前向きな人の話
雑踏の近くにありながら、そことは一線を画した空間があった。
公共の場とされつつ、家なき者たちの陣となっているエリア。
そこに腰を下ろし、行き交う人々をぼんやりと眺める若い男がいた。
右手にはおにぎりを、左手には傘を持っている。
今、街は急な雨で慌てふためく人々でいっぱいだった。
多くの人は、駆け足で何処かへと向かっている。
「良い傘だね、若いの」
と、壮年の男が男の隣に腰を下ろした。
「こんにちは。いやはや、急な雨で参りましたね」
「まったくだ。私は用意が良いからまだマシだがね」
そう言って壮年の男は得意げに自分の傘を掲げてみせた。
お世辞にも立派とは言い難い、ボロボロの傘である。
ただ、サイズは大きく骨組みもしっかりしていた。
元々はなかなかの傘だったのかもしれない。
「素敵な傘ですね」
「おお、君は物を見る目があるようだな。こいつを褒められたのは久しぶりだよ」
壮年の男は嬉しそうに笑う。
「しかし、こんな雨の中傘さしてここで握り飯とは、変わった人だ」
「お邪魔でしたらどきますが」
「なに、別に構いやしないだろう。ここは誰のものでもない」
「それは助かります。僕は旅をしているところなのですが、あまり路銀に余裕がなくて。基本は青空侍なのですよ」
「青空侍か、良い響きだ。今は雨空侍のようだが」
「そういう日もあります。お天道様というのは気まぐれですから」
そう言って若い男――旅人は笑った。
「しかし、それを言うなら貴方の方も変わったお人ということになりますね」
「よしたまえよ。私の格好を見れば、ホームレスだってことくらい分かるだろう」
壮年の男は自嘲して己の姿を嘆いてみせた。
しかし、旅人は「どうでしょう」を首を傾げて見せる。
「立ち振る舞いから卑しさは感じないです。実はお金持ちなのでは?」
「ははは、面白いな君は。お金持ちならとっくに暖かい家に向かっているさ。今は貧乏人だよ。それは間違いない」
「ほほう。いろいろとあったみたいですね」
「そうだな。安穏とした人生ではなかった。君はどうかな」
「僕もいろいろありましたねえ。なにせもう長いこと旅から旅の旅ガラス。故郷もなければ家庭もない。浮世に吹かれる根無し草といったところですから」
旅人はおにぎりをゴクンと呑み込むと、背負っていた鞄の中からビール缶を二本取り出した。
「ここで会ったのも何かの縁。互いの情報交換といきませんか」
「悪くない。先行き見えないこのご時世、自分のことを行きずりの他人に語って聞かせるのも一興か」
二人は缶を打ち付けて、簡単な乾杯をする。
雨音と人々の足音をバックに、二人の酒盛りが始まった。
壮年の男は、小さな町工場を経営する父親の下で育った。
母親はいない。母について尋ねると父は後ろ向きになるので、彼は自然と尋ねなくなった。
「幼い頃には気になったものだが、中学生くらいになる頃には気にならなくなったな」
「吹っ切れたのですか?」
「そうかもしれない。いないのだから仕方ないし、いなくとも生活はできている。ならそれで良いだろうと」
カラカラと男は屈託なく笑う。
その後、高校から大学に進学しようというタイミングで父が経営していた工場が潰れた。
元々経営不振だったところで、取引先に切られたのが決定打になったらしい。
費用面の問題で進学は断念せざるを得なくなった。更に、父親は度々暴力を振るうようになり、身の危険を感じた男は一人暮らしを始めることになったという。
「それはまた、大変でしたね」
「父のことは残念だったよ。ただ、工場がなくなってなかったら父の後を継ぐはめになってただろうから、ある意味では良かった気もするね。工場の経営者、大変そうで私は嫌だったからな。一人暮らしもいざ始めてみると快適でね」
「良い転機になったということですか」
「そうだね。あのまま父の下で暮らしていたらその後の私はなかったと思う」
生活は楽ではなかったが、多くの出会いに恵まれた。
バーでバイトをしているとき、とある企業の取締役と顔馴染みになった。
取締役は男の来歴を知らなかったが、その人柄を気に入ったようで、自分の企業に男をスカウトした。
「おお。乗ったんですか、その話に」
「いや、悩んでいるうちに父が暴力沙汰を起こしてしまってね。話は立ち消えになったんだ」
「こう言ってはなんですが、トラブルメーカーな御父君ですね」
「だが結果的に助かったよ」
「……助かった?」
旅人が不思議そうに尋ねると、男は頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「どうもその企業、良くないことをしていたようでね。逮捕者が出て潰れたんだよ」
