2 とんぼ返りと再出発

 風荒ぶ崖の上。


 景色に見入っていたイサムが止めていた足を動かし始めると、ユーラは慌てたように小走りで寄ってきた。


「ちょっとっ!」

「……今回は様子見だろ」

 声を荒げるユーラに短くそう告げて、イサムは来た道を引き返していく。


 様子見と決めていたのは英断だった。呆れを通り越して、イサムの顔には自嘲に笑みが浮かび、消えないでいる。神社へ戻る足取りは無意識に早く、乱暴なものになった。途中でそれに気付いても、直そうともしなかった。

 この近くに街や村がないにしても、何処にあるかの見当ぐらいはユーラにも付いていると、イサムはそう思っていた。何か目印を探そうにも、崖から見下ろす光景からは水源となる川でさえ見つけることができなかった。

 イサムとユーラが持っている荷物は雨具に防寒具、二日分程度の簡易携帯食と水筒、それらに加えて手にトレッキングポールがあるのみだ。目指す先の見当がないとなると時間の消費は際限なく、物資はどう考えても足りない。水と食料に不安を抱えながら何処までも広がる山と森を踏破するのは、誰だって無理なことだと想像が付く。

 ユーラの求める助けの意味合いがイサムの想像を超えるところにあった。それでも一度決めたことを翻したりはしない。旅の必要性が変わらないならば、今はどのように進んでいくか、予定の再考とその準備を必要とするのみだ。

 既に覚悟を決めたイサムは地面を蹴りつけるように歩きながら、頭の中では先ほどのやり取りを忘れるように次のことを考え始めていた。


 進んできた道を引き返すと森は再び霧で白み、その中を進めば山小屋は変わらずにあった。


 小屋を前に、一先ず戻ってこられたことに安堵する。そして中へ入ると不満そうなユーラを尻目に、イサムは荷物を降ろして座敷に寝転がった。後は天候が良くなるまで、ここで待つしかない。横になると緊張が緩み、押さえ込まれていた疲労感がどっと出た。それはユーラも同じようで、イサムが静かなことに気付いて視線をやれば、小屋の隅で座り込んだユーラはそのまま目を瞑っていた。


 そうして二人は仮眠を始め、目覚めたのは夕方近く。天候が回復したのを確認すると、暗くならない内に急いで下山して、ゲンゾウの家へ戻ったのだった。


 それから三日間は天候の問題もあって準備期間となった。


 異界へ渡る準備においての大きな問題点は、ユーラの説明が足りないことだった。生きていた世界が違うのだから、常識が違うのは当然だ。しかしユーラの話はイサムから尋ねない限り、重要な情報が出てこなかった。裏を返せば、尋ねた事柄についてはわかりやすく教えてくれるので、その態度が非協力的というわけではなかったのだが。

 尋ねたのは以前の旅での食糧や水、衣服の調達に、体調が悪くなった際の薬のことなど。聞き洩らしはないか、確認し忘れたことはないか、イサムは頭を悩ませながら話を聞いた。聞き取りするのが基本的なことばかりとなって、ユーラとの間にはどうも常識以前の、生きるために必要な要素といった価値観に、大きな齟齬があるように思えた。


 情報を整理したところ、ユーラは最初の旅の道中、何度か食料など物資の補給のために村へ寄っていた。つまりあの山や森の中にも人の生活圏があり、そこには当然水や食糧があって、何より別の場所へと続く道がある。ユーラの旅の記憶と逃走した距離、馬車の運行速度から勘案するに、神社から百五十キロメートル圏内には何処かに村があるはずだった。


 当面の目標が決まり、それに合わせた準備を進めた。


 目指すプレダまで行くために必要な日数は、ユーラがここまで来た日数を逆算して、馬車を使って一ヶ月半ほど。行って帰ってくるなら三ヶ月。そこからさらに多めに見積もっても、年末か年始には戻って来られる計算となった。

 これならば新卒の、四月入社までに戻ってこられるかもしれない。イサムが運命的なものを感じるのに十分な旅の日程だった。人智の及ばない大きな力の強制によって、異界へと旅立つ自分。大きな力の流れに乗っているのだからこそ、きっと無事に帰ってこられるはずだ。そして一皮剥けた姿で戻ってきて、四月には立派な社会人となっている自身を想像する。

 イサムは運命論者ではない。むしろオカルト嫌いだったはずなのに、思考はそちらへ寄っていく。それは楽観的な未来を思わなければ、未知の環境を旅することに堪えられそうもないという、一種の自己防衛なのかもしれなかった。


