Dive04
いつも座っている一番奥のコの字型に並べられた本棚の前で腰を降ろし、冷んやりとした床に直接座る。その場所が唯一学校で落ち着いて本が読めるお気に入りの場所だった。わざわざ図書室まで来て本を読む物好きはどうやら僕ぐらいしかいないようで、この場所に僕以外の生徒が訪れることはほとんどなかった。 鞄から読みかけの小説を取り出し、すぐに読み始めた。主人公が血のついた敵のIDを飲み込んだのは潜入先の検問を超えるさいに、殺した敵になりすますためだったことがわかった。
朝から気になっていた疑問が解消されホッとした。これを知らずに授業に出れば、今日一日を平穏に超えることは難しかっただろう。
誰もいない図書室。僕はその場所でなんとも言えない幸福感に満たされていた。文字を目で追い、ページをめくるその瞬間だけが、僕がこの世界にいられるたった一つの理由だった。そんな日はまだこないだろうけど、もし世界が終わる最後の日がきたら、僕はきっと最後の晩餐より最後の読書を選ぶだろう。図書室につけられた古くさい時計を見ると、今日の図書室での早朝読書に終わりがせまっていた。立ち上がり教室に向った。
教室に入るといつものように隣の席の蓮見アエルが僕に近づき、雨をさらりと回避した僕をにらみつけた。
「おはようレンガ。台風直撃だね。あれ? 全く濡れてないみたいだけど‥‥‥」
「うん。今日は少し早く出て来たから」
「なるほど。また自分だけ天候による被害を回避したんだ。教えてくれたらアエルも濡れずに済んだかもしれないのに」
「ごめんごめん。だけどきっとアエルはまだ寝てる時間だったと思うよ」
「いつもは寝てます。でも今日は起きてましたけどっ」
教室の一番前の壁にある巨大スクリーンには台風情報がリアルタイムに更新され傘凪市の現在の街並みを映しだしていた。その映像は少し高い所に設置されているせいもあり、あまり意味がないように感じた。画面上半分にただ、どんよりとした空があり下半分には雨に濡れる傘凪市が映っていた。
一時限目の予鈴と同時に男性教師が一人教室に入ってきた。今まで二三回この学校で見たことはあるが名前は知らない。教師が直接教室に来ることはほぼない。
2025年から教師の激務や生徒からのいじめにより精神を擦り減らした教師が自殺する事件が全国で発生した。それにより2027年以降、学校に教師が来ることがなくなった。どの学校にも常駐している教師は四人ほどで、彼等は授業を教えるためではなく文部科学省の定めに従い、ただ存在しているだけだった。そのうちの一人は保険医とカウンセラーの資格を持った人間なので、純粋な教師は三人しかいないということになる。授業をしない教師を教師と呼んでいいのかわからないけど、それが現在の学校の姿だった。各教室の一番前に設置されている巨大モニターで全授業を行うので教師が直接教室にくるのはなにかがあった時だけだ。教室内が突然の訪問者にざわめく。
「今日からこのクラスに新しい仲間が一人加わる。入りなさい」
教室内がいっせいにざわつく。そんな状況に名前のわからない教師は少し面倒な顔をした。早急にこの役目を終わらせ、この教室から今すぐ出てきたいい。そんな影を落とした表情だった。教室のドアがガラガラと音を鳴らし一人の少女が教室に入ってきた。
「一色‥‥‥ケシキです」
教室は一瞬にして静まり返った。
それはきっと彼女が制服のままプールにでも飛び込んできたかのように全身ずぶ濡れだったからだろう。だが彼女の顔には転校初日にずぶ濡れになっている恥ずかしさなど微塵もなく、自宅でつまらない映画でも見ているような表情だった。雨水は彼女の髪から顎へと流れて、教室の床に繰り返し落ちていた。チェックのスカートやブレザーの袖口からも水滴が落下を繰り返し、静まった教室にピチャンピチャンと規則正しいリズムを響かせていた。
細くて透きとおった白くて長い脚。ダランと伸びた両腕の先にある人形のような指。水滴で光るツメ。至る所がとにかく水で濡れていた。本当に笑ってしまうほどに濡れていたのだった。
学年一騒々しいクラスメイト達から吐き出されるはずの言葉を完全に奪った清々しいまでの無表情で、一色ケシキはただただ真っ直ぐに、教室の一番後ろの壁を切れ長の瞳で見つめていた。
「君‥‥‥着替えた方がいいんじゃ……」
「濡れたままでもペンは握れるので問題ありません」
教師の目を見ながら一色ケシキははっきりとそう答えた。教師はその一言でケシキの人間性を理解したのか、あるいは面倒くさいと思ったのか、転校生のテンプレである本人による自己紹介をスルーし、僕の後ろの席を指さし、あの席が君の席だとだけ一言告げて、教室から出て行ってしまった。
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