「お、おおぅ」
「でねえ。その従業員の人たちが路頭に迷って。困ってるようだから、なにかできないかと思って、起業したんだ」
「……ん?」
旅人の表情には戸惑いがありありと浮かんでいた。
起業に至るまでの過程がよく分からない。いろいろあったのかもしれないが、綺麗にすっ飛ばされている。
「随分と思いきりましたね。起業したんですか。そこまで縁もなかったのでは?」
「そうなんだけどね。取締役の人から仕事の話はいろいろ聞いていて、面白そうだとは思ってたから、真っ当な形で再生できれば面白いだろうなと」
「上手くいったんですか?」
「ああ。至極真っ当な方法で復活させたよ。上場企業とまではいかなかったけど、安定した利益をあげられる企業にはなった」
「すごいですね。経営学とかかじってたんですか?」
「いや、せいぜい父のやり方を身近で見聞きしてたくらいだからなあ」
なぜ上手くいったのか不思議でならない、と男は笑った。
「けど、これまでの分を踏まえてもお釣りがくるくらいの大成功じゃないですか」
「そうだね。経営も軌道に乗って、家庭を持つこともできた。子どもにも恵まれたよ。息子と娘が一人ずつだ」
「家庭ですか。僕はあまり持ちたいと思ったことはないですが、良いものなんでしょうねえ」
「……うん、そうだねえ」
男はそこで少し寂しそうな眼をした。
「けどねえ。私は仕事にかまけ過ぎたみたいで――」
子どもたちがある程度大きくなったとき、離婚を切り出されたのだという。
男は渋ったが、そのとき家庭が抱えていたいくつかの問題について詰問されて何も答えられなかった。
貴方はこの家庭の一員ではない――そう言われたことで離婚を受け入れたそうである。
「さすがにこれには参ったね。それからは何をやっても上手くいかなくなった。気にも留めていなかった家族の存在が、私の幸運そのものだったんじゃないか――そう思った程だよ」
企業の業績も悪化の一途を辿り、とうとう男は他の取締役会で退任に追い込まれることになった。
そこからは落ちぶれる一方だったという。
蓄えは別れた家族とギャンブルで使い果たし、とうとう家賃を払うこともできなくなって、路上に放り出されることになった。
「それは、なんというか……」
「まあ、家族や従業員には悪いことをしたものだよ」
一通り語り終えて、男は缶ビールを飲み干した。
「だが、私はなんだかんだ好きにやっていたし、今も自由に生きている。不足するものもあるけど、仲間もいるし、仕事や家庭に縛られず、お天道様の下でのびのびと生きていられるからね。――これも存外悪くないものだよ」
そう言って男は缶を放り投げた。
スコン、と音を立ててゴミ箱の中に缶が飛び込んでいく。
音に驚いた野良猫が男を睨んで、どこかに行ってしまった。
男との語らいを終えた旅人は、再び歩みを再開させた。
天気は相変わらずの雨。じとじとしていて嫌な空模様である。
「こんな天気でも、さっきの男なら『悪くない』とでも言うのだろうか」
そう呟いたのは旅人ではない。
彼が持つナナシの魔導書が、鞄の中から背表紙を覗かせながら語っているのだった。
「おそろしく前向きな御仁だったねえ」
「前向き過ぎて怖いくらいだ。だが、ああいう風に物事を捉えられるなら幸せに生きられるのかもしれんな」
「そうだろうか」
ナナシの見解に旅人は疑問を呈した。
「あの人の前向きさは、そうする以外にどうしようもないところから生まれてきたもの、だったりしないかね」
「だとしても、結果として前向きならそれで良いんじゃないか?」
「いやいや、それは違うよナナシ。前向きか後ろ向きかっていうのは『結果』であっちゃいけない。前向きになろうという『結果』ばかりが必要になる人生があるとしたら、それはきっと地獄だと思うよ」
旅人は振り返る。
男の姿はもうない。
どこかへ行ったのか、それとも雑踏の中に埋もれてしまったのか。
「ま、僕にとっては他人事だ。あの人が本当に地獄を生きているかどうかなんてのは、想像するしかないけれどね――」
旅人のその呟きは、都会の喧騒によってかき消された。
やがて、その姿も景観の中に埋もれていく。
行き交う人々は、前に向かって進んでいるのか、後ろに向かって戻っているのか。
どこかへ行くために歩いているのか、何かをしたから向かわざるを得ないのか。
人々は、今日もどこかへ足を進めていた。
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