第5話

 やがて長い夏の日も暮れた。

 村を覆った暮色が次第に濃くなるにつれて、さすがの熱気も力を失い、その代わりに周囲の山々から降りてきた涼気が村を包み込んでいく。

 午後七時からの夕食は、参集殿の客間に準備してもらった。夕餉の支度をしてくれたのは、参集殿担当のお手伝いさん・美弥子さんである。

 結依もお膳を参集殿の客間に運んで、俺たちと一緒に夕食をとった。

 メニューは〝山の幸〟づくし。山菜の天ぷらとお浸し、里芋と筍の煮物、岩魚の塩焼き、鹿肉のローストなど、見た目も豪勢なら、味も極上。夏バテ気味で食も進まないはずなのに、この日ばかりは例外だった。当方は一介の大学生で、それほど舌が肥えているわけでもないが、お世辞抜きで一流旅館の食事にも引けをとらない晩餐だと思う。

 それを結依に告げると

「美弥子さん、喜ぶわ。ただ、〝山の幸〟づくしのお膳は、うち独自でもなくて、村の名物って言ってもいいかもね」

 聞けば、村の唯一の公衆浴場である「錦湯」の食事も、外来者には評判がいいらしい。錦湯は入浴だけでなく、メニュー豊富な食事も楽しめるようになっており、隣には宿泊施設まで併設されているという。スーパー銭湯の田舎版というところか。

 もっとも、外来の修験者や巡礼者のお客さんが多いため、経営が成り立つのだろう。村人だけを相手にしてやっていけるはずがない。

 それにしても、苛酷な修行に挑む宗教家たちが、豪勢な食事に舌鼓を打っている光景には違和感を覚える。

「もちろん、修行中の行者さんや巡礼さんは、粗食で過ごすのよ。一汁一菜の精進料理とか、厳しい修行だと緋剣山で野宿しながらの自給生活とか。粗食でないと、身体が重くて歩けなくなるっていうわ」

 結依が苦笑まじりに教えてくれた。

 ちなみに、参集殿には俺たちの他に二人の巡礼が一週間ほど滞在しているらしい。俺たちの来訪によって、滞在客が突然、倍以上に増えたことになる。美弥子さんには迷惑をかけることになって申し訳ないな。

「その〝緋剣山の修行〟で思い出したんだけど……」

 俺は、赤菜町までのバスの車内で翔吾を交わした会話に触れ、緋剣山を中心とする村と修験道の関係について結依に尋ねてみた。

「緋剣山は、ここの裏手にある山よ。うちの神社の御神体で、ヤマガミ様の住処ともされている聖域なの。確かに、修行地として行者や巡礼者の間では有名らしいんだけど、由来については……」

 結依も知らないという。

 彼女の口からも〈ヤマガミ様〉が登場した。しかも、緋劔神社や緋剣山との間に密接な関係があるようだ。そうなると〈ヤマガミ様〉信仰の発祥にも、少し興味が湧いてくる。

「村の学校に詳しい先生がいるから、機会があれば連れて行ってあげる」

 こんな他愛のない世間話をしているときの結依は、屈託のない、俺たちの知っているいつもの姿だった。しかし、ふとした拍子に彼女の意識がどこかに飛んでしまい、いわゆる「心ここにあらず」の状態に陥る場面が見られた。やはり、双子のお姉さんと巫女の後継ぎのことが頭から離れないのだろう。

 何か俺たちにできることはないか……とも考えるのだが、いざとなると、それもなかなか難しい。

 単純な力仕事ならともかく、例えば家出中のお姉さんを探し出すといっても、地理不案内のうえ、村での人間関係は皆無という俺たちに、どれほどのことができるというのか。

 熱意や意気込みだけではどうにもならない、という無力感が募るばかり。何の力にもなれない自分に対して、時おりそんな腹立たしさを感じながらも、田舎の夜は更けていった。


 俺たちの寝室用に客間を二つ当てがってもらった。一つは翔吾と俺、もう一つは梨夏が使う。ちなみに、残り四室のうち二つに修験者──おそらく山伏だろう──が宿泊しているとのことだ。

