【第1章】飛べた彼女は世界を嫌う
Dive02
12月11日
「いいレンガ?」
「さっきからそればっかり繰り返してるよ」
「飛ぶわよ」
「いいよ」
「……本当に飛ぶわ」
「信じてるって」
ぼくの右手を掴む彼女、一色ケシキの右手は汗ばんでいた。僕達が今立っているのは傘凪市で最も高い地上80階の超高層ビルの屋上。ビルの名前は九紋ビル。傘凪市で二番目に高いビルらしい。九紋ビル屋上恐怖症(高所恐怖症)によって軽い目眩が始まった僕は、屋上にいる恐怖と同時に、彼女の汗がぼくの手の平をつたうということに緊張してしまい、ぼくの手も急激に汗ばんでくるという負のシンクロが始まっていた。
たまに通り抜ける強風と、頬を突き刺す痛いくらいの冷たい風が、背中の中間あたりで綺麗に真っ直ぐ揃えられたケシキの黒い髪を激しく揺らしていた。いつまで経っても飛び降りる様子のないケシキとぼくの目の前には、太陽に照らされた傘凪市の街並みが広がっている。人も車もコンビニも、赤い看板も白い病院も、肌色の体育館も銀色の月取り橋も、視界に入る物全てがミニチュア化されている。
「やっぱり夜にしなくて正解だったんじゃないかな?」
「そう? 私は夜の風景の方が好きだけど。なんだか昼間の街並みは生きてる感じがしない」
「人も歩いてるし、車だって走ってるのに?」
「そうじゃなくて。なんて言うか誰もが何かに諦めちゃった感じ? それが街全体を覆ってる」
「夜だと?」
「夜は生き返るの。いっせいに。きっとヴァンパイアが多い街なのよ」
「じゃあぼくとケシキはヴァンパイアになる前にここに来てよかったのかもね」
「どうして?」
「本物のヴァンパイアならこの高さから落ちても死なないから」
「でもきっと痛いはず」
ケシキにはケシキなりの夜への特別なイメージがあるようだった。
九紋ビルの屋上から飛ぶことを決めた時に、夜ではなく昼間に決めたのはぼくのアイデアだった。街が一望できるほどの高さのビルから、夜に飛び降りるなんてなんだか不吉だし、どんよりとした雰囲気が嫌だった。そしてなによりも自殺をすぐに連想させた。それはまるでクラスメイトがぼくには全く興味のないことで最高に盛り上がった時のような憂鬱さに少しだけ似ている。たとえケシキと一緒でもそんな暗闇ダイヴは御免だったし、あり得ない速さで落下しながら体をあのコンクリートに叩きつけて死ぬのは嫌だった。夜がいいとむくれ顔で言うケシキの意見に珍しく真っ向から反対し、僕達は今こうしてここにいるわけである。僕は普段ケシキに意見をあまり言わない。それはケシキが正しくても正しくなくても変わらなかった。それはきっと僕がケシキに従うことに純粋な正しさを感じているからである。
僕はケシキに訪ねる。
「ここから飛んだら高さはあるけど地面に到達するまではきっと一瞬だろうね」
「このビルの高さは70mぐらいだからあのグレーと茶色の綺麗な歩道まで3.778秒で到達。衝突速度はおよそ133.391km。死ぬ前に気絶するスピードね」
「高さごとの地面への到達時間と衝突速度を丸暗記でもしてるの?」
「まさか。こんなの単純な計算で導き出せるわよ」
「でもぼくが話してから一瞬で答えたよね?」
「それがなに? 計算なんだから一瞬で答えが出て当たり前でしょ?」
どうやら僕とケシキでは頭の構造が違うようだ。転校したあの日から約一年。色々なことがあり僕とケシキの距離は大分縮まっていたが、お互いのIQは現在進行系で離れ続ける一方である。
「やっぱりやめる?」
「やめないわよ。別に死ぬのは怖くないのよ。ただこの高さが少し……少し怖いだけよ」
ケシキはその後しばらく無言になり最終的には、決勝戦でギリギリの戦いから残り時間で勝つのは不可能だと知ってしまったような微妙な顔をした。
いつだって誰よりも物知りで、誰よりも真実を知っていて、誰よりも気が強く、誰よりも世界を嫌うケシキのこんな顔が見られただけでも、今日この場所に来たかいがあったのかもしれない。
だけど結局僕達はこの日、飛ばなかった。心のどこかでそうなるような気がしていたし、そうなるなら、また翌日に学校でケシキと繁殖の難しいパンダをねずみ算式に増やしていく方法について話せると思った。この日飛べなかったのは決意の大きさではなく、単純に飛ぶ理由がなかったからだ。
ただただ普通に終わるはずだったぼくの高校生活をねじ曲げ変化させた一色ケシキ。
結論から言うと彼女は一人で自殺した。ぼくになにも告げることなく一人で飛んだのだ。この時点でのぼくは、ケシキが飛べたその理由を知らずにいた。彼女との出会いは約二ヶ月前にさかのぼる。
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