「探し物はここにあるのに」ではじまり「もう遅かった」で終わるお話
古香 風
第1話
探し物はここにあるのに、僕はそれを手に取ることができなかった。
三日前。僕は大学図書館にいた。外は五月雨が若葉を遍く濡らしていた。本を返却するために、休講にもかかわらず雨の中足を運んだというのに、期限に厳しい司書のおばちゃんは返却日を一日見送っただけの僕の湿った肩に数分の説教を浴びせた。人のいない図書館で暇を弄んでいたのか、低気圧でふてぶてしい僕の顔が気に喰わなかったのかわからないけれど、気分は篠突く雨のごとく一層投げやりになって、貸本を本棚の位置も確認せずに押し込んで図書館を出てきてしまった。だからその帰り道、濡れた黒猫が横切らなければ、本に挟んだまま忘れていた栞を思い出すことはなかっただろう。
翌日は休館日だったので、図書館を訪れたのはその二日後だった。本はすぐに見つかった。目についた本棚へ適当に押し込んできたから見つけるのに時間がかかるかと思ったが何のことはない。僕は岩波文庫の哲学本をブルーバックスの本棚に押し込んでいたのだ。二日間誰にも気づいてもらえず、一回り大きい書物に囲まれてさぞかし肩身狭かっただろうと、そいつを救い出して頁をぱらぱらと捲った。探し物は八十八頁と八十九頁の間に挟まっていた。赤いリボンをつけた黒猫が描かれた栞だ。
しかし、僕はそれを手に取ることができなかった。なぜなら、僕は七十八頁でこの本を読むのをやめたからだ。
今朝はよく晴れていた。三日間降り続いた雨を思う存分吸い取って、校内の広葉樹は目に痛いほど青々としていた。始業前に図書館へ寄った。館内は相変わらず閑散としていていた。入り口付近に設置された「オカルト特集」のポップが空回りしていて痛々しい。学生があまり本を読まないから、司書のおばちゃんが迷走してしまったのだろう。未確認生物図鑑だとか、心霊スポットマップだとか、理系大学の図書館にあるまじき本が堂々と並んでおり目も当てられない。ただ、一冊だけ、洒落た装丁に目を惹かれた本があった。表紙には金字で『浪漫のある都市伝説』と刻まれている。僕は戯れにその本を開いた。何々、本の中で過去と繋がる都市伝説……「昔は本の虫だった。三度の飯より本が好きだった。でも今は飯を二度に減らしても読書するゆとりがない!そんなあなたに朗報です」タイトルにそぐわない世知辛い文章がなんだか可笑しくて、続く文を目で追ってしまう。「昔読んでいた小説と、当時よく使っていた栞を使って、過去の自分にメッセージが送れちゃいます」と、そこまで読んだところでなにやら背に突き刺さるものがあった。振り向くと、司書のおばちゃんがカウンター越しに、糖蜜の罠にかかった羽虫を見る目でこちらを見ていた。僕はその場を速やかに離れた。
岩波文庫の本棚は館内一階の奥まった場所に年中追いやられている。昨日ブルーバックスの本棚から救出された本は、所定の場所に落ち着いて安心しているようだった。いつか入口にある似非科学本を出し抜けよ、と表紙を撫ぜる。クリームキンマリの僅かな隙間に爪を挿して本を割る瞬間が、僕は好きだ。だから栞は紐でもマグネットでもなく、短冊状の紙製のもの、とりわけ適度な厚みのあるものに拘った。猫のそれは九十四頁と九十五頁の間へ動いていた。やはり、と僕は短く落ちてきた髪の陰で破顔した。本を返してから二日で十頁。一日で五頁。つまり誰かが、僕が途中まで読んだ続きを一日五頁ずつ読んでは同じ場所に戻している可能性があった。この仮説を証明したくならない理学生がどこにいるものか。
僕は家から持ってきた代わりの栞を猫と差し替えた。書店で小説を買うと頁の途中にしれっと挟まっているような宣伝用のものだ。さすがにこのまま顔も知らない他人に私物を使わせるのは嫌だ。この猫の栞は昔恋人に貰ったもので、恋人とは一昨年分かれてしまったが、栞はずっと僕のお気に入りだった。お気に入りの代わりに犠牲になったぺらぺらの紙がこのまま五頁ずつ動けば、ひとまず仮説は成立としよう。他人の私物を堂々と使うとはどんな人物なんだろう。僕にとってこの哲学は退屈だったが、この人は一体どんな期待を抱いてこの続きを読み進めるのだろう。僕は見えない誰何にわくわくした。手元に戻ってきたお気に入りに、この文字を見つけるほんのわずかな間だけ。
『もっと自由に生きなよ』
それは栞の片面、猫が描かれていない方に記されていた。僕は、炭素で綴られた、言葉に似つかわしくない窮屈そうな文字を正視した。書いた覚えは全くなかった。しかし、右肩上がりで留めはねの出鱈目な運筆は、間違いなく自身のものだった。
