第34話 ただ、君と

 その単語の意味を理解した時のエリックの表情は、果たして何と表現すれば良いものであったか。喜び、怒り、笑い、悲しみ、憎しみ。全ての感情が、そこにはあった。


「ぇ……ぅ…………?」


 テサが、不安に声を絞る。離れて立つ斬姫にも、その異様な反応は届いたようであった。


「何だ? 汝は言葉を知らぬというのに、まるで神の存在は知っていたかのようであるな。

 ……よもや、『嬰児みどりご』、か?」

「『嬰児みどりご』とは、何だ?」


 獣もくや、という声でエリックが低く唸る。


「神は、ここより近い異界の魂を時にこちらへ引き寄せていると聞いた。

 その候補と選ばれた魂には赤子のうちに特異な因子を植え付けてな。

 それが『嬰児みどりご』。芽吹くことは稀らしいが……」


 唐突にエリックの右腕辺りを悪寒が斬り抜ける。

 咄嗟に身を捩れば、最前まで手首があった空間を通り抜ける黒い風。斬姫の曲刀から奔り出た斬撃だった。


「ク……フハハっ! アッハッハッハッハッハッ!!

 そうか! なるほど、そうであったか!

 幾度となく我が剣を躱してみせたのは、つまりはそれに起因していたか!

 何だっ!? 一体何だ、汝に芽吹きし特異はっ!

 ハハッ! アハハハハハハハッ!!」


 斬姫の歓喜の声が坑道中に響き渡る中、テサが合図を送る。エリックはそれに、手を重ね置く形で応えた。


「ぇ、ぇ……ぅ……」

「大丈夫。逆に冷静になれたよ」


 嬰児みどりご。特異な因子。神。魔王軍との関係。考えるべき事は数あれど、それは今ではない。もっと優先すべきことが今のエリックにはある。

 テサを護ることが、共に生きていくことがアイツへの復讐なんかよりずっとずっと大切なのだから。

 胸の想いを力に変えて、エリックは鋭く叫んだ。


「行くよ、テサ! 作戦の三だっ!」


 目線を交わし合い、同時に駆け出す。


「問答は終わりか?

 クク、ますます殺すのが惜しくなったぞ!」


 斬姫が逆反りの曲刀を振り払い、黒い斬撃が飛ぶ。

 その軌道は、予め視えていた。エリックの瞳にのみ映る黒い靄に沿って飛ぶソレを、テサの腰を抱いて飛んで躱す。

 この黒い靄は死の予兆。あの魔王城での逃走劇以来、集中している時に限り視えるようになったものだ。

 斬姫の言う魂の錬磨の結果なのかは分からないが、これまでの悪寒だけに頼っていた時よりも早く確実に躱すことが出来る。それに加えて、さらに別の使い方もあった。


「さあ、どうするのだ? ただ躱しているだけか?

 距離が詰まっては、いつまでも躱せはしまい?」


 横薙ぎに払われた斬撃を、テサの頭を抑えつつ屈んで避ける。

 しかし斬姫の言うことは、その通りであった。いくら予感で攻撃の軌道が分かると言っても、近付けば避けている暇もなくなる。

 だが、例の縦穴は斬姫の向こう。脱出には避けては通れない。後退し、別の脱出口を探すなど、この状況から出来るはずが無いのだから。


「どうした? 可能性は我に見せてみよ!」


 今度は、二撃続けて飛んでくる。

 僅かに躱し損ねて、エリックの腕から鮮血が舞った。

 それでも、ついに距離が半分まで詰まった。

 斬姫が再度、斬撃の構えを取る。

 きっと、これ以上は躱せない。だが、もう躱す必要もない。

 テサに合図を出し、エリックは大きく裂かれて空いた穴のすぐ近く、ある一点を強く踏みしめた。

 そこは飛んでくる斬撃とは別に視えていた、死に繋がる靄のわだかまり。



 



