第16話

「……しょうご……翔吾……」

 夢うつつの中で、くぐもった音が次第に意味を持つ言葉に変わっていく。その間に混じるのは、コンコンと板を叩くような音。

 これは……梨夏の声だ。

 ドアをノックしている……そうか、あいつ、翔吾と俺の部屋を間違えてやがるな。でも、起きるのは面倒だから、放っておこう。そのうち間違いに気づくだろう。

 すると、すぐ近くで夏掛けを取り払う音がして、誰かが起き上がる気配があった。薄目で確かめると……翔吾だ。

 あれ、ここは翔吾の部屋か? いや……徐々に意識が鮮明になり、自分の置かれた状況が現実と重なった。

 そうだ。ここはアパートの自室じゃなくて……結依の実家・緋劔神社の参集殿の客間じゃないか。

 その客間のドアが開き、声の主である梨夏が姿を現すのが、視界の端にぼんやりと映った。

「ちょっと、早く起きて!」

 梨夏の切迫した顔が、寝ぼけ眼に像を結ぶ。

「お祖母さんの草履が見つかったのよ」

 ん? お祖母さんの草履が何だって?

 水中をたゆたっていた意識が急浮上して一気に水面に顔を覗かせ、同時に昨日の出来事が鮮明に甦った。俺は弾かれたように身を起こした。

「えっ……昨日のあれが? もう見つかった!?」

 ほとんど思いつきの素人細工が、これほど打てば響くような効果を現すとは予想だにしていなかった。しかし、梨夏は怪訝な表情で言葉を継ぎ足す。

「でも、おかしいのよ。結依は『違う』って言ってるの」

 違う? 何がどう違うというのか。

「わたしにもよくわかんない。とにかく一緒に来てよ」

 梨夏は、昨日の草履投棄工作には直接関与していないので、詳しいことはわかるはずがない。傍らの翔吾も事情が飲み込めずに首を傾げている。

 仕方がない。気になるから行ってみるとしよう。時計を見ると、六時十分、昨日にも増して早起きになってしまった。

 男は女性ほど身支度に時間を要しない。ほんの数分で、出歩いても恥ずかしくない程度に身なりを整え、俺と翔吾は梨夏と一緒に参集殿を後にした。小走りで現場に向かう。

 何だか昨日と同じような展開だ。ただ、昨日と違うのは空模様で、ところどころに青空が覗いてはいるものの、大部分は薄い雲に覆われて、強烈な直射日光は遮られている。おかげで、じりじり焼けつくような暑さは一段落というところだが、その代わり湿度は高く、重苦しさを伴う不快感は昨日にも増して強い。

 昨日の遺体発見現場とほぼ同じ位置、土濃川に注ぐ小川の岸に四つの人影があった。昨日のリプレイ映像を視ているように……。

 四人のうち、背格好がほぼ同じ二人の女性が舞依と結依で、残る二つの影は男性。一人は成隆氏、もう一人は村人と思しき白髪の高齢男性だった。昨日の遺体発見者とは別人である。

 草履が見つかったのなら、俺たちの目論見どおりなのだが、近づくにつれ、姉妹は何とも形容できない複雑な面持ちをしているのが認められた。

「おはよう。草履が見つかったって?」

 声をかけながら、結依たちに近づく。

 結依は、挨拶の言葉も失念したように無言でぎこちなく頷きつつ、川岸の一点を指し示した。

 指先の延長線上の地面にぽつんと転がっているものを一目見て、まず感じたのは違和感だった。

 言うまでもなく、それは草履である。形から判断して右足のものらしい。だが次の瞬間、違和感の正体に思い至って俺は目を見張った。

 結依の言葉どおり、確かに違う。昨日の草履じゃない。

 昨日、俺が崖から投げ捨てたのは、鼻緒が赤くて本体は薄茶色の草履だった。それなのに今、目の前にあるものは、鼻緒こそ同じ赤だが基調色は白である。履き古しているせいで、少し薄汚れてはいるものの、わずか一晩で薄茶が白に脱色するはずもあるまい。

