Dive05

一色ケシキからのコンタクトは意外に早かった。それはその日の最初の休み時間のことだった。






「ここじゃない世界がもしどこかにあったとしたら行ってみたいと思う?」






突然投げかけられたその質問は、転校間もなく友達のいないケシキなりのギャグかと思ったが、その切れ長の瞳の奥は、まるでサンタクロースは夏でもあの格好なのかと期待に胸をふくらませながら聞いてくる子供のような真剣な眼差しだった。それを見てギャグではないと判断した僕はそんな唐突な質問に、始めは軽く流そうかとも思ったけど、その真剣な表情に真面目に答えないのはなんだかケシキに悪いような気がして、それなりに真剣に答えた。






「こことは違う世界がもし本当にどこかにあるとしたら行ってみたいかな。その世界に他者を思いやることのできない無神経な人間が一人もいないのなら、すぐにでも僕は荷造りをはじめるよ」






その言葉にケシキは肯定も否定もせず数十秒間何も言わずじっと僕を見ていた。僕は自己紹介でケシキの名前が一色ケシキであるということを理解したけど、自分がケシキに対してまだ自己紹介をしていないことに気がついた。彼女は僕の名前を知らない。






「自己紹介がまだだったね。僕の名前は‥‥‥」




「そんなことはどうでもいいよ」






どうでもいいみたいだった。正直僕は少しドキドキしていた。それは僕の名前などどうでもいいと言われたことに対して、僕のMな性癖が反応したという意味のドキドキではなく、さらに言うとかなり美形な転校生に話しかけられたことで、そこから始まる淡い恋愛を妄想したドキドキでもない。突如放たれたケシキの質問は、僕の心の奥底にある誰にも話したことのない思いそのものだった。僕のドキドキは世界を嫌うという思いを、ケシキに見透かされたように感じたからだった。




その後昼休みまでケシキが話しかけてくることはなかった。


生徒達が教室を出て食堂に向かう中、僕は鞄から朝に買っておいた焼きそばパンと読みかけの小説をとりだした。






「ここにいたら……いつか敗北してしまう……」






それは僕に投げかけられた言葉だったのか、それともたんなる独り言だったのかはわからない。ただ何かを諦めたようなため息の混ざった小さなつぶやきだった。


僕は焼きそばパンにかぶりつきながらケシキがなぜそんな言葉を口にしたのかが気になり、小説にしおりを戻しながらケシキの方に体を向けた。






「どういう意味?」




「常にこの場から離れたくなる衝動。自分がここにいるのが間違っているように思えてくる。連続的に」




「この学校にいるってことが?」




「この世界にいるってことが……」




「世界か……なんだか壮大な話になりそうだね」




「壮大? 冗談でしょ? あなただってこの世界で生きてる」






そう。生きている。たしかに生きているけど、それはきっと猫が猫であることを、いつの間にか知っていたのと同じで、僕が生きているということを知っているだけだ。実感したことは一度もない。






「僕は生きていると感じたことが、あまりないのかもしれない」




「明日って体に大きく書かれた豚の死骸の山に無理矢理首を押さえ付けられているような……そんな感覚」




「僕は心の中で何度もため息をつくために毎朝目覚めさせられている感じかな」




「誰に目覚めさせられてるの? それは人間?」




「空気中にある人間から出た、ため息を食べる妖怪かな」




「妖怪なんだ。その妖怪名前あるの?」




「一応あるよ」




「言いなさいよ。一応聞いてあげるから」




「憂鬱にナリエール」




「そいつ絶対空気清浄機じゃん」




「違う違う。妖怪だって」




「じゃあ食べたため息はどうするの?」




「少し綺麗にしてまた吐き出す」




「やっぱり空気清浄機じゃん」






気づくと昼食を食べ終えた生徒達が教室に戻りはじめていた。


僕達はお昼休みにボリューム機能が壊れてしまったような音と声がぶつかり合う教室で、この世界での息苦しさについて話しあった。ケシキは僕の前の席にある金田の机に座りながら、グラウンドで精力的に遊ぶ生徒達をどこかさみしげに見つめていた。

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