第1話、それは偶然の出会いで。

「あ、あの。どうかしましたか?」


 春の心地良いそよ風が、俺の頬を撫でた。春の風だ。冬の寒さと夏の温かさが、程よい塩梅で溶け合い、桃色をなびかせる。そろそろ正午なのだろう、高く登った太陽が、まだ冷たいアスファルトを優しく照らしていた。


「あのー、私の家の前で、何してるんですか?」


 同時に、清らかで心地の良い女性の声が鼓膜を揺さぶる。まだ大人の声ではない。しかし、少女のものでもない。俺好みの、優しい声だった。さらに、その女性の声は、明らかに俺へと向けられていたのが分かる。この俺に。いや待て、俺に? ヤバい、何か返事をしないと不審者と思われる。


「へ? いや、あの……へ?」


 しばらく思考が停止していた俺は、改めて現状を俯瞰してみる。大都会K市高級住宅街の一角、ドラキュラ伯爵でも住んでいそうな大豪邸の前で、俺はインターホンに指をかけたまま固まっていた。

 実の所何度かインターホンを押しはしたのだが、家の中から返事が無かったのだ。それでどうしたものかと悩みながら再び指をかけた時、背後から声が掛けられた。

 うん、この状況はよろしくない。明らかに事案だ。どうしよう、警察に突き出されたら事情聴取とかされるのだろうか。賄賂で切り抜けることは可能だろうか、とは言っても、俺の今の持ち金はたったの3000円だ。ヤバい、なんて説明しよう。


「あの……鬼龍院刹那きりゅういんせつなさんですよね? 私の家に、何か御用でしょうか?」


 その言葉を聞き、俺は慌てて振り返った。鬼龍院刹那とは、俺の使っている偽名だったからだ。誰しもが持っているTwitterやSkypeなんかのアカウント名のようなものだ。それをなぜ知っているのかと、一瞬慌てた俺は直ぐに納得がいった。今日俺がそう名乗った人だったからだ。

 真っ白な肌に純白のワンピース、くりりとした大きな目に、小さな鼻。小柄な体を隠してしまえそうなほどに長く真っ直ぐで真っ白な髪の毛。間違いない。今朝K市で一番大きな駅前で俺が助けた女性だ。歳は俺と同じくらいだろうか、中学生か高校生に見える。俺は今年から高校一年生になるのだが、もしかしたら彼女も……。


 そんな妄想を瞬時に展開する俺の顔を、彼女は透明感溢れる黒い瞳でじっと覗き込んだ。吸い込まれてしまいそうだ。いや、もう既に俺のハートは君のもの……何を考えてるんだ俺は。


「鬼龍院さんですよね? その白黒の髪はちゃんと覚えてますよ」


 うふふと優しげに微笑む彼女の笑顔に、思わず胸がドキッと音を出す。一目惚れだった。駅で彼女と出会った瞬間から、完全に俺の一目惚れだった。そんな彼女と、まさか再会出来るとは思いもしていなかった。この状況、何と口にしていいものか、ただ一言で表すなら……。


「まるで君は天使エンジェウだ」


 何を口走ってんだ俺はァ! しかも無駄に発音気にすんなエセ外国人がァ! ほら、彼女も引いて……いやマジで引いてるじゃん、顔真っ青にしてるじゃん。えっ、ヤバい奴だよこれ。どうすんの、どうすんの俺。なんて言い訳しよう、そりゃそうだよね。今朝助けてくれた男が突然家の前で待ってたら怖いよね、さらに気持ち悪いセリフはいたらマジできもいよね、うわどうしよう。


「君の記憶を削除デリートしてあげるよ」


 ゆっくりと右手の拳を構えながら自分にツッコミを入れる。いや俺犯罪者になりたいのか? 引越しそうそう犯罪者になりたいのか?


「も、もしかして鬼龍院さん……外国の方ですか? ごめんなさい、私さっきから日本語で話しかけて」


 いやお前天然かよ! え、何? さっきの真っ青になった顔は俺に引いてたんじゃなくて自分の言動にショックを受けてたの? いや優しすぎかよ。通報してもいいんだよ俺みたいな奴は。いや通報されたら困るけれど。


「いえいえ、日本生まれですよ。まっ、どこ育ちとは……言いませんけどね」


 ド田舎出身だよカッコつけんな俺ッ! まずい、こんなにドタイプな人に出会ったことないから本能が格好つけろと命令してくる。ここはひとまず冷静に事情を説明しないと。


「ただ、まさか背後から声を掛けられるとは思っても居なかったので動揺してしまいました。すみません」


「うふふ、そうですよね。ところでどうして私の家に? ストーカーですか?」


 いやド直球すぎるだろ!


「いえ、違うんです。俺は実は今日からここでお世話になる」


「お世話になる? あぁ、もしかして今日からルームシェアを始める松本ヒロシさんの、お知り合いの方でしたか」


 まぁ、そうなるよな。彼女は俺の名前が鬼龍院刹那きりゅういんせつなだと思い込んでいる。仕方がない。そもそも初対面の時にそう名乗ってしまったからだ。


「いいえ、俺が松本ヒロシなんです」


「うふふ、嘘はダメですよ、鬼龍院刹那さん。その白黒の髪、忘れたくても忘れられませんもの」


 くそぉ、この若白髪め。俺は彼女に対して抱くいくつかの羞恥心を何とか押し殺してメールを見せた。彼女とのやり取りだ。どこからどう説明するのが正しいのかとんと検討がつかないが、とりあえず俺が松本ヒロシであるという説明と、ストーカーではないという証明をする必要があるだろう。


「俺が今日からこの家で暮らすことになった、松本ヒロシなんです。すみません、ややこしくて」


 彼女に対して抱く謎の高揚感は何とか押さえ付けることが出来た。しかしまぁ、何故こんな事になったのかと言うと、今日の朝、4月の桜が風に舞う、駅のホームでの出来事から物語は始まる。

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