21 未知と無知

 部屋から慌てて出ていくイサムの様子が何処か滑稽で、口元には自然と笑みが浮かぶ。だがイサムの足音が遠ざかり聞こえなくなった途端、ユーラはその笑みを消すと苦しげに大きく息を吐いた。


 体は依然として気怠い。上半身を起こしているだけでも、じわりと額に汗をかいた。鉛のように重い体は、動かそうとする意思を諦めさせるように、体を寝台に縛り付けようとしてきている。


 欲求のままに眠ろうとする体を抑えつつ、ユーラは粥の入っていた椀を脇に置くと自身の左腕に目を落とした。


 改めて小指から順番に、確かめるように握り込んでも不具合はない。その動きも感触も自分の手や腕であることに疑いようがなかった。けれどそれが自身にとって望ましいことだとしても、ユーラは素直に信じることができずにいた。


 切られた時の痛みと衝撃を覚えている。あの時、傷口から血と共に命が流れ出るのをユーラは確かに感じたのだ。それを、この左腕は夢か幻かといわんばかりで、まるで自身の行動すらなかったことにしようとしているように思えた。

 草原での戦いを思い起こせば、耳には男達の絶叫が甦ってくる。それはユーラが初めて明確な敵意を持って、魔術で人を傷付けた結果だった。

 あの者達は助かったのだろうか。そんな思いを抱くのも、これまで魔術によって一度も人を害したことがなかったからだ。


 強大な武器である魔術は、それを行使できるだけで絶対強者の立場を保証する。

 何の犠牲も出さないように二十人ばかりを制圧する。あの場においてそうしたいとする意志、それができるという自信をユーラに持たせる力が魔術にはあった。

 だが現実は、ユーラは腕を斬られ、そして恐らく相手も無事には済まなかった。


 自身の驕りと人を傷付けたことの残痕を探して、ユーラは右手で左腕を確かめていく。


 ユーラが着込む服の左袖は二の腕の途中でぼろぼろとなっていた。血で黒く染められた布は、そこから腕が切断されたことを物語っている。しかしやはりそこから伸びた剥き出しの腕には、何の痕跡も残っていない。


「あなた、本当に何かしたの?」


 ユーラの声に反応して、ユーラの膝の上でとぐろを巻いていた蛇がその首を向けてきた。


 イサムの説明通りならば、左腕もこの蛇もイサムの魔術によるものなのだろう。そしてその魔術をイサムに与えたのは、この蛇のはずだった。


 蛇はそのままユーラににじり寄ると、その左腕にじゃれついてくる。何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。何も答えない蛇に少し苛立ち、ユーラが手で捕まえようとしてみても、蛇は手の隙間からするりと簡単に抜けていく。


「取込み中かしら?」


 突如掛けられた声にユーラが顔を上げれば、部屋の入口に宿泊所の女が立っていた。その手には湯気立つ小さな木のたらいと布がある。


「その様子なら大丈夫そうね」

 女はそう言うと、ユーラの返答を待たずにずんずんと部屋の中へ進んできた。

「あの……」

「そろそろ体を拭かないと。唯でさえここは臭いんだから。ほら、早く服を脱いで」

 ユーラの声が聞こえないのか、女はそう言葉を続けながらユーラの寝台までやって来て、その脇にたらいを置いた。


 蛇は女が近付いてくるとユーラを守る素振りなど見せず、ゆるゆるとユーラの膝から寝台、そして床へと順番に下りて、そのまま寝台の下へと消えていく。


 寝台に残る蛇のにじり去った跡に、なんて薄情な奴なんだと思うもそれで何か状況が変わることはない。抗う気力を持たず、ユーラは結局言われるがままに上着を脱いで、寝台の上で座り直すと自身の手が届かない背中を女に差し出した。


 女は湯に浸けた布を固く絞ると、ユーラの体を拭き始める。拭いている間、無駄な会話はなかった。飛んでくるのは拭きやすくするための腕や体の向きを動かす指示ばかりで、ユーラも気怠さから億劫なのもあって、ずっと無言でいた。


