ガラス人間
眼精疲労
前半
全身は痛み軋む。口内に血がにじむ。
心中には怒りやら悔しさやら、そんなドロドロとした感情が渦巻いている。
体中にいくつも青あざを作りながら、されるがままにされた自分に怒りを覚える。
そして、自分にそのような仕打ちをしている人間に、底なしの憎悪を覚える。
牛乳をかけられた制服は、牛乳が乾いて悪臭を放ちつつある。何も知らない人の前を通ると、その臭いに顔をしかめられた。その反応にすら、怒り狂いそうになる。
とにかくイライラしていた。
世界に、自分に、そして奴らに。
名前を書くだけで人を殺すことができるノートがあれば、奴らの名前を迷わず書いているだろう。
けれどそんなものが現実にあるはずはなく……。
って、あれ?
視線の先に転がっているもの。俺はそれに気づき、近寄って手に取る。
「……ガラスの……ハンマー?」
それは透明の槌だった。非常に軽く、その強度に不安が残る。
こんなもので何かを叩けば、即座にこれは割れてしまうだろう。そう確信してしまうほど、あまりにも儚そうな槌である。
「……あはは、馬鹿らしい」
俺はそう独りごち、同時になんとも言えない苛立ちを覚える。このハンマーを割ってやろう、と思った。
無造作にハンマーを横に振り、塀に叩きつける。これで多少の鬱憤晴らしをするつもりだった。
ハンマーは塀に衝突した。
ガラスが割れたときのような音を立てながら、粉々に割れて崩れ落ちた。
ハンマーでは無く、塀が。
「…………え」
予想だにしていなかった出来事に、俺は絶句する。塀はガラスのように割れて崩れ落ち、粉々になってそこにある。どうやら崩れ落ちた際の衝撃で、さらに割れたらしい。
塀だったものを見下ろしながら、俺はしばし呆然とする。
「……と、とりあえず、逃げるか……」
状況の説明をしろと言われても信じてもらえないだろうし、弁償しろと言われるのも怖かった。
俺はその場を足早に立ち去る。
その手に、ガラスの槌を持ちつつ。
○
行きたくないが行かなければならない。
なぜなら義務だから。
学校が楽しくない人間にとって、学校とはそのような場所だ。行けと言われているから、行くしかない。それだけの場所。
友情も努力も勝利も無ければ、青い春もない。乾ききった牢獄。
それが俺にとっての学校だった。
ただ退屈なだけならいい。俺の場合は、その退屈に加えて理不尽が加わる。
「おい田中!」
怒号とも罵声ともつかない声が、教室に響く。ちなみに、田中とは俺の名前である。
寝ているふりをしていた俺は、そのまま寝ているふりを続行する。こうしていることで、やり過ごせる場合もある。
「おい!」
怒号と共に机を蹴られる。今回はやり過ごせなかったみたいだ。
机を蹴られてなお、まだ寝ていたら大物すぎるし、無理がある。なので、“寝ていたけど今起きましたよ”という風を装い、体を起こす。
「お前ジュース買ってこい」
俺にそう命令するのは、クラスのボスである森川という奴だ。その森川の隣にいるのは、赤島という森川の彼女。その周囲には、森川の取り巻き連中。
森川は馬と狐を足したような顔をしていて、赤島は化粧がけばくて顔がでかい。
「……またかよ」
「かよってなんだよかよって」
森川はそう言って、俺の顎を軽く殴る。視界が揺れる。その最中軽薄に笑う赤島が見えた。
「……また?」
怒りを覚えつつも、先ほどのように殴られるのは嫌なので、口調を訂正しておく。
「ああ、まただ」
「……この前の料金」
「は?」
「…………この前の分の料金、まだもらってないんだけど?」
「……そうだっけかぁ?」
森川はわざとらしい演技をして、笑い声をあげる。
「じゃあ、今回の分と合わせて払うから、頼む」
「あっ、私もー」
森川に赤島が続き、取り巻き連中も続く。おそらく千円近く飛ぶだろうな、と思いつつ、俺は仕方が無いのでジュースを買いに行った。
無論、その出費は返ってくるはずがない。
○
ジュースを森川たちに渡し、再び寝ているふりにはいる。
あのようなやりとりは日常茶飯事である。茶飯事であるが……そこに怒りを覚えないと言えば、嘘になる。
殴ってしまえばいいのに、と思われるかもしれない。
例えば俺がキレて森川に殴りかかるとする。そうすると、反撃として森川と取り巻き連中からタコ殴りにされるのは明白だ。
以前、体中に青あざを作ったのは、そういった出来事からである。以来、俺は反撃も無意味と学んでしまった。まるで弱者の理屈だ。わかっている。
早く卒業したいなあ、と救いを求める奴隷のような感情を抱く。ああ、嫌だ嫌だ。
「そうだ田中、料金払ってなかったよな」
