優勝決定戦


 結びの一番は最後の仕切りに入った。


 直前の相撲で負けた前頭二枚目の俺は控え力士として土俵下で見ていた。横綱の気合いは十分だ。よもや下手へたを打つことはあるまい。


 相手は楽日に5勝9敗の平幕だから、さっさと片付けてくれればいい。……行司の軍配が返った。両者がっぷり四つ! 長い相撲になりそうだと思って見ていると、何? 横綱の上手が切られた! 9敗野郎は柄にもなく押して出る! ありゃりゃ、あっという間に土俵際、寄り切られた! 負け越してからの金星かよ!


 何てこった。


 俺のうんざりした表情はテレビにも映ってしまっただろう。


 結局、13勝2敗の俺は横綱と優勝決定戦をしなければならなくなった。


 大事なことだからもう一度言おう。「優勝決定戦をしなければならなくなった」。


 普通なら優勝の望みが繋がったから大喜びして当たり前と誰もが思うところだ。

 だが、誰も俺の胸中を知らない。


 俺は今場所が終わったらすぐ引退するつもりだった。


 場所中の成績なんか関係ない。俺は一分一秒でも早く相撲を辞めたかった。余計な相撲を一番たりとも取りたくなかった。だから本割の土俵を終えて解放感に浸っていたのに、優勝決定戦となれば、もう一番余計に相撲をしなくちゃならない。別に優勝なんかしたいとも思ってない。実際、この横綱には今まで勝ったことがない。


 そう。実は俺は、相撲が大嫌いなのだ。


 こう言えば誰もが、「角界に入ってから嫌気がさしたんだな?」とか思うだろう。そうじゃない。俺は最初っから相撲が嫌いだった。大嫌いだった! ならなぜ、俺は力士になり、前頭二枚目まで上がったのか?


 俺にもよく分からない。成り行きで関取にまでなったとしか言いようがない。間違いないのは、俺が無理矢理相撲取りにさせられたってことだ。これには事情がある。今まで誰にも話したことがないが、打ち明けよう。


 俺は中学の時、いじめられていた。いじめていたグループのリーダーが、ある時こう言った。


「お前さ、×××部屋の新弟子検査受けろよ。嫌か? じゃお前、自分の家に火付けろ」

「火……付けるって?」

「放火だよ放火。やらねえつもりか? じゃ新弟子検査しかねえぞ」


 いじめを受けていることは家族に知られていなかった。こいつらから受けた屈辱の数々を家族に知られたら死ぬしかないと思ってた。新弟子検査? 「受かるわけねえじゃん!」と思うか? だがな、そうでもなさそうだったんだ! 俺は背が高く筋肉質で、見た目は力士にもなれそうな体格だった! だが残念なことに、見た目と大違いで運動が好きなわけでもアグレッシブなタイプでもなかった。


 何しろ俺は、ガタイに似合わず漫画が大好きで、漫画家になるのが夢だった。小学生の時からひそかに自作も描き溜めていた。そして、そんな自分を見破られることをいつも恐れていた。早い話が、いじめのターゲットになりそうな決定的な弱みを持っていたわけだ!


 外見は強そうなのに、それが何の役にも立たない。実際、いじめのリーダーになってた奴はひょろっとした中性的な外見で、それでいて残酷だった。俺が格好のターゲットだということを一瞬で見抜き、誰にも見せないでいた俺の作品を仲間内でさんざん笑いものにした。こうやって心を折られた俺の中学生生活は地獄になった。


 普通なら、どんだけ強要されたって新弟子検査なんか受けられるわけがない。だが数日後、いじめのリーダーから告げられた。


「おい、手間かけさせちゃ悪いと思ってよ、代わりに願書出してきたぜ。逃げんなよ。逃げたらお前の家に火付けんぞ」


 俺はグループに付き添われて新弟子検査を受けた。そして合格した。グループの連中に命じられた通り、自分の決意で×××部屋に入門すると家族に話すと、父親は激怒し、母親は号泣した。俺はどんなに自分が力士になりたいか、自分が何を言っているかうわの空でまくし立てていた。気が狂ったつもりで大声で、「俺は横綱になる!」と絶叫した。


 こうして俺は×××部屋の新弟子になった。


 ×××部屋の「かわいがり」はすさまじかった。俺は血ヘドを吐きながらしごきに耐えた。自分がどうしてこんなに我慢できるか不思議で仕方なかったが、とにかく我慢した。そうしているうちに、土俵でも不思議に勝てるようになった。「かわいがり」のせいで殺された奴もいたが、俺は生き残った。20歳になる頃十両に上がり、その2年後には幕内入りした。


 勝てるようになったんだから、才能があった、だから相撲も好きになっただろうと言いたいのか? 冗談じゃねえ! 今でも相撲は大っ嫌いだ! 才能があったからって好きになるとは限らねえんだよ! 無理矢理肥満体にさせられた全裸に近い格好で、何が楽しくて男と絡み合わなきゃなんねえんだ?