 そうして三日の準備期間はあっという間に過ぎて、出発の日がやって来る。


 結局、二人の荷物は山や森の中を行くために多くは持てず、食糧と水の量を増やすに留まった。

 不安そうなイサムに対してユーラが「大丈夫」と声を掛けてくる。イサムは、誰のせいだと言いたかった。


 ゲンゾウの家の前に出発するイサムとユーラが、その二人の向かいに見送るカヨコとヨシヒサ、ゲンゾウが並んだ。


 この期に及んで旅立つことに迷いがあるのか、イサムは借りてるアパートの家賃や部屋の管理など、些末な気掛かりが湧いて出てくる。だが家族を前にして、それらもきっと払拭されるだろうと腹を括って、踏ん切りをつけた。


「後のことは任せときなさい。それより体に気を付けなさいよ」

「イサムのコトは、ワタシにマカセテください」


 ユーラがカヨコへ返す言葉を聞いても頼りに思えないのは、イサム自身のその心根の問題だけではないはずだった。


 ヨシヒサとゲンゾウからは、「頑張れよ」と一言あるだけだった。

 その言葉の少なさを、イサムは信頼の表れだと思った。


 動きやすい服装に、森で目立たないように深緑の薄手の外套を羽織る。そこに大きなリュックサックを背負い、二人は山の向こうを目指して出発した。






 再び訪れた山の向こう。

 深い森の中に満ちた濃い空気は、イサムにここが別世界だと改めて意識させてくる。


 ここでは自分が異界人であって、異物だ。そう思うと、今後はこちらの言葉で喋るべきなのかと、そんな考えがイサムの脳裏をよぎった。

 異界で日本語が通じる場面などないだろうし、異界語に慣れる必要がある。またわざわざ学ばずとも理解できているので、話すことも何とかなりそうだった。

 只、イサムは理解できていても、何となく拭えない外国語への苦手意識があった。そしてそもそもユーラがいれば対話に困らないという事実もある。そうなるといくら理由を見繕っても、イサムの中に浮かんだ思いはいつの間にか霧散していた。


 今回、二人は小屋を出ると足を止めずに茂みを越えた。

 まだ辺りが霧で白む中、ユーラが早速先導して進もうとして、イサムはそれを止めると横に並んだ。


「危ないわ」


 ユーラの言葉に、その意味を問いたい気持ちが湧いてくる。だがそれを聞いたら引き返したくなる気がして、イサムは敢えて尋ねなかった。


『目的地もわからないのに、この前は何処へ向かって進んでたのさ?』

「適当に。見晴らしのいいところに出れば、何かわかると思って」


 問い掛ければ尤もらしい答えが返ってくる。歩みを進めながら、ユーラも考えてはいるのかと、イサムはそう思った。


「ねぇ、私のこと馬鹿にしてない?」

 言葉を返さずにいると、ユーラはそう言って睨み付けてくる。

『まずはこの周辺を調べよう』

 イサムはその視線を無視して、準備の際に決めた行動を促した。


 イサムが異界を訪れたのは、ユーラとの出会いを含めて三回目になる。けれどどうして異界と行き来ができるのか、その原因はわかっていない。

 ハルの話や民話から、はるか昔から行き来ができたことは確かめられても、突然それができなくなる可能性は十分考えられた。

 ならば、まずは行き来にできる原因や理由を探ろうと、二人の旅の最初はそういう段取りになっていた。


 二人で白んでいる森の中を探索する。


 イサムは先ほどの、ユーラの危険を示唆する言葉が気に掛かり、二手に分かれはしなかった。探索の効率が落ちても安全を優先した判断だったが、結果からしてもそれは正解だった。

 探索を始めて五分ほどで、二人は足を止めることになった。

 小屋から少し離れた場所に、神社とは別の開けた土地があったのだ。


 その土地の中央には七から十メートルほどあろう、巨大な白い岩が直立していた。その岩を中心に半径十メートルほど、黒々とした土だけの地面が広がっている。

 緑の濃い森の中、植物の浸食を拒否して雑草一本生やさないその場所は、明らかに周囲と隔絶された異様な雰囲気を醸し出していた。


『へぇ』

 イサムの口から思わず感嘆の声が漏れた。


 黒い地面から白くそびえるそれは単純に美しかった。

 近付いて岩に触れ、抱え込もうとしてみるも腕が後ろまで回らない。相当な大きさだ。


 大きさを確かめるのに手伝ってもらおうと、イサムはユーラが寄ってくるのを待った。

 しかししばらく経っても、ユーラからの反応がない。

 不思議に思って辺りを見渡せば、ユーラは森の中で足を止め、この場所に立ち入るまいとした様子だった。


『おーい』

 イサムは大きな声で呼び掛ける。


 それでもユーラはその場で首を振ると、両腕で大きくバツ印を作った。

 どうしたのだろうかと、イサムは岩から離れてユーラへ寄っていく。


「あれ、魔力を吸ってるみたい」

 イサムが近寄るなり、ユーラは口を開いた。

「ここまで近寄らないと気付けないなんて、あれは異常よ。一旦離れましょ」


 ユーラには焦りが見えて、嘘を言っているようには思えない。ユーラの提案に反対する理由もなく、イサムはその場から離れて周辺の探索に戻った。


 そうして探索に再び歩き始めるも、イサムの頭の中は先ほどの白い岩のことに囚われていた。

 魔力を吸うというユーラの言葉が正しいのであれば、魔力を持つこの世界の動植物はあの場所に近寄れないのではないか。そうなると近寄れるのは、イサムのような別世界からの訪問者しかいない。そう考えていくと、イサムはこの世界へ渡るための場所である神社のご神体が、あの白い岩のことを指しているように思えてしまった。