誰かが肩を叩いたと思ったら、森川の声が聞こえてきた。俺は仕方なく顔を上げる。
すると。
「これが料金だ」
そう言って、森川が俺の頭にジュースをかけてきた。甘い液が、俺の額を、頬を、顎を伝って落ちる。
一瞬、何をされたのか理解できなくて思考が停止する。嘲笑が聞こえてきて、ああ俺は侮辱されているのか、と理解する。
森川を見る。俺を見下して笑みを浮かべていた。
赤島を見る。醜悪に顔を歪めて笑っている。
取り巻き連中を見る。俺を嘲笑していた。
もう一度森川を見る。森川は顔をこれでもかと卑しく歪めて、俺を見下していた。
瞬間、俺の中で何かが切れた。
大事な何かが切れた。
越えるべきではない一線を越えないように、俺を踏みとどまらせていた何かが、断ち切れた音がしたのだ。
俺は考える間もなく、胸ポケットに手を入れ立ち上がる。
胸ポケットにはガラスの槌。それを握る。
「なんだぁ?」
にやにやと笑う森川と、取り巻き。赤島は喧嘩の気配を察知したのか、いつの間にか少し離れた場所に移動している。この卑怯者のクソブスめ。
どうする、と思案する。まだ理性が残っている自分に驚いた。
今想像していることを実行してしまえば、俺の人生はどうなる? そんな考えが浮かぶ。
そして、その考えをかき消すかのように。
森川の拳が俺の顔を殴り飛ばす。意識が一瞬飛び、空白が思考を見たし、怒りがすぐさま塗りつぶす。
ああ、もう、あれだ。
これもう無理だ。
ああ、うん。ああ。やっちまおう。
粉々にしちまおう。
それがいいに決まっている。
俺はガラスの槌をしっかりと握り、胸ポケットから出す。森川は俺が持っているガラスの槌を見て、嘲笑を浮かべる。
「なんだぁ? そんなおもちゃ持ってどうするんだ?」
森川は軽薄な笑みを浮かべて、拳を繰り出してくる。
俺は、ガラスの槌を拳の軌道上に配置する。
森川の拳が、ガラスの槌に衝突する。
ぱりんと、乾いた音が響いた。
割れた。
割れた音がした。
何が割れたのかは、言うまでもない。
「……あ? あ、う、あ、うわっ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
森川の右手から先が、まるで割れたガラスの人形のように、粉々になっていた。突然のことに森川は混乱、もとい狂乱しているようだ。
もうここまで来たら仕方が無いな、と俺は腹をくくる。
返済の時だ。
俺はガラスの槌を振りかぶる。森川は俺に気づき、恐怖の表情を浮かべる。赤島を含む取り巻き連中からどよめきと悲鳴が起こる。
「や、やめ、やめてくれ」
森川が健在な方の手を差し出し、俺を制止しようとする。
「あはは、そうかそうか、止めて欲しいか」
嗜虐的な笑みを浮かべる俺。ああ、森川もこんな気持ちだったのかな。そう、淡々と考える。
さぞ楽しかったことだろう。さぞ愉快だったことだろう。
今度は、俺が楽しむ番だ。
ガラスの槌で森川の手を砕く。
「う、うわああああああああああああああああああああ!」
乾いた音が鳴り、肌色のガラス片が床に落ちて割れ、散乱する。
森川は腰を抜かし、俺から遠ざかろうとする。俺はそんな森川にゆっくりと近寄る。そのついでに、先ほど砕いたガラス片を踏みにじって割る。
俺は森川の破片を軽やかに踏み散らし、森川のすぐ近くに寄る。
「や、やめて、やめ、や」
森川が何を言いたいのかはなんとなくわかっていたが、何言っているのかよくわかんなかったので。
「あ、ごめん聞こえないわ」
ガラスの槌で、森川の顔を叩いておいた。ガラスの槌が当たった瞬間、森川の顔は恐怖と驚愕が入り交じった表情を浮かべたまま硬直する。
そして、その後、ゴミクズのように崩れ落ちた。
「ぐ、ァ、あぅ、ぇ」
森川の顔は砕け散って破片になって床に転がっているのだが、その状態でも声を発することは出来るらしい。その事実に、俺は驚く。もっとも、それは声でしかなく、言葉になっていないのだが。
さて、と。
俺は周囲を睥睨する。赤島も、森川の取り巻きも、恐怖の表情を浮かべて俺から後ずさる。なんならクラスの他の人間も恐怖の表情を浮かべていたがそれはさておき。
にちゃあ、と粘質の笑みを浮かべ、今まで俺を虐げてきた奴らを見る。目が合うごとに、彼らが悲鳴を上げるのが面白かった。
最高に気分がよかった。弱者が急に力を持つと人格が変わる、という展開を数多の創作物で見てきたが、それを自身で体験することになるとは。
でもまあ、これだけ楽しいのなら、仕方あるまい。
俺がそんなことを考えていると、取り巻きのうち一人が、俺を睨み付ける。反抗的な目。
どうした? 今まで舐めてかかっていた人間が急に攻勢に出て、苛立つのか?