 ホラー嫌いの梨夏が、独りぼっちになることに難色を示していたが、さりとて男二人に寝姿を見られるのも嫌ということで、どうにかおとなしく一人で隣室に引きさがっていった。

 山間の盆地だけに、日中と夜間の寒暖差は激しい。冷房を入れなくても全然問題ないほど、網戸を通してひんやりとした冷気が室内に流れ込んでくる。

 都会の夜と違って寝心地はいいはずなのに、俺はなかなか寝つけなかった。閉じていたまぶたを開き、薄ぼんやりとした天井を眺めながら……頭の中をよぎるのは、やはり結依の今後のことである。

 本当に彼女は大学を辞めて、このまま郷里に引き上げることになるのだろうか。

 結局は、後継者の第一候補である双子のお姉さん次第ということになるわけだが、結依の口ぶりでは、お姉さん自身も好んで後を継ぎたいわけではないらしい。

 それが家出の一因であり、そういう行動を取らざるを得ないほど追い詰められていたことは間違いないだろう。そう考えると、お姉さんも気の毒だ。

 なぜ、そこまでして望まぬ者に後を継がせなければならないのか。血統がそれほど貴重なのか。

 結依やお姉さんの人生なんだから、何よりも本人の意思を尊重するべきじゃないか……という個人主義的な考え方は、田舎の旧家、しかも由緒ある神社には、通用しないものなのか。

 結依の話では、神社の運営はお祖母さんが仕切っているとのことだが、相当な独断専行ぶりを発揮されているように思えて仕方ない。

 後継ぎとか血統よりも、まずは行方のわからないお姉さんのことを心配しろよ。

 うがった見方をすると、お姉さんにもしものことが起こったとしても、結依に代役を務めさせればいいとお考えのようじゃないか。二人とも血を分けた孫娘だろうに、ずいぶん薄情というか、言っちゃ悪いが、もはや冷酷の域に達しているよな。

 あれこれ考えていると、だんだん腹が立ってきて……俺は布団の上に半身を起こし、深いため息をついた。

 隣の翔吾は、旅の疲れからか能天気に寝息を立てている。

 枕元の腕時計を手に取り、薄暗がりの中、両目を近づけて時刻を確認すると、午後十一時三十分。

(少し、外の空気でも吸ってくるか)

 俺は簡単に身繕いをして、翔吾を起こさないように足音を忍ばせてそっと部屋の外に出た。そのまま参集殿の裏口に向かう。

 サンダルかつっかけ下駄のような履物があればよかったのだが、あいにく暗がりで見当たらない。やむなく素足のまま、自分のスニーカーを履いて裏口から外に出た。

 戸外では一段と空気の冷たさを感じる。

 裏口から社殿と反対の方向に進んで、参集殿の裏手に回ると、丘の上から村全体を緩やかに見下ろせる位置に出た。視界の範囲内に灯りはまばらで、村の大部分は闇に支配されている。それでも、旧村役場や駐在所のあたりと思われる一隅は、それなりに灯りの密度が高い。

 足元に、ちょうどいい大きさの柱状の石塊が横たわっていたので、これ幸いとばかりに腰を下ろした。

 こんな夜中だというのに、どこかでセミの鳴き声がした。が、すぐに静寂が戻る。

 空を仰ぐと月が見えた。満月にほど近い、美しくて明るい月だ。空気が澄んでいるせいか、月や星が近く感じる。普段、こんなに空をゆっくり眺めることなどない。いや、都会では夜空を見上げても、情緒に浸れることなんてない。

 日常生活との差異と距離を感じると同時に、はるばる緋剣村まで結依を訪ねてきたことの意味に、思いを馳せずにはいられなかった。

 当初の翔吾の言葉どおり「実家を訪ねても事態が好転するとは限らない」という懸念が、現実の結果として突きつけられつつある。

 あれこれ悩んでいるくらいなら行動するべきだ、と敢えて自分を叱咤しながらここまでやって来たのだが、結局、空回りになりそうな気配濃厚だ。

 家出中のお姉さんが戻ってくれば、とりあえず結依は後継者の立場から解放されるわけだが、お姉さんのことを考えると、諸手を上げて喜ぶ気になれない。かといって、このまま手を空しくして日常生活に戻り、結依のいない毎日を続けていくのは、あまりにも味気なく切ない。

 でも、今の自分にできることは?