 これはどういうことだ? まったく無関係な別人の草履が、絶妙のタイミングで紛れ込んだのか。 

 俺の心中の疑問に答えるかのような間合いで、結依が言葉を発した。

「本物の婆様の草履よ」

 やっと聴きとれるぐらいの震えを帯びた小声だった。

 何か名状しがたい気配を感じてふと横に目をやると、成隆氏が白髪老爺と会話を交わしながらも、それとなくこちらを観察している様子が窺えた。一瞬、視線が交差したが、さりげなさを装いつつ急いで目を逸らす。

 結依は自分の言葉を彼に聞かせたくなかったのではないか。

 それにしても、どうして今さらのようにお祖母さんの草履が出現したのだろう。

 昨夜、結依たちが崖から投棄したときには、遺体はすでに草履を履いていなかったのだから、可能性としては、俺たちがやったように誰かが──真犯人か?──草履を放ったとしか考えられない。

「ところで、これ、どうやって見つかったんだ?」

 翔吾の問いに応える形で、今度は舞依が草履発見のいきさつを語り始めた。

 見つかったのは今朝の六時過ぎ。発見者は、成隆氏と村人二人の計三人。白髪老爺はそのうちの一人で、もう一人の中年村人は原塚巡査への通報のために駐在所に走ったという。

 その中年村人は、毎日早朝から神社に参拝することを日課としており、今日も六時ちょうど──成隆氏が社殿の扉を開ける時刻──に神社を訪れた。

 参拝といっても、特別なことをするわけではない。作法に則って、手水舎で手水をとり、賽銭を入れて鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼で拝礼を終え、退いて帰宅の途についたところで成隆氏と一緒になったそうだ。

「巫女様の遺体発見場所にお参りする」という成隆氏と中年村人は、とりとめもない会話を交わしながら連れ立って現場を訪れ、ちょうどそこへ参拝のために行き合わせた白髪老人とほぼ三人同時に、川岸に打ち上げられている草履を発見したという。

 また成隆氏か。どうも随所に彼の影が見え隠れしているように感じる。このあたりで意を決して、成隆氏に直接当たってみるべきなのか。

 でも……本当に成隆氏が事件に関与しているのなら、俺たちのごとき部外者に真実を語ることなどあるまい。「あなたたちには関係ない」のひと言で終わりだ。実際、俺たちは結依の友だちだというだけで、栞梛家や緋劔神社の問題に関しては無関係なんだから。

 となると、やはりここは警察の出番か。しかし警察を本格的に引っぱり込むと、“事故死”が覆され、舞依・結依姉妹がお祖母さんの遺体を投棄したことがバレて死体遺棄の罪が……こうなると堂々めぐりだ。

 そう。警察といえば……二十年前の失踪疑惑について、今日こそ原塚巡査に問いを投げかけたいのだが、その原塚巡査は……まだかな。

 俺が口にすると、舞依が

「もうそろそろ、お出でになると思うんだけど……」

 と答えつつ、社橋の向こうに視線を投げた。

 誘われるようにそちらに目を向けたが、巡査が現れる様子はまだない。

 草履の出現が一つの進展であることは確かだが、それは謎の解明に近づくものではないようだ。もつれた糸にさらに別の糸が加わって一層ややこしくなったような、よけいに混迷の度が深まったような感しかない。