 そんな二人のいる部屋の中には、ユーラの体を布が擦る音と布を洗い、絞る水音だけがしばし響いた。


「耳以外、何処も変わらないのね」

 無言でユーラの体を拭いていた女が不意に口を開く。


 女の絶妙な力加減と体がすっきりしていく心地良さに、舟を漕いでいたユーラは慌てて俯いていた顔を起こした。


「はい?」

「これなら獣化が治るのも時間の問題だと思ったのよ」

 そして聞き返せば、ユーラが居眠りをしていたことに気付いていたのか、女は笑いながらそう言葉を続けてきた。


 だが改めて向けられたはずのその言葉の意味が、ユーラにはよくわからなかった。耳に入ってくる女の言葉に、きょとんとした表情を浮かべることしかできない。

 只、女はユーラが背中を向けているため、その表情を知ることはできないようだった。


「あたしの旦那はちょっと前から塩の採掘に、洞窟に篭もりっきりなのよ。体力があるったってやっぱり心配じゃない。あんたみたいに少しでも治ってくれば、三日に一度は帰ってくるのかねぇ」


 女は言葉を重ねながら布を洗っているようで、部屋の中にはちゃぷちゃぷと水音が響く。

 そんな音を耳にしながら、ユーラは自分の顔が次第に強張るのを感じていた。


 獣化には人それぞれ差異がある。しかしその差を治癒の過程によるものだと言われたのは、多くの獣化病の者と暮らしてきたユーラにとって初めてのことだった。

 ユーラの幼い頃は獣化がもっと激しかったのかと問われれば、そうではなかったというのが答えになる。獣化病を患って十年ほど経つ中で、ユーラの体は当然成長した。しかし獣化に変化が起きたことは一度としてなかった。またそれは他の者も同様で獣化を発症、症状が固定されて、そこからさらに変化があった者など、ユーラは見たことも聞いたこともなかった。


 誤解を解いた方がいいのかもしれない。そう思うも、さらに言葉を続ける続く女に対して、ユーラの口からは曖昧な相槌しか出てこない。それは人の信じていることを無下に否定した後のことを思えば、嫌な未来しか想像できなかったからだった。


 自身の予感に忠実に、ユーラの思考はどうやってこの会話をやり過ごすか、その方向へと切り替わっていく。

 だが女の次の言葉を耳にして、思考の舵は再びずいと女の方へ引き寄せられた。


「まぁ治った人が出れば、仕方のないことかもしれないけど」

「……治ったって、獣化病が、ですか?」

 その言葉の内容にユーラは思わず振り返り、女と視線を合わせた。

「ええ、つい最近。すぐに上に帰ったらしいから、あたしは誰か知らないんだけどね」

 そんなユーラの様子に、女は返答しながら不思議そうな顔をする。


 もしかしたら自分が知らないだけで、本当は獣化病も治るのだろうか。女の平然とした様子を見ていると、ユーラの思考は楽な方へ流れていこうとする。

 実際、自分自身が患っていても、獣化病についてユーラが知ることは少ない。真実を知らないならば、その思考も間違いではないのかもしれない。

 只、ユーラには今まで見てきたものがある。考え方一つでそれらを簡単に否定するなんてことを、素直に受け入れることはできなかった。


「まぁ、とにかく体が動くようになったら、早く働いてさっさと獣化病を治しなさい。あんないい旦那をここに置いとくなんて可哀想よ」

 聞き間違えかと思うような女の言葉を耳にして、ユーラの口からは「は?」という一言だけが漏れた。


 その間も手を動かしていた女は布を絞り切ると、たらいを手に持って立ち上がる。


「治らなきゃここからは出られないんだから。それにしたって獣化病の身内に、ぽんとあんな大金出すなんて初めて見たわ。冬に備えて入り用だったから、こっちとしても助かったんだけど……」


 考え事をしている中に放り込まれた女の勘違いに、ユーラは体を拭いてもらった礼を忘れて只々唖然とした。

 女はそんな様子のユーラなどお構いなしに言葉を続け、それによって困惑はさらに深まっていく。


「ここから出られない……?」

 次から次へと投げられる言葉に頭が追い付かず、ユーラは聞いたままを繰り返すように口を動かした。


 その時、女の向こうに部屋の中へ入ってくる人影が見えた。


「ただいま」

 そう言いながら進んでくるのはイサムだった。


 買い物を終えるほどに、いつの間にか時間が経っていたようだ。上層で目的の物が見つかったようで、着込む外套の裾を上手く使ってイサムの腕には沢山の果物を抱え込まれていた。


「探したんだけど、これしかなかった」

 イサムは申し訳なさそうな声で言葉を続けてくる。


 そしてその顔がユーラを見て赤くなるのと、ユーラが自身の上半身に何も身に着けていないことに気付くのは同時のことだった。

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