 ただ、結依のそばにいるだけか。それで何の力になれる? 冷静に考えれば考えるほど、あまりの無力さに意気消沈していく。

 では、これからどうするべきか。とりあえず明日は……?

 横倒しの石柱に腰を下ろしたまま、懊悩の無限ループは続いた。

 どのくらいの時間が経ったのかわからないが、静寂の中、耳に届いた野犬の遠吠えで、ふと我に返った。

(考えていてもキリがない。そろそろ戻ろう)

 息を一つ吐き出して、おもむろに立ち上がる。

 出てきた時と同様に裏口から中に入ろうとして、参集殿の角を曲がりかけた時、母屋の裏の方で物音がした。

 半ば反射的に建物の陰に隠れ、姿勢を低くしてそっと差し覗く。

 裏口の引き戸をそっと開け、外をうかがいながら、ゆっくりと人影が姿を現した。顔は見えないが、全身が薄く月明かりに照らされたおかげで、それが誰なのか、すぐにわかった。わからないはずがない。

(結依が……こんな夜更けに何なんだ?)

 と、結依に続いてもう一人の影が現れた。結依と同じくらいの背格好で、長い髪を後ろで一つに束ねている。おそらく女性だろう。手に細長い棒のようなものを持っている。

 二人は、結依が手にした懐中電灯と思われる灯りで行く手を照らしながら、母屋の裏手を参集殿とは反対方向に歩いていく。

 何やらただならぬ気配を感じて、俺は後をつけることにした。後からその判断を悔やむことになるとも知らずに。

 二人は母屋の裏を通り過ぎて、山道の入口に設けられた鳥居をくぐり、そのまま山に入っていく。

 俺は二十メートルくらいの間を開け、足音を忍ばせながらついていった。

 山道の幅は一メートルもないだろうが、地面の凹凸に注意を払っていれば、さほど歩きにくくはない。

 空には相変わらず月が煌々と輝いているのだが、山道に入ってからは周囲に生い茂った樹木のせいで、頼りの月光がところどころ遮られてしまう。

 それでもどうにか俺は、見え隠れに二人についていくことができた。

 つづら折りの坂を五分あまり上ったところで、行く手の闇の中に灯りのようなものが瞬いた。歩を進めるたびに、樹木の間でちらちらと揺れている。

(こんな山の中で……もしかして人魂!?)

 オカルトに毒されていない俺でさえ思わず身構えたが、よく見ると、どうも人工的な灯火のようだ。

 近づくにつれ、その源が小さな御堂であることがわかった。灯りが点されているということは、誰かが中で何かをしているんだろうか。

 突然、前を行く懐中電灯の灯りが消えた。どうやら結依たち二人の目的地は、あの御堂らしい。

 胸騒ぎが一段と強くなってきた。

 というのも、二人の女性が、自分たちの動きを御堂の中にいる誰かに察知されないようにしている様子がうかがえるのだ。

 さすがに二人は、このあたりの地形や道の状態を熟知しているらしく、懐中電灯を消したままでも、月明かりと御堂から漏れ出す淡い光を頼りに進んでいく。

 やがて御堂の前にたどり着いた二人は、正面にある数段の階段を忍び足でゆっくりと上がる。

 そのまま入口の前で中の気配をうかがっていたが、そのうち入口の両引き戸をそっと開けて、音もなく中にすべり込んでいった。

 俺も足音を殺して、御堂に約十メートルの距離まで近づく。さて、どうするか。

 山道は御堂の右側で草むらに紛れるように途切れている。そこから先は闇に溶け込んでしまっていて、様子はわからない。

 その手前、ちょうど御堂の入口が右斜め横から見える位置に、俺の肩ほどの高さの灌木が生い茂っている場所があった。潜伏と監視に最適だと判断した俺は、できるだけ音をたてないように茂みをかき分け、その陰に身を潜めた。

 と、その時、御堂の中から「キャッ」というような女性のくぐもった声が聞こえた。あるいは空耳かと疑うくらいの、小さな一瞬の悲鳴だった。

 それから、しばし静寂が続いた後、御堂の中で二人が言葉を交わしているらしい声が、かすかに耳に届く。

(いったい何をやってるんだ、結依は……?)

