第25話 &コハル・3
ハーブティーのおかげだ。覚えた公式や解答例がさまざまな香りとともに蘇ってくる。
問題を見ると鼻からの幻覚が答えの記憶を呼んでくるのだ。
隣の席からうなるウィン太の悲鳴とは裏腹に、俺は今までの試験で一番の好成績に足取りも軽かった。
四つ葉町の外れ、山の裾にすこし入った見晴らしの良い所に行き先の病院があった。意外と我が家に近い位置だけど、こっち方面は特に施設などもないので交通量も少なく閑散としている。森も近いので『イノシシ注意』との看板も途中に見かけるような場所だ。
そんな街の喧騒を離れて眺めることの出来るいくつかの建物は、森までの平地を駐車場が囲み、外来棟と入院病棟の他に先端治療の研究センターもあったので、少しばかり時間を潰そうと散策してみると、廃墟の未来都市のような施設のどこかにぽつりと取り残された気分になった。
とはいえまっすぐに歩いていけばどこかの目印には辿り着くので、少々の気分転換も実は楽しみだったりもする。少年だったら探検心をくすぐられるだろう。
まだ爽やかなセミの鳴き始めだ。もうじきこれが鬱陶しくなるなと、森から運ばれる風に背伸びをすると、カバンの中からカランと弁当箱も鳴った。
サクラは今朝もいつものようにお弁当を作って空色の箱を渡してくれた。そして俺が出た後に動作を止めているという。今はそれに一切の不安を感じていない。
アンドメイドのサクラが動いていないとき、それはコハルが検診や歩行の訓練をしているからだ。逆をいえば、サクラを動かしているときのコハルは寝たきりということなので、それを知った今はむしろサクラがずっと動いていることの方が不安になった。
そして俺はこっそり、サクラの動いていないときに弁当を作った。棚の奥にしまっていた、永遠に使われることはないと思っていた桜色の弁当箱に。敷地内ならばと車イスで出る許可を得て、森林の際までピクニック気分で行ってみたりもした。
少なくても俺にとって、コハルとサクラはどちらも同じだ。
駐車場まで出ると、見たことのある車があった。秋津先輩とご両親だ。
挨拶をして、そのまま入院病棟に一緒に向かった。
「少年」
「ひっ」
相変わらず秋津先輩は藪から弓矢を射るように呼んでくる。条件反射というのか、返事をするつもりでも声が引きつってしまう。
「このところ毎週のように来ているらしいな」
「バイトの休みの日は、ほとんどそうですね」
「家でも会っていると言うのに。そんなに愛しているのだな!」
ご両親は、まあ、とかほうほう、と温かさと好奇心も混じったような目で俺を見ている。もちろんコハルの両親でもあるので、何かこう歯がむずむずするような気恥ずかしさというか、俺もお父さんお母さんと呼ぶべきかとか、ウィン太に相談したら全力で面白がられたりした悩みもある。まあそのウィン太は、千冬の将来も頼む、と本気なのか冗談なのか分からないことも言ってくるんだけど。
入院病棟の一階にはリハビリテーション科もある。看護師にコハルはまだそこで頑張っていると教えられて行くと、手すりに摑まるコハルの姿があった。
足取りは重くていつ倒れるか分からない。ふらふらとしながらもしっかりと足を出す振る舞いに、こちらからは心の中で応援を続けた。
平行棒は最近使っていないんですよ、と看護師が言う。手すりは廊下のずっと先まで伸びていて、この距離を歩けるようになった努力を現していた。
一歩一歩と踏みしめて、さらにもう一歩を踏み出す。
コハルは手すりの終わり、に気づかないくらい集中していた。
最後の手は、その手すりを越えて空を掴み、保ってきたバランスを崩してしまった。
「コハル!」
言うが先か駆け寄って、膝を付いたコハルの手を握る。
「レン君、ああ、見られちゃった」
「ずっと頑張ってるんだな」
コハルはぺったりと腰を下ろし、しばらく立てないくらいだろう。小さな努力家の身体をベンチまで背負った。
「あ、汗だらけで、恥ずかしいです」
「汗をかくと書いて、青春と読むそうだよ」
その言葉の師匠は、腕を組んでの仁王立ちのままだ。あのダッシュ力なら俺よりも早くコハルに手を差し伸べられたんじゃないだろうか。その秋津先輩は槍を構えたような言葉を放った。
「少年が走ると信じていたからな!」
「そこまで信頼されていて嬉しいですよ」
「手すりなしで歩いて、驚かそうと思ったのに……」
コハルは唇をすぼめて残念そうに言った。
