこもった眼差し。萌黄色の瞳の中で地味な少年は曇った目で、相手を見つめ返す。
「いやだ」と子どものように叫べたら、どれほど楽だっただろうか。眉をハの字に曲げて、薄い唇もへの字に歪める。心の奥から重たい感情が湧き上がってくるものの、口は固く閉じたままだ。
結局のところ彼は頼まれたら断れない性格である。そもそも、彼は彼女のために今回のゲームに参加したのだ。自ら足を踏み出してしまった以上、後戻りはできなかった。
かくして背の低い少年を乗せたベンチは、藍色に包まれた町を突っ切って、山奥にある家にたどり着く。
以降はなにごともなかったかのように食事や入浴を済ませて、一日を終えるのだった。
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