14 異界情緒

「……亜人は一人だって話じゃなかったの」

 イサム達が宿に入った途端、正面から声が掛かる。


 ユーラを背負うイサムが声のした方に顔を向ければ、そこにはこちらに褐色の瞳を向けた黒髪の太った中年の女がいた。


「いくら教会のお連れだとしても、常連は他にもいるのよ。エルスロ、どういうつもり?」

「いや、この人は違う。ちゃんとお墨付きもある」

「でもその顔は……」


 その女はエルスロと会話を始めても、ちらちらとイサムの様子を探るのを止めない。この宿の者なのだろう。女がイサムに向ける視線は、不快感よりも他の客に対する憂慮が見て取れた。


 獣化病と勘違いされている。イサムはすぐにそのことに気付いたが、それを自ら訂正しようとは思わなかった。顔のしるしが気になりはしたが、ユーラを背負っているので手を伸ばせない。背中の上で眠るユーラの熱を感じながら、エルスロと女のやり取りの結果を只々待ち続ける。


 言い合う二人のやり取りはなかなか終わらなかった。

 エルスロが言葉を重ねていくが、女は余計な面倒を抱えたくないようで明らかに宿泊を渋っていた。


「私が責任を持ちます」

 結局その場を収めたのは、聖教会の者であるナリアのその一声だった。




 宿の支払いを終えると、イサム達は宿の二階へと向かった。


 宿泊する部屋は、今日は二部屋を男女で別れて、明日以降は一部屋をイサムとユーラで一週間使うことになった。

 また宿泊費についてはナリアが全額負担した。

 そしてその支払い時において、イサムはダムティルに来てから何度目かの衝撃を受けることになった。


 イサムは異界に来てから森の中にいるばかりで、この世界の貨幣というものを知らなかった。荷物の中にはガフから受け取った謝礼金があるのだが、村を出た後に中身を確かめる機会はなく、それがどういったものでどれくらいの価値になるのかも知らずにいた。

 その状態で宿泊が決まって宿の女に支払いを促されても、イサムは戸惑うことしかできずにいた。

 だがそんなイサムの様子を余所に、ナリアはエルスロと二、三言葉を交わすと宿の女の前に進み出る。

 それはナリアとエルスロの間で予め決めていたのだろう。荷物から金銭を取り出そうとするナリアの姿に、イサムは甘えるわけにはいかないと思いつつ、さりとて支払いを言い出すこともできず、そのままナリアが宿の女に支払う姿を後ろでじっと眺めていた。

 そしてナリアが宿の支払いのために取り出したのは、イサムの知る紙幣では勿論なく、それは形が不揃いの、色とりどりのいくつかの石だった。それは鉱石か、それとも宝石か。一つ一つの大きさはイサムの小指の先から親指の先ほどのものもあって、ばらばらだった。

 宿の女はそれをナリアの手から二つばかり指で摘み上げると、品質を確かめるように様々な角度から眺め始めた。それからしばらくして確認し終えたのか、女の後ろの受付台から盆を取り出し、そこに石を全てを受け取ると、次は盆をわずかに上下に動かして重さを確かめ始めた。

 その光景に何の冗談かと思ったが、イサム以外の皆の表情が大真面目なことで、どうやら本当に石が通貨として流通していることがわかった。イサムの位置から見えるものでも、ナリアの用意した石にどれ一つとして同じものはなく、イサムにはどうやってその価値を定めているのか全く見当が付かなかった。


 宿の女が慎重に確認作業をすること数分。

 盆から顔を上げた宿の女は「面倒を起こさないように」と念を押しながら、鍵をナリアに手渡して、イサム達はやっと宿泊部屋の並ぶ二階へ通されたのだった。


 宿の二階に上がると、板張りの真っ直ぐに伸びる廊下がイサムの目に入る。

 一階の多くは石材で作られていたが、二階はそのほとんどが木材でできているようだった。廊下には等間隔に部屋の扉が並び、その向かい側の壁には小さい窓が並んでいる。窓にガラスはなく、木戸が開け放たれて日の光が室内を照らしているが、時折冷たい風が吹き込んでは室内の空気を冷やしていた。


 用意された部屋は廊下奥の二部屋で、イサム達は冷えた廊下を奥へ奥へと進んでいく。


 廊下の幅は人がようやくすれ違えるといったところで、イサム達はエルスロを先頭に一列になって部屋へと向かっていた。

 すると奥の方で扉が開き、そこから出てきた男が一人こちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 他の客なのだろう。エルスロより少し若そうに見える男は、馴染みと自称するエルスロとは知り合いではないようで、お互い会釈の一つもせずにすれ違う。

 イサムは宿の女の言葉を思い出すと、余計な騒動にならないように俯きながら男の脇を静かに抜けていく。

 しかし男は何か惹かれるものがあったのか、すれ違いながらもこちらの素性を確かめるように、こちらの姿一人ひとりに視線を向けてきていた。


 背中にいまだ男の視線を感じながらも、用意された部屋に辿り着くと、イサムはナリアが開けた扉から部屋の中に入った。そのまま部屋の奥へと進み、入ってすぐ目に付いた備え付けの簡素な寝台にユーラを降ろす。


 部屋の中にある寝台は一人が横になるのがやっとの小さいもので、借りたのは一人部屋のようだった。他にあるものといえば机とそれに合わせた椅子、机の上には夜間用のランプがあるのみで、部屋の中は殺風景なものだった。


 ナリアがユーラとユーラの眠る寝床の状態を確認し始める中、イサムは椅子を引くと勝手に腰を落ち着けた。


「様子はどうですか?」

「……良くはなっているようです」


 ナリアの様子にはユーラの左腕のことを問いたい気持ちを察することができる。しかしそれを飲み込むように、イサムを見ようともしないナリアの態度が、イサムには申し訳なく、そして気まずかった。