「これは……やっぱり故意に捨てたんだろうな」

 翔吾が俺に耳打ちするようにつぶやいた。

 俺は、白髪老爺と会話を続けている成隆氏の方を窺い、それから翔吾の肩を抱えるようにして反対方向に引っ張っていった。そして小声で問いかける。

「そう思うか?」

「としか考えられんだろ。まったく無関係な人のものならともかく、お祖母さんの草履がこんな都合よく流れてくるもんか。真犯人の仕業だよ」

 女子三人もさりげなく寄り集まってきて会話に加わる。

「草履を捨てたのが犯人だとすると……じゃ、おとといの晩、わたしたちが山を降りた後で、ってこと?」

 結依の疑問に、翔吾が自分の思考を確かめるようにゆっくりと答える。

「そうだな。舞依さん・結依さん・大樹の三人が緋籠堂を去った直後から、今朝、草履が見つかる直前までの間ってことになるよな」

 すると昨日の真っ昼間、俺たちが草履工作をするのと同じタイミングで犯人と鉢合わせ、という可能性もあったわけだ。それとも……犯人は身近にいて、俺たちの動きを察知しているのだろうか。

 俺はふと思いついたことを口にした。

「犯人が草履を捨てた理由も、俺たちと同じなんだろうな。つまり、お祖母さんの死を事故として決着させたいという……」

 言葉に出しながら俺は、もつれた糸のほんの一部が不意に解きほぐされていくのを感じた。

「ということはさ、もしかすると犯人はこれ以上、事件を起こすつもりはないんじゃないかな」

「何が言いたいのか?」という疑問に彩られた皆んなの顔を眺め、俺はそれに応えるべく言葉を続けた。

「犯人は何らかの理由でお祖母さんを死に至らしめた。でも、その後は結依さん姉妹の……」

 「死体遺棄」という言葉が出そうになって、とっさに口を濁す。

「……その行動や犯人自身の草履工作の甲斐もあって、事故として片付きそうな成り行きを見せている。こういう状況の最中にまた何かの事件を起こしたら、せっかく決着しようとしているお祖母さんの一件が、また蒸し返されることになるじゃないか」

「……」

「だから、犯人としては、これ以上罪を重ねて自ら危険を呼び込むような真似をするつもりはないんじゃないかと思うんだ。楽観的すぎるかな」

「う~ん、言いたいことはわかるし、一理あるような気もするけど……」

 翔吾は今ひとつ腑に落ちないような顔で首を傾げている。

 続いて反応したのは、結依だった。

「わたしたちがこんなこと言える立場じゃないけど……これ以上、嫌なことが起きるのは、もう……」

 生気を欠いた結依らしくない口調だった。

「真犯人が誰かなんて……」

 力なくかぶりを振りながら、結依は同意を求めるように舞依の顔に視線を送る。舞依も沈痛な面持ちで、おもむろに頷いた。

 そうであれば……姉妹がそういう気持ちになっているんだったら、このままそっとしておいた方がいいのか。二十年前の失踪疑惑も、蒸し返すのはやめておくべきなのかもしれない。ど素人の俺たちがしゃしゃり出て混ぜっ返して、取り返しのつかない事態を招いてしまったら、どうするのか。実際には、もう十分出しゃばっているんだけど……。

 俺の隣に目を伏せてたたずむ結依の横顔を見つめた。

 これ以上、下手に介入した結果、事態が悪化するようなことになったら、結依との間にも当然亀裂が生じるだろう。最悪の場合、そのまま疎遠になって自然消滅なんてことに……それは困る。

 ふと、結依の肩越しに成隆氏の姿が見えた。彼は白髪老爺と会話しながらも、小声で密談している俺たちの様子に注意を払っている様子だ。

 そうこうするうちに舞依の言葉どおり、朝の空気を微かに震わせて自動車のエンジン音が聞こえてきた。原塚巡査の駆るミニパトである。駐在所まで連絡に走ったという中年村人は乗っていない。どうやらその足で帰宅したらしい。

 巡査が駐車場から歩いてくると、成隆氏が進み出て挨拶もそこそこに経緯を説明し始めた。

 相づちを打ちながら原塚巡査は、一応熱心に説明を聞いている体裁を繕っているが、どこか心ここにあらずといった部分が窺える。真摯な言動がセールスポイントの彼にしては珍しい。

