8
かたことと揺られる音でキサラは目を覚ます。蹄の音と入り混じって、牧歌的なまでにのどかな鳶の鳴き声と。
無意識に体を起こして、キサラの体内を駆け巡る激痛。思わず、顔を顰めた。
「――無理はしないの」
と言う声で、はっとする。当たり前のように、パナケイアがそこにいた。
乗り合い馬車に数人の乗客を乗せて、何もなかったかのように揺られながら――何もなかったなんてあり得ない事は、キサラ自身が知っている。体は麻痺すれど、聴覚だけは覚醒して彼が如何にして、キサラを守ろうとしたのか、もうイヤでも知っておたのだ。
「パナケイア、あなたの手を汚させてしまったか……」
申し訳ない。不甲斐ない。その想いしかよぎらない。
ふぅん、とパナケイアは意味深に息をつく。その顔は笑っている。
「は?」
「あのね、ドクターの遺伝子保有者さん。僕はメディカルシステムなの。基本的にニンゲンを殺す事はプログラムで禁止されているから、ね?」
「は? だが、あの時――」
聞こえたのだ、確かに。パナケイアがキサラの為に立ち回ってくれた言葉を。
――不老でありたいとはニンゲンは何とも可笑しい。乾いた標本のまま、呼吸と鼓動と思念だけをするんだね。
「あぁ」
と彼は笑った。
「麻酔薬で体だけ動かせない恐怖ってヤツを味わってもらっただけ。10時間程度で麻酔は解けると思うけどね。ただ学師さん、麻酔耐性が強かったからもっと早いかな? その前に逃亡をはかった僕って健気だよね?」
ニコニコ笑って言う。だがキサラは笑ってあげる事はいけない。キサラは彼を起こした。即ち、それは彼の帰る場所を奪った行為に尽きるのだ。
「まぁ、仕方が無い。いつかは起きるように設定されていたからね。それが今日だっただけで、なんら支障は無いよ。僕の寝食さえ保証してくれていたらね」
「は?」
キサラは目を点にした。
「ニンゲンの食事も食べられるけどね。栄養吸収効率が悪くて」
「なんなら、食べられ――」
「これなら」
唇に唇を重ねられ。キサラの思考は一瞬停止した。何故か、乗り合い馬車の同乗者達から拍手が巻き起こる。
「な! お前は何を、こんな公衆の面前で――」
キサラが真っ赤になって怒鳴る。
「仕方ないじゃないか。僕はメディカルシステムなんだから、起動者の遺伝子を核に栄養補給するよう作られている。むしろ起動したキサラが責任をとって欲しいくらいだね」
その笑顔が確信的なのがありありと分かるから、忌々しい。
「勝手にすればいい」
「うん、勝手にする」
とパナケイアは頷いて、ふとキサラを見やる。
「な、なに?」
「名前つけてくれないかな。ドクターは名前をつけてくれたんだけど、貴方には貴方がつけた名前で呼ばれたい」
「は? パナケイアはお前の名前じゃないのか?」
「じゃぁ、僕はキサラをニンゲンって呼ぶよ?」
にっこり笑って言う。
「その、ドクターとやらのつけた名前は――」
「いいけど、キサラじゃ発音が難しいんじゃ……」
「聞いてから判断する」
「――メディカルシステムA・typeシリーズ全自律思考ルーチンver.AZ765-7y56hk9om78――」
「……何言ってるのか、全然分からない」
「でしょ?」
パナケイアはにっこり笑う。キサラは仕方なく、息をついて思考を巡らす。まさか自分が、誰かのために名前をつけるなんて思いもしなかった。言葉が頭を巡る。神話があった。ニンゲンの良き隣人で、優しく誇り高く強く。義を貫く、そんな伝説の存在の固有名詞が、自然と頭を過った。キサラは幼少時、そんな昔話を聞いて育ったのだ。
「――ポチなんてどうだろう?」
今度は、パナケイア改めポチが目を点にした。
「は?」
「伝説にあるニンゲンの良き隣人だ。幸ある黄金を示し、死してなおその灰で枯れ木に花を咲かせたという。私はこのお伽話が好きなんだ。パナケイア、貴方に相応しいと思わないか?」
うつむき、体を震わせるポチ。キサラはそれを怪訝そうな顔で見た。ポチは全身で笑っている。
「何か、おかしなことを言ったか?」
「――やられた」
満面の笑顔で、腹を抱えている。不満は無い……と見ていいのだろうか? キサラは未だ、何も知らないパナケイアを見やりながら思う。彼は、マイペースを貫くが、事は悠長ではいられない事ぐらいは理解している。
キサラはロストセレブレーション、失われた遺産を揺り起こしてしまったのだ。ギルドからは除名――どころか、国家指名手配対象なのは間違いない。
と、かろうじて笑いを収めたポチが、キサラの髪を撫でた。狼狽しポチ見る。きょ、距離が近い――。
「副作用」
「え?」
「キサラは僕を起こした。その副作用だと思えばいい。なに、たいしたことは無いよ。僕は君の癒やしの手になろう。キサラは病で苦しむ人を助けたいんだろ? 君にパナケイアの祝福をあげようって言ってるんだよ」
「……うん」
「よろしく、キサラ」
「うん、ポチ」
そう言った瞬間、何故かポチはまた笑ったのだった。
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