第36話、それは紅茶の苦さで。

「沢山食べてくださいね、松本さん」


 佐藤亜月は、目を輝かせてプレートを見つめる俺に気を使う。紅茶には牛乳を入れるか、砂糖は使うか、水も飲むか、コーヒーを沸かすかなんて問いかけてくる。しかし、俺としては始めてすぎる経験に困惑が勝っていた。

 こんなに優雅な朝食は初めてだ。これから毎日こんな生活が続くのだろうか。貧乏とは明らかに掛け離れた生活だ。何だか悪いことをしている気にすらなってしまう。こんな朝食が、こんな生活が、平和な日々が、永遠と続くのだろうか。仮にそうだとしたら、俺はこの生活に慣れることはあるのだろうか。

 初めてこんな綺麗なものを食べる俺は、ろくにナイフとフォークの使い方も知らないくせに、必死に見様見真似でホットケーキを切り分けた。

 右手でナイフ、左手でフォーク、食べやすい大きさに切ったら、そのまま口へ……。たっぷりとかかったメイプルシロップが、プレートの上にボトリと落ちる。大口を開けて、そっと口の中へ押し込むと、しっかり味わうためにゆっくりと口を動かした。


「美味しい」


 思わず口から感想が零れていた。いや、ビックリするほど美味しかったのだ。メイプルシロップはめちゃくちゃ甘いと思ったが、ホットケーキ自体の甘さは控えめで、添えられていたヨーグルトの酸味も相俟ってか、とても食べやすい。また、焼いたバナナは想像していたよりも甘く、柔らかく、口の中で溶けるようだ。こんな朝食食べたことが無い。その美味しさに思わず唖然としてしまった。咀嚼が止まらない。


「お口に合うようで、なによりです」


 天使だ。この女、天使である。お淑やかで優しく、落ち着き払った立ち振る舞いに加え料理の腕前も最高峰。都会に出て良かったと心の底から思い知らされた。


「では、紅茶も頂きそうろう」


「クスッ、どうぞ」


「かたじけない」


 俺は形から入るタイプだ。こんな素敵な食事に、思わずご丁寧人間に進化した。

 さて、まずは香りを。なんだかどこかで嗅いだような、複雑な香りが鼻腔をくすぐる。とても優しく、飲みやすそうだ。では、一口。

 ズズズッと音を立てて飲み込んだ俺は、その場で噎せた。


「あっ、ま、松本さん! 大丈夫ですか!?」


「ゲホッゲホッゲボボッブゲッフォ!」


「ティッシュティッシュ、あの、入れたてで熱いから気をつけてください」


「ガボッゲボッグボッブァッフォッ……ご、ごめんなさい」


「火傷していませんか?」


「だ、大丈夫、大丈夫ですっ!」


 大丈夫だから口拭くのやめてっ、は、恥ずかしいですっ!

 佐藤亜月は顔を真っ赤にじたばたする俺を抑えて紅茶を拭き取り顔を近づけた。シャツや喉元に着いた紅茶を素早く拭き取り、そこから顎、頬、唇と……。


 ……え?


 えっ、ちょ、ち、近い近い近いっ、待って、そんな、心の準備が……。


 佐藤亜月の唇が、すぐ目の前にあった。そんなに積極的な人だとは思ってもいなかった俺は動揺を隠せない。震えながら目を瞑る、そっと唇を尖らせ、呼吸を止める。そんな準備万端の俺から、彼女はスっと離れてほっとした様子で微笑んだ。


「よかった、火傷はないですね」


 …………くっそ恥ずかしい。


「い、いえ、すみません。ご迷惑をおかけして」


「いえ、私も先に言っておくべきでしたね。ごめんなさい」


 ほら、俺の馬鹿っ、彼女が落ち込んじゃったじゃないか。もっと気が聞いたことは言えないのかよ。と言うか、勝手に焦って噎せるなよ。めっちゃ恥ずかしい。冷静さを取り戻せ。あっ、ここはそうだ、あれだ、話題の変更だ。


「いやー、熱くて驚いちゃいましたが、このアールグレイ、美味しいですね!」


「いえ、それはイングリッシュ・ブレックファスト・ティーっていうブレンドティーです」


 え、ええっ、紅茶ってアールグレイだけじゃないのかよ!


「へ、へぇっ、イングリッシュぶれっくふぁーすとね! いやー、美味しいです」


「本当ですか? よかったー、これ私がブレンドしてみたんです。初めてだけど上手くいったみたいですね。アッサムとセイロン、ケニアにキームンを混ぜたんですけど、多分結構苦めに作っちゃって失敗したかなぁって……私は蜂蜜入れないと飲めないんですよね。あはは。松本さんって苦いのに強いんですね」


 話の半分以上を理解することが出来なかったが、ポカンと口を開ける俺の目の前で彼女は蜂蜜を紅茶に加えて一口飲んだ。


「うん、おいしい」


 それを見習って、空気を入れるようにして、若干の音を立てて少し口に含む。そしてゆっくり胃袋に落とす。うん、熱くない。うん、苦い。……あぁ、めっちゃ苦い。苦いぃ……。


 俺が紅茶を好きになるには、まだまだ時間がかかりそうである。


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