改めて条件を並べてみる。一日五頁ずつ動く栞。二日間動かなかった本。自分とよく似た筆跡。僕の決意を知っているかのようなメッセージ。
つと、先ほどこの手に持った、洒落た装丁の本が胸をよぎった。僕は哲学書を小脇に抱えたまま、急いでオカルトコーナーへと戻った。『浪漫のある都市伝説』を手に取り開く。司書のおばちゃんの視線は気にしない。その続きには、こう書かれていた。
まず当時読んでいた本と、当時使っていた栞を用意しましょう。どんな本を読んでいたかなんて忘れた!栞なんて手元にない!ですって?そんな君は回れ右して、他の方法をあたってくださいね。
さて、栞と本(全く同じもの)を用意できた貴方。あとは簡単です。栞に過去の自分へメッセージを書いたら、その栞を使って、本を一日五頁ずつ読んでいきましょう。もちろん、読み終わるごとに栞を挟むのを忘れずに。飛ばさず読みすぎずきちんと最後まで読み切ること。読み進めていくうち、どこかのタイミングで過去の自分にメッセージが伝わって、貴方の今が変わるかも。
脇から一つの哲学が滑り落ち、紙の砕ける音がした。投げ出された猫を拾い上げて、その裏に書かれた文字をもう一度見つめる。
来月から就職活動が始まる。それまでに、僕は「僕」を殺さなければならなかった。団・女の欄に〇をつける時、真ん中の「・」に〇をつけてしまい先生に呼び出された事があった。その時は「間違えました」で済ませられたのだが。性というものが意識されるようになってから、自分の中で感覚が二分するようになった。昨日は私の中に僕がいて、今日は僕の中に私がいる。
そうして私は、志望させられた企業に就職して、職場の同僚と結婚して、子どもを産んで……殺される前の僕に救いを求めるような、無責任で弱い大人になるのか。
窓枠の皐月の空に葉桜が揺れている。まだ僕が「自分」だった頃。何物にも染まらず、縛られず、透明に息をしていたあの頃読んでいた本は何だっけ。狂おしいほど健やかな青に問うてみる。
筆箱からボールペンを出すと、新しく挟んだ栞にペン先を押し当てた。透明とは程遠く、ぐちゃぐちゃに混ざった感情は、「黒」一色にしか書き下されなかった。それがどこか虚しい。
五年後。
「すみません」という声があまりにまっすぐで透き通っていたので、私ははっとして没読の底から顔を上げた。グレーのスーツを上品に着こなした美麗な女性が立っていた。目元に思慮深げな陰影を落とし、深淵から立ち上がった鼻筋がすっと伸びていて、その終末で淡紅の唇がきゅと結ぶ。艶やかな黒髪はすっきりとまとめられていて、いかにも仕事ができそうな佇まいであった。返却をお願いしたいのですが、と女性は私の露骨な視線を気にする素振りもなく、カウンターに一冊の文庫本を滑らせた。ラッセルの『幸福論』という本だった。
「返却ですね。少々お待ちください」
女性はずっと凛とした横顔で、入り口付近に設置された特集コーナーを見ていた。
「オカルト特集はもうやってないんですか」
女性が尋ねる。当時の大学生だろうか。
「懐かしいわ」
私は哲学特集のコーナーに当時の記憶を射影した。
「昔はよくやっていました。学生さんに何とか図書館に来てほしくて、ついムキになっていましたわあの頃は。ある時一人の学生さんに「次は他の特集にしてほしい。理系大学の図書館にオカルトはない」って言われちゃって。たしかにと思い直して、今はあまりやってないの。それよりも、昆虫特集や農業特集なんかをやったら思いのほか評判が良くて。もうじき就活特集もやりますけれど、あれも人気です。今の学生さんはしっかりしてるわ」
普段話す相手が本ばかりの私は、つい饒舌になってしまう。ところが女性は透明な声色で「そうですか」とだけ返した。オカルトが好きなのだろうか。伏せられた睫毛が寂しげだった。そういえば、オカルト特集に物申した学生もよく通った美しい声をしていたっけ、と思い返す。男の子だったけれど。
傷や汚れがないか調べようと本を開いた時、何かがひらりと落ちた。紙製の栞だ。書店で小説を買うとしれっと挟まっているような宣伝用のものだった。「これ、貴方の?」と翳すと、女性はそれを凝視したまま固まってしまった。
「貴方のじゃなかった?」怪訝露わに伺う。
「いえ」グロスで濡れた唇が震えていた。
「この文字は、間違いなく、私のものです」
栞には、右肩上がりの留めはねが出鱈目な文字でこう書かれていた。
『僕が救われるにはもう遅すぎた』
「探し物はここにあるのに」ではじまり「もう遅かった」で終わるお話 古香 風 @fukaisora
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