 だが、神は残酷だ。自分の大嫌いなことには才能を恵んで、好きなことは絶対やらせてくれない。やらせてくれるどころか、どんどん遠ざけていく。気が付いたら前頭二枚目で24歳。おまけに、付け人を従える関取の身分になったからって、今度は自分が弟子を「かわいがる」なんてことは性格的にできない。そういう相撲界の文化にも馴染めない! 分かるだろ? もう俺は、マインド的には相撲界にいられない人間になってたんだ!


 とはいえ、今まで部屋のしごきに耐えてきた俺だ。どんだけ相撲界が嫌でたまらなくても、始末の悪いことに、何食わぬ顔で関取の日常を過ごす習慣が染みついてしまっていた。しかしそんな毎日も、とうとうブッツリ切れる日がやって来た。場所前最後の巡業先で、旅館の風呂から上がって鏡の前に立った時、それは起きた。


 え?


 誰だよこいつ。


 この、頭の上にちょんまげのっけてるデブはいったい誰だよ?


 床が流砂みたいに崩れて、足元がぐらついた。風呂場からいきなりシベリアの暴風雪の中に投げ出されたみたいな気分だった。全身に鳥肌が立って、俺はパニック状態に陥った。


 知らねえぞ、これが俺だってのか? いつの間に俺は相撲取りになったんだよ?


「どうしました関取?」


 鏡に向かって両手で頬っぺたを押さえ変な呻き声を上げてる俺の顔を、付け人が怪訝そうにのぞき込んでる。俺はなんとか我に返った。


「いや……なんでもねえ」


 これが決定的な瞬間だった。このまま「なあなあ」で順応しちまうわけにはいかない。一生相撲取りのままで終わる? 冗談じゃねえ!


 辞めてやる。相撲なんざもう真っ平だ。俺は自分が生きたいように生きる。幸い、これまでに金星を二つ稼いだせいもあって蓄えは十分ある。作品が売れるまでの備えは万全だし、元関取の漫画家っていえば話題性は十分だ。この場所後すぐ廃業して漫画家になる! 



 ……と思ってたら、今場所は優勝争いのトップに立ってしまった。よりによって楽日に負けるとは横綱もだらしない。


 それだけじゃない。何よりもこの日は嫌な予感がしていた。人生最悪の日になる予感が。


 朝からどうも、腹の具合がおかしい。体調が良くなかったから楽日の今日は負けて2敗になり、この分なら順当に1敗の横綱が賜杯を手にするだろうと思ってた。ところが、あっさり目の前で寄り切られた。



 本格的に腹が痛くなってきた。トイレに行きたいが、もうじき優勝決定戦が始まる。立ち合いと同時に横綱に転がされて、それからトイレに駆け込むか。なんて考えてるうちに呼び出しが始まった。


「に~し~、過苦かくうみぃ~~」


 横綱に続いて俺の呼び出し。


「ひ~がし~、那臈盛なろうさかりぃ~~」


 塩を撒いた瞬間、漏れるかと思った! だが引っ込んだ。顔に脂汗が浮くのを感じながら俺は耐えた。悪鬼の形相で便意に耐える俺の顔を、テレビのアナウンサーは「那臈盛気合十分の表情です!」なんて言ってんだろう。全国中継の中で漏らすわけにはいかない!


 いや駄目だ、肛門が決壊して大量の下痢便がまわしの隙間から噴出し土俵に飛び散る図が全国に放映されるなんて想像してたら、自分を追い詰めるだけだ! ……落ち着け。深呼吸しろ。時間が過ぎるのを冷静に待て。そうしていれば、この地獄のような優勝決定戦は終わる! 


 仕切りを重ねて制限時間一杯になった。軍配が返った。


 立ち合い、俺はわざと体を泳がせて土俵に転がろうとしたが横綱はそれを許さず、がっぷり四つになってしまった。俺の肛門はまだ頑張っている。俺は下手を引いて、ポーズだけ投げを打つふりをした。もちろん横綱はびくともせず、上手から俺を揺さぶってきた。そして胸を合わせて寄ってくる。たまらず俺は土俵を割った。軍配は横綱に上がった。


 こうして順当に横綱が優勝を決めた。気が付けば、俺の便意はいつの間にかすっかり消えている。とにかく俺は相撲では横綱に負けたが、自分との戦いには勝った。満足だった。


 やっと悪夢のような人生が終わる! これからは俺の好きなように生きられる!


 ……と思ったが!


 いつの間にか親方衆が土俵に上がっている。物言いだと?


 忘れていた便意が再び俺の腸を襲う。トイレに行きたいが合議の結果が出るまでここを離れられない。


 は、早くしてくれ、俺は、俺はト、トイレに行きたいいいい!!!!


 地獄の苦しみに悶える俺の目の前で合議が終わった。


「えー、ただ今の一番、行司軍配は寄り切りにて過苦の海の勝ちといたしましたが、△○審判より過苦の海の足が先に土俵を割っていたのではないかと物言いがつき、協議の結果、両者同体とみて取り直しと決定いたしました!」



 おわり


(「小説家になろう」で2018年4月18日公開)

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