第1話 神崎 望の日常と人生最悪の日
201X年 日本
『次のニュースです。○×峠で起きたトンネル事故の続報ですが、新たに3人の死亡が確認されたました。
死亡が確認された3人は昨夜救助された14才の少女の家族で、何れも……』
二日前に発生したトンネル事故の続報を流し聞きしながら、神崎望は朝食を急いで摂っていた。家を出る時間が近付いているのだ。
「はい、お茶」
「ありがとう、お母さん」
望はテーブルへコトリと置かれたお茶を火傷しないように注意しながら喉へ流し込む。鼻を抜ける爽やかな香りがまだ眠りかけの脳を目覚めに導いてくれる。
「この子も大変よね。ご家族をみんな亡くしてしまうなんて。
この事故は本当にひどいものだけれど……この子は、どうするのかしらね」
「うん。本当に、理不尽だよね」
「望……」
悪いことが起こった時、見た時に息子がいつも漏らす口癖を聞いて、望の母はそっと良く形の似た眉を下げた。
「望、本当に気を付けてね。だって今年は
「うん、分かってるよ。十分に気をつけてるから、心配しないで」
母の心配する声に望はやや硬い声で応えると、手近に置いていた通学鞄を掴んで席を立った。
望は市内の公立校へ通う普通の男子中学生である、一応。年齢は先月十五歳になった。
十五歳という年齢は、男でも女でも一般的には厄年ではない。しかし望の家族にとって厄年とは一般に言う意味と異なる
意味を持っており、それが望を『一応』普通の中学生と評する理由である。
「それじゃ、行ってきます」
「ええ、気をつけて」
玄関で靴に履き換え、愛用の傘を手にした望は母に出掛けの挨拶を掛けて勢い良くドアを開く。その勢いのまま外に出ようとして――
「おっと」
急に足を止めた望の目の前を鳥のフンが落ちていく。
フンが落ちていく様を眺める望の後ろから、母の声が掛かる。
「ねえ、本当に大丈夫? やっぱりお休みした方が良いんじゃない?」
「大丈夫だって、流石にもう慣れたし。それに一応、一月経ってもかすり傷も無く過ごせてるんだから。
それじゃ、改めて行ってきます!」
望は心配そうな母に努めて明るく返すと、後ろ手にドアを締めながら歩き出す。
(お母さんの心配も分かるけど、そんな事行ってたら家に引きこもるしかなくなるしなぁ。
それに、今からちゃんと勉強しておかないときっと夢には届かないし)
望は母の心配を思い出して苦笑を浮かべる。そして丁字路に差し掛かった辺りで急に立ち止まると、徐ろに傘を開いて前に差し出した。
直後、目の前の道路を猛スピードの小型トラックが走り抜けた。明らかに速度超過だ。
小型トラックに煽られて望の持つ傘を逆巻く風が揺り動かす。と同時に、ザン、と大量の水飛沫が傘にぶつかった。昨夜の雨で溜まっていた水溜りを小型トラックが踏み抜いたのだ。
傘の表面をボタボタと水が滴る様を暫し眺めた後、望は落ち着いた様子で水滴を払って傘を畳む。
「ふう……。さて、行くか」
望は一息つくと、そのまま何事もなかったようにまた歩き出した。
普通ならトラックの運転手に悪態の一つでもつく所であるのに、望は特に気にした風でもない。
というのも、朝から起こっている一連の出来事は望にとっては良くある日常の風景なのだ。つまり、すっかり慣れてしまっているのだ。
むしろ、鳥のフンが落ちてきたり、車の水跳ねくらい、望の日常にしてはゆるい方である。
望の日常では、――犬も歩けば棒に当たる、ではないが――百歩歩けば鳥のフンが降りかかるし、千歩も歩けば上から物が落ちてくる。車が信号無視して突っ込んできたり、歩道をよく見ずに急に曲がってきたりもする。
それから上から落ちてくるものもバリエーション豊かだ。ベタな鉢植えに始まり、ハサミにダンベル、褌のようなキワモノから巨大な鉄骨が落ちてきたこともあった。流石に隕石はまだ経験無いが、その内有るだろうと、望は本気で思っている。
そう、望は昔から異常なまでに運が悪いのだ。
再び降ってきた鳥のフンをヒョイと横に避けつつ、望は通学路を進む。
そんな日常を過ごしてきたお陰で、いつしか望は悪い出来事に対する勘が異様に鋭くなってしまった。とりあえず、鳥のフン程度ならば無意識に避けられるぐらいには。
それにしても、と望は思う。
(今年は大したことが起きないよなぁ。鉄骨にはちょっとビックリしたけど。
今までのパターンだと誕生日から直ぐに問答無用に回避不能な事が起こってたのに。今年はちょっと違う? それとも、あの鉄骨だったのかな?