「まあ、草履が現れたということは……やっぱり事故なんでしょうね。念のため、これは証拠品として一時お預りしておきましょう」

 草履を拾い上げながらの発言も、何だか歯切れも悪い。

「こちら、右足のものですが、左足は見つかっていないんですね」

「ええ。流れのどこかに引っかかっているのかもしれませんな」

 巡査の問いに答えつつ、成隆氏はおもむろに顔を上げて、薄曇りの空を背景にそびえる緋剣山を振り仰いだ。

「それで、草履の件はさておいてですね……」

 原塚巡査があからさまに話題を切り替え、栞梛家の面々を交互に見やった。いつになく口調が硬い。

「先ほど、咲宮署の方から本署経由で問い合わせがありまして……勇人さんのことなんですが」

 一同の顔に意表を突かれたような色が浮かんだ。

「ここのところお見かけしていないようなんですが、お家にはいらっしゃるんでしょうか?」

 巡査の穏やかならざる声色に、成隆氏をはじめ舞依や結依の面に不審の影が差す。

「ここ数日、家には戻っていないようですが……」

 成隆氏が代表して答えながら、同意を求めるような視線を舞依と結依に送った。姉妹もほぼ同時に頷く。

「そうですか……」

 原塚巡査は小さく吐息を漏らして続けた。

「実はですね、勇人さんのものと思われるオートバイが咲宮市内で見つかりまして……」

 何か話が良くない方向に進んでいきそうな予感がする。舞依や結依も同じ心持ちなのか、眉根に宿った不安の色が濃くなっている。

「その経緯なんですが、今朝未明に咲宮駅前の駐輪場でオートバイが発火して炎上するという騒ぎがありまして、対応した駅前交番の係官から咲宮署に報告が上がり、先ほど署の方で陸運局のデータを検索したところ、バイクの所有者として勇人さんの名前が上がったという次第なんです」

 顔に憂色をたたえて原塚巡査はいったん言葉を切り、俺たちを見回した。

「とにかく、勇人さんご本人に会って話を聞く必要があるんですが、普段からあまりご自宅にいらっしゃらないことは私も知っていますし、とりわけここ数日は近辺でまったく姿を見かけていませんので、いずれにせよ、ここはご家族の方に確認するしかないというわけで。ただ、お宅の方でも所在を把握できていないとなると……」

 成隆氏と舞依・結依姉妹は、勇人さんが「ここ数日、家に戻っていないようだ」と告げただけだが、原塚巡査は彼らの口ぶりから所在不明ととったらしい。その推察はおそらく当たっているのだろう。

「バイクの炎上というのは自然発火によるものなんですか? それとも放火とか……」

 成隆氏が口を挟んだ。

「その点は今から調べを進めることになりますが、何はともあれ勇人さんの所在確認ですよ」

 原塚巡査にしては珍しく強い口調である。

「バイクがいつから咲宮駅前に駐輪してあったのかは、これも並行して調べないといけませんが、まず勇人さんの姿をお宅の方で確認できたのは、直近でいつになりますか?」

 問われるまま、結依と成隆氏がそれぞれの記憶を突き合わせながら検証していく。

 その結果、勇人さんは八月六日の夜に自宅にいたことは間違いないことがわかった。夜九時過ぎに母屋の食堂で一人そうめんをすすっている姿を、結依が目撃したという。

「晩ごはんの時に兄はまだ帰っていなかったので、また外泊かと思ってたんですけど、その後バイクの音がして……」

「帰ってきて食事をされていたんですね」

「はい。食事といっても、残り物のそうめんで小腹を満たしてるって感じでした。外で食べてきてたんだと思います」

 勇人さんが自宅にいたのかいなかったのかが問題で食事云々はどうでもいい。結依も妙なところにこだわっている。

「ただ、それから後、兄の姿は……」

 結局、成隆氏と結依は六日の夜以降、自宅で勇人さんを目撃していないという。それどころか、外出時に必ず使うはずのバイクの音も聞いていないので、おそらく勇人さんは六日の夜、家族が寝静まってから外出したものと思われる。七日まで家出をしていた舞依は、この件に関してはほぼ部外者の扱いだが、念のためにお母さんや君枝さん、美弥子さんには確認する必要があるだろう。

