20 下層での日々の始まり
体の疲労は相当なものだったようで、寝台の上で悶々としていたイサムもいつの間にか寝入ってしまい、目覚めた時には次の日の朝を迎えていた。
まだ日は昇り始めたばかりなのだろう、部屋の中は薄暗い。イサムは上体を起こすと、大きな欠伸をしながら辺りを見回した。
部屋には横一列に寝台が並ぶ。入口に一番近いイサムの寝台の隣には、ユーラが静かに眠る寝台があった。ユーラの寝台の向こうにはさらに二つの寝台があるが、そこにはいずれも人の姿はない。
ここでの一日はもう始まっているようで、外の物音が廊下を伝って部屋の入口から聞こえてきていた。
寝起きの意識がはっきりしてきてから、イサムはここがダムティルの下層、その宿泊所だということを思い出した。そして同時にここに来るまでと来てからの出来事も思い出し、自然と眉間に皺が寄った。
一方で胸の内に感じていた、眠る前のもやもやとした気持ちが大分晴れている。疲労が癒えて余裕が出てきたのか、わずかに残る不快感は堪えられないものではなかった。ならば失敗を繰り返すまいと、イサムは軽くなった気持ちを引き締めていく。
昨日から滞在するダムティルの下層の環境は、安全面という一点を除くと森の中よりも劣悪だった。
特に臭気がひどく、川が排水路に使われているからなのか、下流付近の宿泊所周辺はそれがよりひどい。窪地のために風で散らされることは期待できず、イサムは出来うることならば健康を害する前に一刻も早くここから離れたいと思った。
けれど他に行き場はない。一つだけイサムが思い付く次の行き場は川を挟んだ向こう側、下層の西部だ。只、そこは街の人々の話を聞く限り、唯一の拠り所である安全面にすら疑問符の付く場所だ。
幸いなことに、平屋で石造りの宿泊所に窓はない。そのために宿泊所の中では外に比べて臭気が大分軽減され、生活する分には我慢が利いた。
ユーラが意識を戻した今、一週間ほどの滞在で旅立つことができると思えば、イサムはこれ以上環境が悪い方へ変化することだけは何としても防ごうと決意していた。
思いを新たにイサムが再び部屋の中を軽く見回せば、部屋の最奥の寝台には昨日寝ていた少女が既にいなかった。
もしかしたら、もう食事の時間なのかもしれない。慌てて寝台から下りれば、まだ疲労が抜け切っていないのか、体が一瞬ふらついた。それを気を入れて立て直すと、イサムは宿泊所の食堂へ足早に向かった。
食堂は小学校の教室の半分ほどの広さだ。大きな長机が一つとその周りに椅子が置かれて、十人ほどがまとめて食事を取れそうな場所だった。
既に何人かは食事を終えたようで、いくつもの空の椀が机の上に放置されている。今、食事をしている者の数は三人。だがそこに会話などはなく、食堂には食器の立てる音と食事をする者の咀嚼音だけが響いていた。
イサムは食事をする者の中に特徴的な赤い髪を見つけて、それが同室の少女だと気付いた。
少女は他の者と同じように視線を椀に落としたまま、食堂へ入ろうとする者に関心を向けてくることは一切ない。他の二人が椀から木匙を口に運ぶ光景はまるで機械のようで、それを模倣する少女の姿は、昨日の女と言い合いをしていた姿と到底結び付かなかった。
「遅いわよ」
食堂の入口に突っ立ち、様子を窺っているイサムに声が掛かる。
イサムが声のした食堂の奥に顔を向ければ、恐らく調理場だろう場所から、両手にそれぞれ椀を持つ宿泊所の女が歩いてきた。
「これ、あんた達の分」
そう言いながら、女は両手の椀をずいと突き出してくる。
「部屋に持ち帰ってもいいですか?」
受け取った椀の中身を確認しながら、イサムは尋ねた。
椀の中身は雑穀の粥なのだろう。少し黄みがかった白い粥がなみなみと入っており、そこに木匙が差し込まれている。温めてくれていたのか、椀を通して熱が伝わってきた。
「……部屋を汚さないでちょうだい」
「大丈夫です」
イサムはすぐに言葉を返したが、女はそれを聞く前に椀を渡すと踵を返していた。
食堂の奥、調理場へと戻っていく女の背中に、声は届いているはずだ。女が何も言わないことを了承と受け取って、イサムも踵を返すと両手に椀を持ったまま食堂を後にする。