だったら有難いんだけどなぁ……)
望の運の悪さには一つの特徴、法則というべきかもしれないもの、があった。
五年置きに一度だけ、普段に輪を掛けて不幸なことが望の身に起こるのだ。それこそが、望と、望の母親が言っていた
望が五歳の時は突如目の前に発生した竜巻に巻かれ、暫しの空中遊泳の末に地面へ叩きつけられて足の骨を折った。
十歳の時は落雷だ。公園で遊んでいると急に空が陰った。雨が降るのかと思って空を見上げた次の瞬間、すぐ側の木に雷が落ち、そこからの側雷を受けて左半身に大火傷を負ってしまった。
不幸中の幸いと言うべきか、どちらも後遺症が残るようなことは無かった。だが今でも火傷の跡は服の下に残っている。
更には、望が生まれたばかりの時も何かあったらしい。望が聞いても両親は笑って教えてくれないため、何があったのかは知らないのだが。
兎も角、この雷での大火傷から望の不幸を呼ぶ体質が尋常でないと考えを新たにした両親は、何かにつけて望の事をやや過剰と思える程に身を案じるようになったのだった。
とは言え、実は悪い事ばかりではない、と望は思っている。この体質のお陰で悪いことに対する勘はとても鋭くなったし、何より、これらの不幸は望に一つの夢を届けてくれたのだから。
小児救急医になること。それが望の夢だ。
何度も不幸で理不尽な目に遭って時には大怪我をしてはお世話になる内に、いつしか懸命に傷の手当に挑むその姿を自身の未来の姿と視るようになっていたのだ。
だから、望は学校へ通う。
例え五年に一度の
(今から勉強に躓いているようでは、あの先生みたいに立派なお医者さんになれないもんね)
望は一度背を伸ばして胸一杯に少し湿気った朝の新鮮な空気を吸い込むと、厚く垂れ込めた曇天の下、学び舎に向かって大きく歩を進めた。
その後、その日の学校生活は思いの外平穏なものだった。
精々、折れたシャーペンの芯が二、三度ほど目に飛んできたくらいで、ここ最近を思えば実に拍子抜けするくらいである。
ホームルームの教師の声を横に聞き流しながら、望は窓の外へと目を向ける。
(うん、天気はギリギリ保つかな? ……たぶん)
そんな事を考えている内に、話は終わったようだ。
「
「「ありがとうございました!」」
一日の授業の終わりを告げる号令が教室に響くと、次いでワッと生徒たちの様々な声が教室を満たした。まだ教師が出ていって無くてもお構いなしだ。
部活へ誘う声、今日は何処へ寄り道するか話し合う声に今日出た宿題の量に溢す愚痴等々、そんな開放感に満ちた賑やかな声の中、望は荷物を手早く纏めると、一人席を立った。何人かの仲の良いクラスメートに声を掛けつつ一人教室を出ると、授業終わりの生徒たちで溢れる前の廊下を急ぎ足で進む。
別にクラスに馴染んでない訳でも、或いは嫌がらせの類を受けているわけでもない。
望はただ、自身の運の悪さが招きよせる災いのリスクを減らすために帰路を急いでいるのである。
そう、望の運の悪さは勿論人に対しても発揮されるのだ。謂れのない冤罪や他人のトラブルに巻き込まれての暴力沙汰なんて事も何度となく遭遇している。一度その事が切っ掛けでイジメの対象になりかけた事もあったが、直後に大怪我で入院したため幸いにも有耶無耶になってくれた。ただ、この時起こった諸々の出来事により、望は理不尽や不条理という言葉が大嫌いになった。
そういった事もあって、
(ふう、今日も無事に終わりそうかな)
望はまだ人の疎らな校庭を突っ切り、校門を出た所で一つ息をついた。相変わらずの曇り空だが、地面の水溜りはもう無くなっている。これならば傘が無くても問題ないだろう。
望は誰かが多分間違えて持ち去ったであろう自分の傘を頭の片隅から追い出すと、背中の通学鞄を背負い直して帰路を急ぐ。
学校前の通りを抜け、幾つかの角を曲がり交差点を越え、そして家と家の間の細い路地を進む。直ぐにやや視界が開け、片側に雑木林の山、逆側に民家裏手の塀に挟まれた小道に出た。