「でもこの距離を進めるようになったんだよ、凄い努力だよ」
「姿勢が良くなったって、褒められました」
「サクラ、のおかげかな」
ふふっと二人で笑いあう。ああ何て幸せなんだ。
「少年」
「ひっ」
「検診がある。そろそろコハルを離せ」
「は、はい」
手を取り合ったままに気づいた俺たちは現実に帰った。
「前から思っていたんだが……」
「はい?」
「レンの家の前の坂道はトレーニングには丁度いいな」
「はあ」
「私もそこで走り込みをしよう」
琥珀色のフロアに甘夏さんの持っていてくれた料理の香りが立ち込めている。お店秘伝の食欲をそそる味噌の香りだ。それに負けじとカステラみたいなキッチンでは俺と千冬ちゃんが色とりどりの皿を添え付けていく。
シンプルな掛け時計も楽しそうに、やっとこの広い家が人で埋まったことを満足そうに眺めている。
「ああ、サクラちゃんに会いたかったな」
「お前、さっきからそればっかだぞ」
ウィン太は、出てくる料理に片っ端から手を付けながらこの場にいないサクラを残念そうにしていた。といっても好物のイワシの竜田揚げが出てきたときは黙って頬張り続けているので、少し黙らせるために追加で同じものを作っていた。せめて大葉を巻いて野菜も採らせてらろうと、もしかしたら千冬ちゃんも同じ理由で兄にお弁当を作っているのではと隣りを見て思ったりもした。
「返すくらいだったら、うちで引き取って働いてもらったのに」
「サクラだけじゃ動きませんよ。まあ、人気は出るだろうけど」
「レン君と千冬ちゃんが厨房でサクラちゃんが接客……って考えてたんだけどな」
「甘夏さんは何をするんですか……」
近所の家庭菜園で採れた大ぶりのトマトをもらったので、塩コショウをして冷やしてからオリーブオイルとチーズで和えたカプレーゼを出すと、甘夏さんはフォークを指揮棒のように揺らしながら長い睫毛を揺らした。
このトマトもサクラのおかげだ。俺の知らないところでご近所に挨拶をしてすっかり馴染んでいた。家主の俺は勉強にバイトに忙しいからと、交流のなかったフォローもしてくれていたみたいで、夏休みに入ると知らなかった近所の人が様子を見に来てくれる。
サクラは心の声でそういうことを言っていなかった。だからといって何もないわけじゃないのだった。人は心で思っている以上に人とどこかで繋がっている。繋がることが出来る。
「でもやっぱり……おねえちゃんだったんだね」
千冬ちゃんは、かつて姉のように慕っていたコハルとの再会を待ち切れないようだ。家に来た時から、きっと知らせを受けた時からだろう、今もずっとそわそわしてどこか落ち着きがない。春を待つ寒雀のようにきょろきょろと玄関を気にしている。
「千冬ちゃんは間違ってなかったね」
「……うん!」
今でも目を合わすとたまに頬を赤らめてたどたどしい口調になるけど、最初のころよりもずっと話をしてくれる。
そして俺自身も、その到着に心を浮き立たせていた。
サクラがメーカーに引き取られることになって、実は覚悟もあったけど、やはり悲しくもあった。寂しくもあった。けれど陰で今までしていてくれたこと、コハルがサクラとして頑張っていたこと、そしてコハル自身も頑張っていたことに胸が熱いものでいっぱいになって強く引き留めることが出来なかった。
まるで人形のように停止してそのまま運ばれていく姿に、ただ最後の満面の笑顔を瞼に焼き付けていた。
みんなの談笑を聞きながらも今か今かと浮き足が躍る。
「少年」
「ひっ」
一体どこから、とまだ来ていない相手の声を捜した。背後か、いや居ない。まさか天井、と視線を右往左往させる俺に、一同は玄関を指差す。
扉をゆっくりと開けると、秋津先輩が仁王像のように立ちそびえている。初夏の日差しに後光が射してみえた。
「呼び鈴くらい鳴らしてください……」
「修行の成果を一刻も早く見せたくてな」
桜色のピアスがきらりと光った。
「まさか、ここまで歩いて?」
「ああ、坂を上り切ったぞ」
秋津先輩がコハルの背中に手を添える。
小さい肩を揺らしながら、息を切らせている少女が笑った。
「ただいま、レン君」
「おかえり、コハル」
童話の中から出てきたような少女は太陽よりも明るく瞳を輝かせている。
木漏れ日の風になったツインテールが満開の桜の笑顔を咲かせた。
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