「何っ!?」



 瞬間、エリックの足元を起点として床一面に亀裂が奔る。黒い靄が一斉に広がっていく。


「テサっ!!」


 走る勢いを落としていなかったテサに引っ張って貰い、その靄から辛くも脱出する。

 この辺り一帯の坑道は、エリック達奴隷が無軌道に掘り続けたせいで元々かなり不安定な状態だった。

 そこへ斬姫が大穴を空けてしまった事で、辺り一帯はいつ大崩落に繋がってもおかしくない地雷原と化していたのだ。エリックには、それが視えていた。

 エリックの一歩から始まった崩落が、連鎖的に拡がっていく。

 床を、壁を、天井を鳴動が伝わる。

 ついには上から崩れた大岩がエリック達目掛けて落下を始めた。

 それを、一顧だにせずひた走る。


「チッ!」


 斬姫が構えていた斬撃を上方へと飛ばす。今にもエリック達を押しつぶさんとしていた大岩が、一瞬で微塵と化した。

 エリックはほくそ笑む。これも賭けではあった。が、やはり斬姫は崩落に巻き込まれるなんて面白くない終わり方は認められないようであった。

 返す刃をエリック達に向けようとした所で、拡がり続ける亀裂が不気味な音を立てて斬姫の足元へと迫る。

 流石にそれを嫌って飛び退った斬姫であったが、


「残念、そこは大外れだ」


 降り立った瞬間、床が大きく崩落した。


「なっ…………!?」


 大量の岩石とともに斬姫の姿が奈落へと呑まれていく。


「テサ、こっち!」


 エリックはテサの手を強く引いて、走る。走り続ける。

 坑道は今も亀裂が拡がり、止まる気配が無い。まだ、一瞬でも油断は出来ない。

 走る二人の前に、ついにあの縦穴が姿を見せた。

 しかし、その周囲に思わぬ影がある。


「魔物っ!?」


 縦穴の周囲に、黒鎧の魔物を筆頭とした無数の魔物が待ち構えていた。

 崩落に巻き込まれるのを警戒してか縦穴との直線上を遮っている訳ではないが、元よりロープも無しに降りることも出来はしない。


 これまでか、とエリックが諦めかけた時、隣を走るテサが突然自分の喉元を強く、何度も叩き出した。

 叩いては声を出そうとする、そんな事を何度か繰り返し――――、


「だ……ぃじょぶ。ぃん……じ……て……っ!」


 驚き、見やれば、強い意志を瞳に灯してテサが微笑む。

 もう、目の前に大穴が迫っている。

 迷う必要もない。

 彼女を信じずして何を信じるというのか。

 エリックはテサと繋ぐ手に力を込めて、そこに広がる闇へと共に身を投じた。


 そこからは、世界の全てがスローモーションだった。


 乾いた風を切りながら、抱き合うように体勢を変える。


 奈落の底が、徐々に徐々に近づいてくる。


 テサが、無理やり喉を動かし、魔法を唱えた。



「え……ぐぜ、『プラティナム・ウィングス』っ!」



 瞬間、エリック達の落下速度がふわりと落ちた。


 眩さに惹かれて見上げれば、白亜麻色の髪に良く似た色の光がテサの背中で一対の翼を形作っている。


 羽ばたく度に無数の羽根が周囲に舞い、縦穴を淡く照らした。


 昏かった世界に幻想が満ちていく。



「テサ……君は……」



 上手く言葉に出来ないまま、エリックが零す。


 ただ、ただ、綺麗だと、エリックは見とれていた。


 そんなエリックの視線に気づいてテサがはにかむ。


 直前までの恐怖が全て夢であったかのようで、二人は見つめ合いながらゆっくりと降りていく。


 静かだった。


 上から魔物達が追ってくる気配もない。


 助かったのだと、笑い合う。


 張り詰めていた緊張の糸は二人の世界にすっかり溶けてしまっていた。


 甘やかな空気に浸りながら、エリックは思う。


 テサの事を好きになれた自分はなんて幸せなのだろう、と。


 手の平から伝わる温もりは微睡みを誘った。

















 エリックは――――――、

















 そう、油断していたのだ。完全に。


















「っ!?」



 死の予兆は、集中していなければ視えない。



 気付くのに、一拍遅れた。



 斬り裂くような悪寒を、ようやく感じる。



 緩んていた心と体が、反応を更に半拍遅らせた。



 声を涸らしながら身を捩った時には、既に縦穴の側壁を斬り裂いて漆黒の斬撃が目前に迫っていた。



 白金の翼が、二人を包み込む様に動いた。



 耳をつんざく強烈な音が響く。



 漆黒と白金、せめぎ合ったのは一瞬。



 燐光を散らして光の翼は消え失せ、死神の鎌が側面から二人を捉える。



 白金の羽根に代わって鮮血が飛び散る。



 浮力を失った二人の体が自由落下を取り戻した。



「あああああああああああああああああああああっ!!!!」



 エリックが、腕を伸ばす。



 横腹を深く斬り裂かれてはいたが、両断されてはいない。



 テサの力が、直死から二人を護っていた。



 されど、地面はまだ遠い。



 落ちるに任せては、助からない。



「あああああああああああああああああああああっ!!!!」



 意識を失ったテサを左腕で掻き抱く。



 限界に伸ばした右腕が、壁面に、届いた。



「あああああああああああああああああああああっ!!!!」



 落下の速度に耐えきれず、指の皮が捲れる。



「あああああああああああああああああああああっ!!!!」



 爪が弾けた。



「あああああああああああああああああああああっ!!!!」



 肉がこそげる。



「あああああああああああああああああああああっ!!!!」



 摩擦で熱を持ち、擦過面が焼けていく。



「あああああああああああああああああああああっ!!!!」



 それでも、エリックは離さない。



「あああああああああああああああああああああっ!!!!」



 決して、手を離さない。



「あああああああああああああああああああああっ!!!!」



 少しずつ、少しずつ、落ちる速度が、緩む。



 しかし、とうとうエリックの肩が負荷に耐えかねた。



 関節の外れた腕は力を無くし、そして全ての支えを無くした二人が奈落へと落ちていく。 



 絶望的な浮遊感の中、それでも守ろうとテサを強く抱きしめる。



 永遠にも思える一瞬が過ぎた。





 そして――――、





 強い衝撃を最後に、エリックの意識も遂には途絶えた。

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