この道は望がいつも使っている近道だ。人通りが少なく、だけどすぐ側には助けを呼べる誰かが住んでいる、つまりトラブルに遭いづらく、何かが起きた時は助けも呼べる理想的な通学路である。
この静かな道を歩く時の望の日課は、山の斜面を観察しながら歩くことだ。岩の隙間から顔を覗かせるシダに斜面をびっしりと覆う苔、それから何だかよく分からないキノコなど四季折々に見られる様々な植物を眺めるのが好きなのだ。たまに山菜を採って帰ることもあった。
「あー……。 やっぱり傘、必要だったかぁ」
そんないつもの道を、ややゆっくり目に歩いているとポツリ、ポツリと雨粒が雲から滴りだした。空を仰ぎ見ると、いつの間にか分厚い雲が空を覆っている。山側の方はより雲が濃いようであるから、上の方は既に本降りになっているのかもしれない。
こちらも本降りになる前に早く家へ帰ってしまおうと、駆け出した時だった。突然、望の全身を粟立つような悪寒が駆け抜けた。
(なん……だ、これっ!? やばい! 何か分からないけど、兎に角やばい!)
周囲には、まだ何かが起こる兆候は無い。一瞬だけ空にも目を向けるが、相変わらずの曇り空だ。隕石が降ってくる気配は感じられない。
只々、虫の足音すら聞こえない程の不気味な静寂が辺りに満ちている。
(こっち……か? うん、こっちの方がまだマシな気がするっ!)
望は鍛えに鍛えられた勘を頼りに、元来た道を全力で駆け始めた。
直後、ずっ、ととてつもなく重く低い音が望の耳に届く。
その音に、望は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
最初は腹に響くような重低音一色だった音に、少しずつ様々な違う音が重なり、混ざり始めている。軽い音、甲高い音、何かがぶつかり、転がる音。それはまるで輪唱のように次々と音を重ねながら大きくしていき、そして同時には濃い水気の臭いを望の鼻腔へと運んでくる。
ここに至って、望は何が起こっているのか理解した。
チラリと山側を見るが、見える範囲はまだ
望は足を動かしたまま乱れる呼吸を必死に抑えて大きく息を吸い、 望は声の限りを尽くして叫んだ。
「土砂崩れだーーっ!! 逃げろーーっ!!!」
ちゃんと家の中に居る人へ聞こえたかどうか確かめている暇はないが、それでもやらないよりは断然マシだ。
もう一度叫ぼうとした所で視界の端に幾つもの小石が流れ落ちてくるのが映った。
(来たっ! クソ、逃げ切れるか!?)
もはや聞こえてくる音は明確な振動を伴って望の元へ響いてくる。
土砂崩れの範囲から逃げ切るため、足に一層の力を込め――、
「なっ!?!?」踏み込みと同時に右足の靴紐が千切れ飛んだ。
足の甲の抑えを失った靴では右足の踏ん張りが効かず、バランスを崩し、走る勢いそのままに望は地面へと転がった。
(くっそ、この靴、先週買ったばっかりなのにっ!? こんな不条理あって堪るかよっ!?)
無様に二度三度と転がり、望は内心悪態をつく。それでも諦めまいと必死に身体を起こそうと足掻く。
あと数メートル。望の勘に拠れば、たったそれだけの距離で死なずに済む辺りまで行けるはずなのだ。
邪魔な右足の靴を振り払いながら立ち上がった時、
「…………ああ」
再び奔った悪寒に従って山側を見ると、まず目に飛び込んできたのは岩だった。次いで、その奥に遂に動き出した山の斜面が見える。上から崩れてきた土砂と木々が鬩ぎ合いながら斜面を掛け下っており、そしてそれに先行する形で巨大な岩塊が勢い良く眼前に迫っていた。
その光景を前に、両足から必死に込めていた力が抜けていく。
望は代わりに、静かに目を閉じた。
暗闇が満ち、音の洪水だけが世界に残る。
「お父さん、お母さん、僕は――」
強い衝撃が全身を飲み込む。
望が口にしようとした言葉は、この世界に産まれることが叶わなかった。
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