 内部での会話らしい気配が五分あまりも続いた頃、だしぬけに入口の両引き戸が内側から開き、おもむろに結依が後ろ向きで姿を現した。見ると、何かを両手で抱えて……続いて、もう一人の女性も出てきた。こちらは前を向いて、ただ背後から光が差しているので顔はわからないが、二人で一緒に……何かを運び出している。御堂から漏れ出す薄灯りが、ぼんやりと“それ”を照らし出した瞬間、俺は自分の目を疑った。

(あれ……人じゃないのか!!)

 暗くてはっきりとしないが、巫女装束を身にまとった人間のように見える。結依が抱え持っているのが、もしかして両脚!?

 二人は両引き戸の外で、さも高価で大切な物品を扱うかのような慎重さで、“人間とおぼしき物体”をゆっくり下に降ろそうとする。

「頭……さないで! 血が……とまずいわ」

 とぎれとぎれに結依の声が聞こえた。頭? 血? 何がどうなってんだよ……。

“人”の両脚をそれぞれ左右の手に抱えて運んでいたらしい結依が、いったんそれを降ろして、御堂の中に引き返す。もう一人は、〝人〟の両腕を抱え持って、その頭が地べたに触れないように保持している。さっきの結依の声は「頭を下に降ろさないように」という注意だったようだ。「血が……」の意味はわからない。そもそも、彼女たちがなぜこんなことをしているのか、理由がさっぱりわからない。

 ほどなく御堂の灯りが消えた。周囲に暗がりが戻る。おぼろげな月明かりの中、結依が入口に姿を現し、両引き戸をきっちり閉じた。

 再び結依は〝人〟の両脚を抱え持ち、二人は御堂の左側、つまり俺が潜んでいる場所とは反対側の暗がりに向かって、それを運んでいく。

 御堂の角を曲がって二人の姿が見えなくなると、俺は呪縛にかかったように灌木の茂みから立ち上がり、気配を殺しながら後を追った。御堂の角に取りつき、そっと顔を覗かせて向こう側をうかがう。

 十メートルあまり先に、二人はいた。暗いながらも月明かりに照らされているのは、灌木がまばらに生えた狭い平坦地のようだ。

 二人は少し危なっかしい足取りで足元の草をかき分けながら、平坦地の端と思われる場所まで進んだ。

 それから彼女たちは……両手両足を持ったまま、〝人〟の身体を振り子のように左右に二回振って反動をつけた後、三回目で平坦地の向こうに放り投げたのだ。

 そこはどうやら崖になっているらしい。枝の折れる音に混じって、“人”の身体が滑り落ちていく鈍い音。夜の闇に残響を残しながら、それもだんだん小さくなっていく。

 ここまで見届けた俺は、二人がこちらに戻ってくる前に、急いでもとの潜伏場所に戻り、茂みに身を隠した。

 もう間違いない。結依ともう一人の女性は、意識を失った人間──あるいは死体か?──を御堂から運び出し、崖下に投げ捨てたのだ。

(結依……おまえ、何やってんだよ。これって犯罪だぞ)

 目の前でくり広げられた信じがたい光景に、俺は激しく動揺し、同時に放心状態に陥っていた。

(夢か? もしそうなら、すぐに醒めてくれ)

 心の中でありきたりな願い事を繰り返すが、これはまぎれもない現実だった。

 ふと気づくと、二人が小声でやり取りしながら、こちらに近づいてくる。俺は茂みの陰で息を殺し、草葉の隙間からその姿を凝視していた。

 二人が目の前を通り過ぎようとする時、その顔がはっきりと月光に照らし出された。

 俺は思わず息を飲む。

 二人はどちらも……まったく同じ、結依の顔だった。

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