偽の恋人 9

 唇に触れたまま、私は考える。

 これまでの転生で、自分から別れを切り出したことはあっても、相手に告げられた覚えはない。離れていく後姿を見つめ、切ない想いを抱えたことも。

 クラウス王子を好きになり、わかったことがある――私は自分を愛してくれた人達に、こんなにもつらく悲しい思いをさせていたのね?


 口元に手を当てて、嗚咽おえつこらえた。私は泣いてはいけない。多くの男性の心を傷つけてきた私には、自分を憐れむ資格もないのだ。




 陰口や細かい嫌がらせを除けば特にたいしたことはなく、日々は飛ぶように過ぎて行った。アウロス王子の恋人のフリをして、もうすぐ二ヶ月が経とうとしている。

 今日、いつものお茶の席で「内緒だよ」と前置きしたアウロス王子が、私にこんなことを語り始めた。


「クラウスがようやく、デリウス公爵の不正の証拠を掴んだ。脅迫や恐喝、横領などが次々明るみに出ている。まあ、捕まるのは時間の問題かな?」

「クラウス様が証拠を?」

「ディアが気になるのはそこなんだ。まあね、内部のうみを出すのは元々彼の仕事だから」

「そう、ですか……」


 普段から忙しい人だと思っていたけれど、それだと休む暇がないのでは? 無理して身体を壊さないだろうか?


「中心であるデリウス公爵がいなくなれば、僕を推す者は勢いを失くす。クラウスの優位は固いね」


 アウロス王子が楽しそうに口にする。本人が言うならまず間違いない。

 そういえば、この頃城で公爵令嬢エルゼの姿を見かけなくなった。もしかして、そのせいなの? 取り巻き達にも元気がなく、私を見るなり逃げるから、私にとっては良いことだ。


 エルゼは王子を諦めたのかしら? いえ、たとえ諦めなくても公爵が捕まり、クラウス様が王太子になれば、私の役目は終わる。アウロス王子と恋人のフリをする必要もなくなるのだ。私は領地の片隅に引っ込んで、のんびり余生を過ごすつもり。

 ――そうか。大好きなあの人を目にする機会も、あとわずかなのね?


「さようなら」と告げた日以降、クラウス王子は私を避けている。目が合ってもすぐらし、挨拶しても軽くうなずくだけ。アウロス王子の恋人役である私は、人前で自分からクラウス王子に近付いたり、話かけることはできない。だけどやっぱり寂しくて。


 恋しい気持ちが日に日に膨らむ。姿を見るだけで満足だったはずなのに、こっちを向いてほしい、声をかけてと願ってしまう。

 私を嫌いになったのなら、なぜあの日、別れを告げたその唇で貴方は私にキスしたの?




 そんなある日、我が家に発注していたレースが届いた。


「お嬢! また城に行くって? そろそろ終わりでいいんじゃないか?」

「リーゼ。あのね、引き受けたことは最後まで責任を持たなくてはいけないの。それに、クラウス王子に依頼された品が完成したのよ? 是非お持ちしなくては」


 本当は私が彼に会いたいだけ。『今日これから、依頼された一角獣の刺繍入り手巾ハンカチと、総レースの女性用長手袋をお届けに上がります』とさっき連絡を入れた。


「直接会うのも、これで最後だし」

「何で? いつでも遊びに来いって言われたんだろ?」

「いいえ、それはこの仕事を引き受ける前だもの。それに、隠居した後で表に出る気はないから」

「もったいないなあ。ミレディアがその気になれば誰とだって……いや、お妃にだってなれるのに」

「そうですよ~。ミレディア様ならアウロス様とお似合いです。そりゃあ時々派手な恰好で出かけますけど、それだってアウロス様のお好みでしょう? お芝居が本当になれば素敵です~」

「なんでだよ、お嬢の相手はクラウス王子だろ」

「いいえ、絶対にアウロス王子です!」


 最近ハンナとリーゼはよくわからないことでケンカする。誰かと一緒になるなんて、私には過ぎた望みなのに。想う人に想われて、幸せに暮らす。そんな憧れに満ちた光景は、とっくの昔に諦めている。

 私はただ……ただ、何だというのだろう?