 只の想像でしかない。イサム自身、何でもかんでも物事へ意味を求めすぎている。それでもゲンゾウや山村の人々が神社へ向ける畏敬を思うと、只の開けた土地を神社と呼ぶ理由があの場所にこそある気がした。


 小屋のある場所を中心にぐるりと一帯を探索するも、二人は他に目ぼしいものを見つけることができなかった。

 唯一の発見であるあの岩が、異界の行き来に関与しているかは不明のままだ。


『あの岩って、遠くからでも何処にあるのかわかる?』

「最初は気付かなかったけど、今はもうわかる。伊達にプレダ一は名乗ってないわ。それより、あんな危ないものがあるなんて気を付けないと……」

 イサムの質問に答えつつも、ユーラの言葉は自身に言い聞かせているようだった。


 結局何だかよくわからない。取り敢えず、イサムは帰りの目印ができたことを収穫にした。


 探索を続けている内に霧は晴れた。

 その状態で小屋のある場所へ戻ってみれば、開けた土地はそのままに、小屋は綺麗に消えていた。


『なるほどね……』


 理解を示すような言葉は虚勢以外の何物でもない。覚悟していたがそれでも本当に引き返せないとなると、イサムの不安は大きくなった。


「今晩はどうするの?」

 ユーラの声色が平時と変わらないのは、イサムと同様に虚勢を張っているからだろうか。


 日は既に傾き始めている。

 長い時間を探索に費やして、イサムは大分体力を消耗し、それはユーラも同様に見えた。


 二人の服には汗がにじんでいる。それが蒸れての不快感に、イサムはより体力を奪われる気がした。この状態で夜の山で探索を続けるなど、まず自殺行為だと誰しもがわかる。


 相談せずとも今日の探索を終えることは早々に決まり、二人は野営の準備に取り掛かる。


 野営地は見通しのいい場所を選んだ結果、旅の開始位置であり小屋の消えた場所。そこで最初に取り掛かったのは焚き火の準備だ。

 イサムに野営や野宿の経験はなく、頭に浮かんだのは漫画やアニメの中で火を焚いている光景だった。獣は火を恐れるのだろう。ならば夜の間は火を絶やさなければいいと思い、その準備にイサムはユーラと枯れ枝を集めていた。


 集まった枯れ枝が山を作ると、ユーラはそれを前にして枝を一本拾い上げる。そして手に持つ枝をぎゅっと握り込むと、すぐにその山へ放った。


 次の瞬間、放られた枝が燃え出して、そこから火が広がっていく。


 それは異形の技だった。

 初めてその目で魔術を見て、イサムは目を見開いたまま固まった。


「こんなの序の口よ」

 そんなイサムの様子に、ユーラは軽くそう言った。


 焚き火の照り返しもあったのか、ユーラの顔には頬を赤くした微笑みが見て取れた。


 準備を終えて、火を囲みながら初めて取った異界での食事は持ってきた携帯食と水だった。

 必要な準備が少なく利便性は高い食事だったが、ユーラの魔力の回復を図るためにも、今後はこの世界のものを食べていく必要がある。明日の探索では川か道、若しくは村を探すことに加えて、食べられるものを探すことも二人は確認した。


 そうして食事を終えると、火を絶やさぬように火の番をしながら交代で眠る。


 寝具は咄嗟にでも動ける、手足の分かれた人型の寝袋を用意した。道具を揃えている際、「テントはどうしよう?」とイサムが問うと、「そのまま棺桶にしたいなら用意したら」とユーラに言われて、テントを使うのは見送っていた。


 あの時のユーラの言葉を思い出して、イサムは火の番をしながら緊張していた。

 だが夜半を過ぎ、ユーラと番を交代するまでになっても、何か起きることはなかった。

 自身が眠る頃になるとすっかり緊張は抜けて、目蓋の向こうに感じる焚き火の炎に、まるでキャンプに来ているようだと思った。


 イサムが異界で見た生物は、前回来た時に見掛けた鳥程度。

 一日の大半をこの世界で過ごしたけれど、いまだ異界の危険を実感するには至っていなかった。

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