「そうですか。となると、今日が十日ですから、勇人さんが家を出られて四日目になるわけですね」

 栞梛家の面々から話を聞き終えた原塚巡査は、憂いの色を一層濃くした。

「咲宮駅周辺で勇人さんが立ち回りそうな場所、ご存知ありませんか? アルバイト先とか……」

 その口調は次第に厳しさを増してきて、もはや所在確認というより安否確認の域に達している。

 若くは見えるが、原塚巡査も警察官としての経験をそれなりに積んでいるはず。その経験によって磨かれたアンテナが、何らかの異変の信号を検知しているのかもしれない。

 結局、栞梛家の家族からは有力な情報は得られず、原塚巡査は落胆の色も露わにため息をついた。

「紫乃婆様がお亡くなりになった折ですからね、勇人さんの身にも何か起こったのでなければいいのですが……」

 その時、斜め前に立っていた結依の上半身が不規則に揺れ、次の瞬間、彼女は骨を抜かれたように地面に崩折れた。驚いた一同が一斉に駆け寄る。成隆氏と舞依が左右から結依の身体を抱え起こした。

 意識はあるようだが、結依は眉間に皺を寄せたまま目を閉じている。呼吸が少し荒い。心労で軽い貧血を起こしたのかもしれない。一昨日の晩から相次ぐ騒動に加え、新たに発覚したお兄さんの件で、心身のストレスが限界を迎えてしまったのではないか。

 結依の半身を支えている舞依も、事態の急変に動揺しているのだろう。いつものしとやかさと物柔らかさが影を潜め、表情に何となく険しさが感じられる。

 つい数分前、これ以上の変事は起こらず事件は終息に向かうんじゃないかなどと楽観的な見通しを披露したのに、勇人さんの一件が新たに発覚したことで、希望は木っ端微塵にされてしまった。

 お祖母さんの死については、表向きは事故ということで落ち着くであろうが、本当はそれが他殺だということを俺たちは知っている。そして仮に、勇人さんの安否不明に何者かの意図が働いている場合、より一層、深刻な疑いを抱かざるを得ないのだ。これは連続殺人事件なのではないか、と。

 上体を支えられたまま、結依が力なく独語する。

「本当にヤマガミ様のお怒りかもしれない。わたしたちが道に外れた行いをしたから……」

 何か目に見えない脅威から我が身を守るかのように、結依は自分の両肩を抱いて微かに身を震わせた。舞依がその背中に右腕を回し、ゆっくりと撫でさすりながら、いたわるように何事かを小声でささやく。

 やはり……事態がうやむやのまま、結末を迎えることなく、この村を立ち去るわけにはいかないようだ。

 お互い肩を寄せ合うようにしてうずくまっている舞依と結依の、小さく儚げな姿を見ながら、俺は改めて腹をくくった。

 そうであるのなら、例の失踪疑惑について原塚巡査に情報提供をお願いするのは、今をおいて他にはあるまい。

 俺は巡査の傍らに移動して声をかけた。

「原塚さんは、二十年前にこの村で起きた失踪疑惑の件はご存知なんですか?」

 寄り添う姉妹の姿に痛ましそうな視線を向けていた原塚巡査は、まったく予想していなかったであろう問いかけにきょとんとした顔で

「え……と、まあ話には聞いていますが、私が警察官になる前のことなので、詳しくは……」

 それはそのとおりだろう。でも……駐在所に当時の資料って残されているんじゃないだろうか。

 その点に突っ込みを入れると、果たして巡査は難しい表情になった。

「資料の有無はともかく、どうしてそんな昔のことに興味を持たれたんですか?」

 もっともな疑問である。

 俺たちが二十年前の失踪疑惑にこだわるのは、お祖母さんの殺害に関する何かの手がかりが見つからないか一縷の望みをかけているためだが、下手をすると舞依・結依の死体遺棄にまで話が及ばざるを得なくなるので、それに触れるわけにはいかない。