 我ながら未練がましいとは思うけど、今日は派手に装わず、控えめなラベンダー色のドレスにした。それでクラウス王子が口をきいてくれるとは限らないし、会ってくれないかもしれない。だけどこれで最後なら、できるだけ綺麗に見せたい。


 ハンナとリーゼに見送られ、外に出る。ところがいつもと様子が違い、護衛が一人きり。常に二人で行動していたはずなのに、いったいどうしたのかしら?


「ねぇ、テオは身体を壊したの? マルクは大丈夫?」


 どうしても今日、というわけではないのだ。無理なら別の日に出直そう。


「はい、私は平気です。でも彼は……いえ、なんでもありません。参りましょう」


 護衛は暗い表情だ。仲良しな印象があるだけに、一人だと妙な感じがする。


「いいのよ、またの機会にしましょう」

「いえ、それは困ります!」

「困る?」

「ええっと、城の兵と約束をしていて……」

「そう。だったら向かわなければね?」


 いつの間に城の兵士と仲良くなったのだろう。マルクったらまさかの浮気? だからテオは出てこないのかしら? 

 一人欠けても兄には黙っておくから心配しないで。気になるけれど、他人の恋愛事情に首を突っ込むのはよそう。アドバイスできる立場ではないし、男性同士の方が何かと複雑なのかもしれない。


 いつものように馬車に乗り、城へ向かう。クラウス王子に会えると信じて。晴れているため日差しが眩しく、私は光を遮るために窓に付いたカーテンを閉めておくことにした。馬車の中は一人なので、幸いにも考えごとをする時間ならたっぷりある。


 ――彼は私を見てどう思う? 仕上げたレースの手巾と手袋は、いったい誰のもの? 拒絶されたらつらいけど、受け取ってもらえなくても構わない。その場合は、私が記念に持っておくことにしよう。使うつもりはないけれど、こっそり彼のイニシャルを入れてみてもいいわね。


 なかなか到着しないので、不思議に思う。カーテンを開け、窓から外を見ると見慣れない景色が続いていた。私は慌てて、御者兼護衛のマルクに声をかける。


「ねえ、道が違うわ。城に向かっているのよね?」


 返事がない。どうしたのかしら?


「マルク、聞こえてる? 行き先が違うわ。お城に向かってちょうだい」

「すみません、お嬢様。あと少しですから」


 遠回りするとは何ごとなの? 嫌な予感もしたけれど、彼は兄が選んだ信頼できる護衛だ。それに走る馬車から飛び降りることは、さすがに出来ない。


 馬車が、見たことのない場所で停まった。

 窓から顔を出すと、前方には森が見える。その手前に、剣を手にした黒ずくめの男達が立ちはだかっていた――きっと盗賊だわ! 動揺したものの、身の安全を図ることの方が大事だ。私は「無理に抵抗しないで」とマルクに伝えようとする。口を開きかけるより先に、彼らの一人が声をかけてきた。


「よくやった。あとはこちらに引き渡してもらおう」

「テオは……テオは無事なのか?」

「ああ。そこに転がっているだろう? まだ命はある」

「テオ!」


 マルクはこちらに目もくれず、男達の指し示す方へ駆け出した。それを見た途端、私は恐ろしい考えに思い至る。いなくなったことにも気付かなかったけれど、テオを人質に取られたマルク自ら私をここに運んで来たらしい。背中を嫌な汗が伝う……彼らの標的は私だ!


 男達は全部で四人。黒いマントに黒い頭巾で、どこの誰かもわからない。いくらマルクが強くても、傷ついたテオを庇いながらでは戦えないだろう。マルクがぐったりしているテオの腕を肩に回し、担ぎ上げた。その瞬間、剣を持った男が彼らに接近する――危ない!

 私は注目を集めるため、わざと大声を出す。


「ねえ! 貴方達の狙いは私でしょう? そんな小者、相手にしなくていいじゃない」

「自分の護衛を小者だと?」

「待て。お前はミレディア=ベルツだな?」


 声が高く細身の男が仲間を押しとどめた。わかりきったことなのに、帽子についたレースで顔を隠しているから、私が本人だと確認したいのだろうか?

 ――だったらマルク、この隙にテオを連れて安全な所に逃げて! 


 私は男達の目を惹きつけるため、返事をせずに自分からゆっくり馬車を降りることにした。できるだけ色っぽく、わざと足を見せながら。地面に降り立った後は髪を指でもてあそび、視線を外させないようにする。


「そうだと言ったら? 大の男が四人もいて、私が怖いの?」

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