7 森に生きるもの(1)

 森の中に何者かの声が響く。


 イサムはこの世界に来て、ユーラ以外の声を初めて耳にした。その衝撃に、何を言われたのかまでは把握できていない。


 ユーラが素早く辺りを見回した。


 声のした方向、ユーラの右後方は緩やかな上りの斜面となっている。

 その斜面の上に、イサム達を見下ろす一匹の犬がいた。


 森の中にこぼれる日差しが、その犬の短く黒い体毛に覆われた筋肉質な体格を浮かび上がらせる。

 大きさはイサムの腰の高さほどだろうか。小さい黒い目と垂れた長い耳を持つ顔は、理知的な雰囲気を漂わせている。しっかりとした四肢は力強さを感じさせ、飛び掛かられたら無事には済みそうもない。


 ユーラから遅れながらも犬を見つけて、イサムはその観察を続けていく。


 こんな犬種の猟犬をテレビで見たことがある。猟犬ならば先ほど声を発したのは猟師だろうか。

 異界に来てようやく人と出会える、旅が進展を見せると思うと、ここまでの苦労もあって込み上げてくるものがある。


 イサムは先ほどの声の主を探しそうと、犬の周辺へ視線を巡らした。


「動くなと言ったんだ!」


 鋭い音を立てて、イサムの足元に矢が突き刺さる。


 イサムは矢が飛んできたことに驚くが、それ以上に警告を発した声の主に驚いた。イサム達を見下ろす犬、その犬が喋ったのだ。

 二つの衝撃が混乱から一周回って、イサムの平静を保たせる。

 目だけで矢の飛んできた先を窺うと、木の影に弓を構える者の姿があった。


 イサムとユーラは無抵抗を示すために、視線を犬へ向けたままに両手を軽く上げた。


 手首に通したストラップがだらりと下がり、ぶらぶらと繋がったポールが揺れる。


「どうする?」

 暗に始末できると、そう小声で告げてくるユーラ。

『……これを逃したら、森をずっとさまよい続ける気がする』

 穏便に済ませたい思いもあり、イサムは何とか生け捕りにできないかとそれに返した。


 潜む二人の声は穴から響く豚のうめき声でかき消され、対峙する相手には届かない。

 そんな状況の中で任せろと言わんばかりに、イサムの首元から蛇がそっと離れた。


「森を荒らしているのはお前達だな」

 犬の、咎めるような声が聞こえてくる。

「荒らしてなんていないわ。食べるために狩りをしたことはあるけど」

 ユーラが答える様を、イサムは黙って横で見ていた。

「血の臭いをまとわせて何を言う! それだけ周りを煽っておきながら何もしていないつもりか!」

「煽ってなんかいないわよ。あなたの勘違いを押し付けないで欲しいわね」


 ユーラの言葉はイサムも思うことそのままで、イサムが会話に口を挟む必要はなかった。もっとも話せと言われても、イサムには異界語を上手く喋れる気はしなかったが。


「愚かな。時として無知は罪になるのだ。自分の行動の影響を、森に住む者達のことを考えられないのか」

「ご心配なく。道さえわかれば、すぐにここから立ち去るわよ」

「そういう問題ではない!」

 ユーラと犬の言い合いが、矢継ぎ早に繰り広げられる。


 やり取りを見ているだけのイサムは手持ち無沙汰だったが、それは犬の向こうで弓を構えた者も同様に見えた。


「ドニス、もういいだろう」

 その弓を構えた者が初めて口を開いた。


 ドニスと呼ばれたその犬へ掛けた声の調子から、その者はどうやら男のようだった。


「これ以上、批難をしても意味がない」

 そう続けながら構えを解いて、男は木の影から姿を現した。


 その姿にイサムは息を呑んだ。


 立派な体格を持ち、強さを感じるその男。だがその顔は人ではなく、まるで犬そのものだった。


 一般に認知度の高い犬種、シベリアン・ハスキー。人の体の上に茶褐色と白色の毛で彩られた頭が乗っていて、褐色の瞳がこちらを見据えている。

 服装は毛皮で作っただろう半袖のシャツに長ズボンと軽装で、靴は履いていない。そして服から覗く手足も犬のように毛深かった。弓を握る指先は人のようだが、犬が二足歩行に進化した形と言った方がわかりやすい容貌だ。


 イサムはその姿をまじまじと観察してしまう。喋る犬も衝撃的だったが、見た目は只の犬だ。衝撃はその比ではない。


「悪意はないのだろう。こちらの事情を話せばいいじゃないか」

 男はイサムの不躾な視線を意に介さず、言葉を続けた。

「悪意がない? オルモルはこの女の態度を見てよく言えるな」

「少なくとも、この男に悪意はなさそうだ」


 オルモルと呼ばれた男とドニスが会話をしている。

 その会話の中でも酷評されて、ユーラは不快な顔を隠さない。


「おい、お前のことだ! 何とか言ったらどうだ!」


 目の前の童話的情景から意識を逸らし、イサムは思索に耽ることで精神の安定を図っていた。

 人とはどのように定義されるのか。喋る二足歩行の犬は人の亜種として見ることが出来るが、喋る犬は犬でしかないように思える。姿勢の違いによる印象差の激しさに、イサムは面白さを感じていた。


 そんな現状と大よそ関係ないことを考えているさ中、ドニスから強く声を掛けられて、イサムは慌てて思考を戻した。会話の前後の流れを聞き逃し、目でユーラへ助けを求めてみるが、自業自得だと冷たい視線を返される。