 只、そうは思っても何も知らないのに説明なんてできるわけがなく、イサムはユーラとその傍で作業するナリアの背中を見ていることしかできずにいた。


 ナリアから声を掛けてはこず、無言の時が流れた。


 しばらくしてイサムが気まずさに堪え切れなくなった時、部屋の扉が軽く叩かれた。そしてイサム達の返事を待たずに扉は開くと、荷物を置いたエルスロが部屋の中へと入ってくる。


「次の食事は夜だそうだ」


 開口一番のエルスロのそんな言葉で、イサムは部屋の中の空気が少し弛緩したように思えた。




 その場で今後の予定を確認すると、三人はようやく得た落ち着ける場所で仮眠を取ることにした。

 エルスロと共にもう一つの部屋に入ると、イサムは寝台をエルスロに譲り、荷物から寝袋を取り出した。寝袋を見るエルスロの視線が若干気になったが、それを無視して横になる。

 目を瞑ると一瞬また深い眠りに落ちてしまったらという懸念が浮かんだが、それは眠りを妨げるには至らなかった。そして目覚めてみれば日は落ちておらず、イサムの心配は杞憂に終わった。


 そうして仮眠を終えた今、イサムはナリアと眠るユーラを留守番に残して、同じく仮眠から目覚めたエルスロと共に街へ繰り出していた。


 森や村とは違う、ダムティルという街は異界に来たことをより意識させられる異質な場所だった。それでいてナリアとエルスロと別れなければならないことに、イサムは不安を感じずにはいられなかった。その不安を少しでも解消しようと、エルスロに街の案内を頼んだのだ。


「あれが大階段だ」

 足を止めたエルスロが声を掛けてくる。


 エルスロの指差す方をイサムが向けば、そこには上層から中層を抜け、下層まで一直線に続く長い下り階段があった。


「事実上、あれが門に当たる」


 ダムティルには街を囲む壁や柵が存在しない。街と外界を明確に区切るものを探せば、それは街の外側ではなく内側の、窪地の始まりとなる上層と中層を区切る崖になる。

 階段が中層に差し掛かるところには、行き来する人間を監視する槍で武装した人の姿が見えた。


「中層や下層に用がある時はあれを使うらしい。まぁ階段を下りることはないだろうが」

 それだけ言うと、エルスロは再び案内に歩き出す。


 エルスロは上層を余所者の集まりだと言っていた。つまり上層であるここは、ダムティルであってダムティルでない。本来の街は中層と下層のみで作られ、その機能もそこで完結している。そして中層と下層から区切られた上層もまたそれだけで完結していた。

 エルスロはダムティルに訪れたことは幾度となくあるが、それでも階段を使ったことは一度もないとのことだった。


 イサムが見て回る上層の街中は、全体が商人のために作られた市場のようだった。

 所狭しと並ぶ商店は食糧や酒を扱うものが多く、店の中にはイサムが見たことのある森の獣の肉や果物を扱っているところもあった。これらは旅の食糧の補給に多くの者が買い付けるとのことで、エルスロも明日の出発のためにいくつかの商店で店の者に声を掛けていた。

 そんな上層の中心となっているのは、やはりあの起重機によって下から運ばれたダムティル特産の塩と石材の売り場だった。

 塩の精製は下層で行われているとのことで、下層に目をやれば確かに湯気の立ち上る場所が見える。そこで塩の川の水を煮詰めているらしい。

 どうしてエルスロがそこまでこの街の事情に詳しいのかとイサムが問えば、その水を煮詰めるのにエルスロが売り捌いた木材も燃料として使われているとのことで、それを聞けばイサムもなるほどと思わざるを得なかった。


 またエルスロが食糧の買い付けをする傍ら、イサムはエルスロや店の者に商品の値段を聞いて回った。

 イサムの手荷物にはガフから受け取った謝礼金の入った袋がある。出掛ける前に中身を確かめれば、そこに詰まっていたのはやはり色鮮やかな石だった。

 ダムティルからプレダまで移動するには馬車を使わなければならない。それには当然ながら金銭が必要だ。イサムにはこの石の使い方を、この世界の金銭価値を学ぶことが急務だった。


 エルスロの買い付けが終わると、イサムは街外れにある馬車の駅へ案内された。


「プレダまで行くかは知らないが、ここに積荷に余裕のある者が寄ることになっている」

 エルスロは「小遣い稼ぎのようなものだ」と続けた。


 三方に壁のある屋根付きの小さな建物だ。まるでバスの停留所のようで中には長椅子が設置されていた。建物の前には馬車が三台ほど停車している。建物の中には客を待っているのか、それぞれの馬車の持ち主であろう三人の男が長椅子に座って談笑していた。


 男達はエルスロに気付いて一旦その顔をこちらに向けたが、エルスロが軽く手を上げて横に振ると、すぐに顔を戻して会話を再開した。


「料金はどれくらい掛かるんだろう」

「場所による。三つもあれば、乗ることはできる」

 エルスロはそう言ってから、イサムに顔を合わせてくる。

「これで案内は終わりだが、何かあるか?」

「いや、十分です。ありがとうございます」


 知らないことが多すぎる上に与えられた情報が多く、イサムには何か不足があるか判断しようがなかった。


 イサムが素直に感謝の念を伝えると、エルスロは意外そうな顔をする。


「何ですか?」

「……礼を言うとは思わなかった」

「礼ぐらい言いますよ」


 どうやらエルスロは馬車でイサムに襲い掛かったことを気にしているようだった。そのことに初めて気付いたイサムは、気にしてないとばかりに軽く応じて笑った。


 そうして最後に街中を通る上水路と起重機を見物して、二人は宿へ戻った。

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