食堂を出る際、ぐるりと中を見回すも、目に入る光景は来た時と同じで、やはりイサムを見てくる者は誰一人としていなかった。
イサムが部屋に戻った時にはユーラはもう目覚めていて、寝台の上で上体を起こし、護衛に残した蛇と戯れていた。
そして今はイサムから椀を受け取ると、二人で黙々と食事を進めている。
「薄い」
呟き声であるそれには、聞き直すことが不要なほどに力が戻ってきていた。
ユーラの声に復調を感じて喜ぶもその言葉を訝しげに思い、イサムは椀から顔を上げてユーラを見た。
「薄いって、塩辛いくらいなんだけど」
「そっちじゃないわ」
ぶつぶつと言いながらも、ユーラは食べることを止めない。
戻ってきたイサムにユーラが最初にしてきたことは自身の左腕の確認だった。上層の宿での一悶着の後は時間がなく、イサムは全く説明していなかったのだ。
左腕に違和感はなく、運動機能に問題はないというユーラの言葉にほっとしたのも束の間、無くなったはずの腕が元通りになっていることへの説明を求められて、イサムは答えに窮してしまった。
自身の魔術によるものだという棚上げしてきた問題を突き付けられる。ナリアに問われて声を荒げたことも思い出して、イサムの顔は自嘲混じりに苦々しく歪んだ。
イサムのそんな様子にもユーラは態度を変えず、じっと目を合わせてきた。それはまるでイサムが問題から目を背けることを許すまいとしているかのようだった。
そしてその圧力に屈したイサムは、自身の行動も含めたユーラが倒れてからの全てを語り、話し終わる頃には食堂から持ってきた粥はすっかり冷えたものとなっていた。
粥は冷めても塩辛く、大した量もないのに食べている途中で口が疲れて、イサムの木匙を口に運ぶ速度はどんどんと鈍くなる。
これが一日分の食事だと思っても食べることが苦痛になり始めたイサムには、薄いというユーラの文句は意外でしかなかった。
イサムが食事の手を止めてユーラを見ていると、ユーラは木匙を椀の中の置いて再び口を開く。
「この粥、不自然なほどに魔力が薄いのよ」
魔力が薄い。それは異界に来ることになった原因の一つだ。
「それじゃあ体は!?」
「今は大丈夫よ」
慌てるイサムに対して、ユーラは落ち着いた様子を崩さない。
只、言外ににじませたこれからを思えば、イサムは悠長に食事をしていることなどできず、椀を脇に置いて荷物を漁り始めた。
「村で貰った干し肉ならあるんだけど」
「果物はないの?」
「……ない。森を出てから、真っ先に食べた」
リュックサックの中を探しても、干し肉以外に目ぼしいものはなかった。
干し肉と聞いて寄って来た蛇にそれを与えてから、イサムはユーラの反応を待つ。
ユーラは木匙を口に運びつつ、視線を中空に漂わせて考え込んでいる。その姿からは状況を把握しようとする意思が感じられるも、表情は何処か熱っぽく、まだまだ本調子ではないことが察せられた。
止まっていた手を動かして、イサムは再びリュックサックの中を漁った。今度は奥底まで手を突っ込んで確認すれば、しばらくしてその指先が何か硬いものに触れる。引っ張り出してみると、それは滞在費の支払いを終えた後、盗まれないようにと底の方へ押し込んだ石の入った巾着袋だった。
巾着袋は宿泊所の支払いを終えて、大分軽くなっている。しかしそれでも上層の宿の払い戻しで受け取った石などによって、中には石がまだいくつか残っていた。
「上で何か買ってくるしかないか」
イサムは巾着袋の口を広げて、ユーラの前で残った石を取り出していく。
石はいくつか残っているが、所詮いくつかでしかない。イサムは昨日の不安を忘れたわけではないし、ユーラも不安げな顔を隠さない。それでも優先順位を問われれば、即座に答えることができるほどに結論はあっさり導かれた。
「私は干し肉でも」
「本当に食べられる?」
イサムが被せるように質問すると、ユーラからは何も返ってこない。
「とにかく、見てくるだけ見てくる」
そしてイサムは外套を羽織ると、上層を目指して宿泊所を後にした。
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