「ワタシ、ヨクワカリマセン……」


 仕方なしに放った言葉。初めて喋ったにしてはそれなりに喋れているんじゃないかと、イサムはそれを自賛した。


 だがイサムの言葉の後、辺りは静寂が訪れた。


 オルモルとドニスは顔を見合わせ、ユーラはイサムの隣で目を瞑って俯いている。


「余計なことをする前に、ここで始末した方がいいんじゃないか?」

「それは……」

 ドニスの問い掛けに、オルモルは先ほどと違って明確な否定をしなかった。


 何だかよくわからない内に、状況が悪くなっている。イサムは若干の焦りを感じてユーラを見るが、ユーラは泰然としてオルモルとドニスのやり取りを眺めていた。


 その時だった。


「ぐっ……!?」


 短い苦しげな声を発して首に両手を持っていくと、オルモルが膝から地面に崩れ落ちる。


「オルモル!?」

 ドニスがオルモルの姿を見て叫んだ。


 イサムはともかく、ユーラはこの時を待っていたのだろう。


「形勢逆転ね!」

 ユーラはドニスにポールの先を向けながら、気勢を上げた。




 オルモルが目を覚ました時、まだその首には蛇が巻き付いていた。

 木の傍に陣取っていたのが悪く、木から飛び移ってきたこの蛇の不意打ちに、オルモルは一瞬で意識を失ったのだ。

 寝ているオルモルの横にはドニスが座って控えている。オルモルが目を覚ますと、安心したように起き上がって尻尾を振った。


 そして自身を見下ろすイサムとユーラの姿に気が付いたのか、オルモルは二人に視線を合わせてきた。


「その蛇、毒があるから下手に動かない方がいいわよ」

 ユーラが目を覚ましたオルモルに声を掛ける。


 動くなと警告するユーラが脅しているように見えて、これでは相手の印象は悪そうだとイサムは思った。


「どれくらい経ったんだ?」

「そんなに経っていないぞ」

 身を倒したままオルモルが尋ねると、ドニスがそれに答えた。

「今からちょうど、話し合おうとしていたところよ」

 ユーラはそう言いながらオルモルを手で促し、オルモルはそれを受けて体を起こした。

「お前達は一体何なんだ?」


 オルモルの問いに、ユーラは視線をイサムへ向ける。

 イサムはそれに軽く頷いて、ユーラの判断に任せた。


「旅人よ。旅の途中で魔物に襲われて……。森を出られなくて困ってるの」

 ユーラは悲壮な顔を作って、そう口にする。


 女こそ魔物だ。ユーラの芝居に気付いているのか、ドニスは呆れている様子だった。

 しかしオルモルは違った。


「そうなのか。それじゃあますます大変だな……」


 素直に信じてもらえると、イサムは気まずくなってくる。


「どういう意味?」

「あの豚は死んでしまったのだろう?」

 ユーラの問い掛けに、オルモルは問いで返してくる。


 ユーラが黙って、豚が落ちた穴の方を見る。そこに豚が這い上がってくる気配はなかった。


「この森の中には、それぞれ動物が縄張りを持っている。……森にある村や道は、あの豚共の縄張りの中だ」


 そう続けたオルモルは遠い目をして、それはイサム達のこれからの苦労を示唆しているようだった。


 オルモルが立ち上がると、その場にいる皆の足は自然と豚が落ちた穴へと向いた。


「森の獣は皆、外敵に対抗しようとお互いの縄張りを不可侵にしている。それも外敵がいなくなった今は、力の強いものによって度々破られるようになったんだが。

 本来ならここは豚共の縄張りではない。それがなぜここに豚がいたのか、力に驕った馬鹿が勝手に縄張りを越えたんだと思うが、血の臭いを撒き散らして森の獣を煽った者がいるからだろう」

 そこまで言うと、ドニスはユーラへ視線を向ける。

「仲間を倒したとなれば、豚共の縄張りを穏便に抜けることは難しいだろう」


 移動しながら聞かされるドニスの説明にも、ユーラは涼しい顔をしていた。


 蛇は既にオルモルからイサムの首元へと戻っている。オルモルに抵抗する意思が見えず、イサムとユーラを警戒もせずに信用しているようだったからだ。

 出会いはあれだったが、お人好しなんだなとイサムは思った。只、ドニスはその限りではないようだったが。


「外敵って?」

 ドニスから向けられる視線を無視して、ユーラは表情を変えずに質問する。

「人間だ。……村は、とっくの昔に廃村になっている」

 ドニスの言葉に、オルモルが一瞬悲しそうな顔をした。


 イサム達が豚のところに戻ってきた時には、当初穴から聞こえていたうめき声はすっかり止んでいた。

 オルモルとドニスの言葉から、イサムは豚の無事を祈っていたが無駄だったようだ。


 ユーラが魔術で土を盛り上げ、穴の底から豚を地表へ運ぶ。


「魔術師がこんなところにいるのか……」

 ドニスの呟きに、ユーラの顔は誇らしげに見えた。


「これは助からんな」

「どうすればいいの?」

 虫の息といった豚を見てドニスはそう言い、それを聞いてユーラは指示を仰ぐ。

「……これはもう食うしかないだろう」

 ユーラの言葉に一瞬意外そうな表情をすると、オルモルはすぐに顔を戻してそう返した。

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