 俺は、頼富氏の怪異体験談を聞く過程で二十年前の失踪騒動のことを知り、さらに通夜祭における幹さんの咆哮──二十年前と同様にヤマガミ様が生贄を欲している──を耳にしたことによって、これから緋劔神社を取り仕切っていく舞依や結依のために、疑惑に関する情報を収集しておきたいと思った……などと、理由にもなっていないような、誠に舌足らずの返答しかできなかった。ほとんど説得力はない。

 案の定、原塚巡査にも通じたような様子はなく、俺は意気消沈して半ば諦めかけたが、思わぬところから援護射撃が飛び出した。

「実は、わたしたちも知りたい気持ちがあるんです」

 舞依の声だった。うずくまって面を伏せたまま、物憂げというか抑揚に乏しい声色で舞依は続ける。

「二十年前といえば、ちょうどわたしたちが生まれる少し前だから……その頃、村や神社で何があったのかは知りたいと思ってます」

 舞依の口から紡ぎ出された言葉はそれだけだったが、そこには万感の思いが込められているような深さと迫力があった。

 舞依や結依から直接聞いたわけではないが、自分たちの出生にまつわる事実を知りたいという思いは、物心ついた頃からずっと秘めてきたのだろう。

 ごく幼い頃は周囲の肉親に無邪気に質問を投げかけたことがあるかもしれないが、尋ねられた方も迂闊に説明できるようなことではないし、案外、本当のことは知らなかったのかもしれない。

 一方では成長するにつれて却って、おいそれと聞くに聞けない呪縛に囚われるようになってしまったのではないか。真実を知りたいという気持ちと、開かずの扉をこじ開けることへの恐れや罪悪感との葛藤に、長い間、姉妹は苛まれてきたのではないだろうか。

 舞依の静かな訴えを受けて、原塚巡査の様子にも変化が現れた。内心揺らいでいるような表情の動きである。

 ここぞとばかりに一気に畳みかけるべく、俺も口を開いた。

「警察の資料を見せてもらうわけにはいかないでしょうから、あくまで原塚さんの知っていることを教えてもらうって形で、お願いできませんか?」

 五人の視線が一斉に巡査の顔に集中する。俺たち三人は真正面から、舞依と結依は下から上目遣いに……。

「資料を見てどれほどのことがわかるか、何とも言えませんけど……」

 原塚巡査は、半ば諦めの様子で腕時計に目を走らせ、

「そうですね……あと三時間後、午前十時頃に駐在所においでください。一応、資料に目を通しておきます」

 と、渋々ながら承諾してくれた。

 原塚巡査のお気に入りと思われる舞依の援護射撃は非常に効果的だったようだ。これで局面打開への道が見えてくることを祈るばかり。

 俺は心の中で舞依に手を合わせたが、その時、ふと頭をよぎったのが風早青年のことである。彼も二十年前の件については興味を持っている様子だった。風早青年にも声をかけて同席を誘うべきか。

 ただ……話が失踪騒ぎの顛末だけに終わるのならともかく、もし緋劔神社や栞梛家の過去に及んだ場合、舞依・結依姉妹はどう思うだろう。決して歓迎できる状況にはなるまい。

 そう考えると、やはり姉妹の了解なしに風早青年を誘うのはためらわれる。

 ことに、結依は昨日里井先生のところで風早青年とは顔を合わせ、その人となりの一端には触れているが、姉であり緋劔神社の後継者である舞依は一面識とてないのだ。

 そんな赤の他人──俺たちだって他人と言えば他人だが──をこの時点で引っ張り込むのは、舞依にしてみれば俺は短慮のそしりを免れないだろう。

 逆に風早青年から見ると、俺は心ならずも抜け駆けのような行動をとることになってしまうが……ここは後ろめたさを感じながらも、風早青年への同席勧誘は断念するしかなかった。

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