「わはは」
乾いた笑いを浮かべつつ、そいつに近寄る。脳天にガラスの槌を振り下ろし、粉砕。続けて、その隣にいた取り巻きの顔面も粉砕しておいた。
そんなこんなで、流れ作業のように、森川の取り巻きを砕いていく。
そして。
「や、やだ……やめ、やめて!」
赤島は床にへたりこみ、俺を見上げている。その瞳に浮かぶ濃厚な恐怖の色に、俺は酩酊する。
ああ、ああ、ああ。
こんなに気持ちいいことがあるのか。
こんなに愉快なことがあるのか。
他者を、それも敵対者を、恐怖に陥れ、強者の高みから見下す。
ガラスの槌をぐるぐると手首で回す。
「ヒィィッ!」
赤島の甲高い声が聞こえる。赤島の股間から汁が漏れ、アンモニア臭と共に湯気が立つ。
わはは、だっせー。
その様子が、俺の嗜虐心を刺激する。
「そうだな……逃げたら見逃してやるよ。女の子に酷いことをするのは、気が引ける」
と赤島に伝えると、赤島は腰が抜けているのか、床を必死に這いずって逃げている。
俺はその赤島を、悠然と追う。ゆったりとした歩調で追う。
先ほど発した自分の言葉に、『よく言うよ』と自身でツッコミを入れておいた。
赤島の右足が、すぐ近くにある。
しゃがみ込み、ガラスの槌でその足先を殴り砕く。
ぱりん、という間抜けな音が鳴る。赤島は俺の方に振り返り、そして自分の足先を見る。
「あ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
赤島の悲鳴が耳をつく。うるさいなあ、と思いつつ今度は足の太ももを殴り砕く。さらに悲鳴。
「逃げなくていいの?」
俺がそう言うと、赤島は引きつった表情を浮かべ、必死に逃げ始める。三本の手足で這う赤島は、先ほどよりもずっと遅い。まるで足をもがれた虫のようだった。
俺は赤島の背中を踏み、躙る。赤島が「ぐぎひぃっ!」という、うめき声と悲鳴が上手い具合に合わさった声を上げた。
足を上げると、赤島の背中に足跡が刻まれている。ションベンのスタンプだ。
などと考えつつ、しゃがみ込む。
赤島の右手を砕く。悲鳴。失禁。臭いな。右腕を砕く。「ぐぎゃああああああああああああああああああああああ」という悲鳴が聞こえてきた。うるさいなあ。
左手足だけになった赤島は、泣きながら悲鳴なのか怒号なのかよくわからない声をあげる。どうやら俺を非難しているようだった。普段は森川のすぐ側にいて、自信たっぷりな表情を浮かべていたのに、こうなってしまうとは。人間とは儚いものでありますなあ。
赤島は止まって俺を睨みつけているが、逃げることを諦めたのだろうか。
「逃げなくていいの? じゅー、きゅー、はーち」
カウントを開始する。赤島は弾かれたかのように、俺から顔を背け逃走を続行する。
「ななー、ろーく、ごー」
半分を越えたので、左足を砕いておいた。赤島は腕一本をしゃかしゃかと動かしている。どうやら、恐慌のあまり自身の左足が砕いたことすら認識していないらしい。
赤島は髪をかき乱し、目からは涙、鼻から水、口からは蟹のような泡を漏らしながら、俺から逃げようとしている。
「ゔぁんだが! ゔぁんっだば、ゔぁぐゔぁだ! ゔぉに!」
赤島が俺を非難する。残念ながら何言ってるかよくわかんないけど。
「よんさんにー」
カウントを加速してみる。赤島の金切り声にも似た悲鳴。
「いーち」
槌を振りかぶる。
「ぜろ!」
赤島の左手を砕く。身動きが取れなくなった赤島は、ごろりと床に転がる。
「はいざんねんでしたー」
俺は軽薄にそう言いつつ、赤島の前に回る。
赤島は自分の顔から出てきた様々な汁で、化粧がどろどろになっていた。目に塗ったマスカラかアイラインだか知らないが、そんなものが涙と共に流れて、どこかの部族の仮面みたいになっている。
俺は赤島の背中をつかみ、持ち上げる。赤島は死んだ目で虚空を見つめていた。
俺が見たいのはそんな様子じゃないんだけどなあ。そう思った俺は、赤島を持ったまま教室の壁に顔面から叩きつける。鈍い音が響き、赤島が「ぐぎぃっ」と口から泡を漏らしつつ、意識を覚醒させた。
「はいどうもー。今からいいとこ行くからねー」
そう軽い調子で言いつつ、赤島を持って、森川(の破片)の近くに行く。森川だったものは未だに呻いている、案外砕いてからも長く生きられるのかもしれない。
そんなことを考えつつ、「ほらカレピッピだぞー」と赤島に語りかけ、赤島を手放す。
ごっ、と鈍い音と、ぱりん、という乾いた音が鳴り、赤島が床に転がる。森川は粉々になっていた。赤島は床に転がっている彼氏とキスできたかな? なんてことを俺は考えつつ。
ハンマーで赤島を砕いた。
破片が地面に散らばり、混ざる。俺はしゃがみ込み、みじん切りするようにそれらの破片を細かく砕いていくのだった。
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