道永真白は黒なのか
相心
蜜柑
教会の鐘が鳴る。またどこかの誰かが誓いのキスを交わし、親族や友人たちに祝福されながら、ブーケトスへ向けての準備をしているのだろうか。今こうして幸せを享受している人がいる一方で、この病院では誰かの命が途絶えている。
そんなことを考えながら、黒島
形勢逆転だ、静香がそう思ったのも束の間、真白が投じた一手は増えたばかりの白石を一気に黒に染め、再逆転を許してしまった。
「静香はその場の餌にすぐに釣られるね」
道永
「私はこういう考えるゲームが苦手なの。真白は意外と強かよね、普段はぼけーっとしてるのに」
盤面上に白石を置く場所はなく、静香は両手を挙げて降参のポーズをとる。真白は残りのスペースに黒石を置き、序盤の白優勢が嘘のような終わりを迎えた。
「はい、勝利。面白かったよ、静香」
「それは良かったですね。真白様」
真白の微笑みとは対称的に静香は不服そうな顔を隠しもせず病室を出ようとする。賭け事にしていたジュースを買いにいくためだ。ドアを開けると、目の前には冴えない顔をした男がいた。あ、ごめん、となんとも情けない声を出す男に対して、いいえこちらこそ、と軽い返事をして静香はその場を後にした。
●
実際のところ男は帰るつもりだった。それは真白と静香の二人の時間を邪魔してはいけないと考えていたからだ。しかしタイミング悪くドアが開き、今に至る。取り敢えず座らなければ、と先ほどまで静香が利用していた椅子へ腰を掛ける。
「……最近の調子はどう?」
少しの間の後、勇気を振り絞った男の当たり障りのない質問が真白へと投げ掛けられる。んー、と言葉にならない声を発しつつ、真白は長い睫毛をパチパチとさせ微笑む。
「清治くんはどうして会うたびにおどおどしちゃうのかなぁ?」
中谷
なぜそんな冴えない男と彼女がこうして邂逅できてるのかと言えば、それはやはり仲介人がいるからである。それが先ほどこの病室を出ていった静香だ。彼女は清治の幼馴染であり、真白の一番の友人であった。後は成りゆきである。もちろん清治に下心がなかったと言えば嘘になる。誰もが真白との距離を縮めたいと考えていたからだ。そういう意味では、清治は幸運だったのだろう。
「そうかな」
「そうだよ。打ち解けてきたかなー、って思ったらまたその調子。残念だなぁ」
言葉とは裏腹に笑顔を絶やさない真白に、清治はただただ見惚れていた。奇跡的な巡り合わせによって掴んだこの機会を、清治は未だに夢を見ているように感じていた。彼女と話せる――それだけで幸せだと感じる自分がいた。そして反面、彼女に見合う男ではないことも。
「そう思わせていたのなら…ごめん。道永さんは明るいし、誰にでも慕われて、俺みたいな人にも気さくに話してくれてさ…。それに……いや、なんか自分が情けないなぁ、て思っちゃって。さっきも静香の態度見たでしょ?」
「そっか。自分に自信がないんだね」
こんな下らないことしか語れない自分に嫌気が差す。
落胆させてしまったよな――そう清治が思ったのと同時に、真白は突然拳を握りしめて掲げてみせた。
「情けない男も恋をすれば、少なくとも今よりは立派になる」
「え?」
「昔読んだ本。それだけは覚えてるんだ」
突然の言動に驚いたが、それよりも清治は彼女の腕に注目していた。少し触れただけで折れてしまうのではないかと思う細い腕。透き通った白い肌は名前に負けない美しさだった。
「清治くんもさ、恋をすれば変わるんじゃないかな。感情は、残酷でもあり、美しくもあるんだから」
もし彼女が言った通りならば、自分は立派になっているのだろうか。いや、関係が壊れることを恐れている。それとも、この感情は恋ではないのだろうか。清治は返答に窮した。
「私は、恋を知らない」
清治の困惑した表情から察した真白が、さらに言葉を続ける。
「ねぇ、清治くん。知っているかもしれないけど、今度手術するんだ。結構大きな」
彼女が手術を受けることは知っていた。それ故、清治は先ほど発言を濁したのだ。
――それに、道永さんは、病を患ってるとは思わせない振る舞いが素敵で強い人だな、と。
しかし最後に付け足された「大きな」が清治に動揺を与えた。
「……うん、知っていたよ。静香から聞いた。でも、道永さんならきっと……」
「乗り越えられるはずだよ、って?」
どこか冷めた目をして口元を少し歪める真白を見て、清治は自分の背中がぞくりとするのを感じた。その顔は今までの明るかった彼女の、微笑みに隠された真の感情を表しているように思えた。簡単に病に打ち勝てると鼓舞したことが癇に障ったのか、それだけ清治に対して心を開いているからなのかは分からない。おそらくは両者とも正しいのだろうが、清治は前者だと受け取った。
ごめん、と呟くが、それが真白に聞こえたかは不明だ。しかし彼女はいつもの明るさを取り戻し、ある週刊誌の一部を清治に見せてきた。
「あ、ごめんね。別に暗い話をしたいわけじゃなかったの。見て、これ。『人は永続的に生きられるのか』だって。これが本当ならすごいと思わない?」
「かなり倫理的には問題になりそうな話だね。生に対する価値観が薄まりそうだし」
「うん、そうだね。でも、価値観の変化なんて当たり前のことなんじゃないかな。私たちは初めは違和感を覚えてもそれに慣れてしまう。悲しいけどね」
真白から渡された記事には、どこか胡散臭い顎鬚を蓄えた男のインタビューが数ページに渡り特集されていた。
そこに書かれている内容は、映画などにあるSF的なことが将来的には成り立つであろう、ということだ。人類はナノマシンを体に取り入れ、新たな生命へと進化を遂げていく。そこでは記憶の保存は可能となり、例え鼓動が止まったとしても次の代替品の体へと記憶を引き継ぎ、永続的な生涯を過ごすことができる――都市伝説のような話であった。
「まるで夢物語みたいな話だね」
「今はね。けれど、私はいずれそうなると思うんだ」
だから、と真白は寝具から体を出し清治と対面する姿勢をとると、右手の人差し指をピン、と突き立てた。
「私と同盟を結ぼうよ、清治くん」
「同盟?」
「もうそろそろ静香も戻って来るだろうし、今日はあまり話せないかもね」
●
「じゃあこれは、『みかん同盟』ってことで」
そう言って微笑みながら真白は蜜柑を一粒摘まみ、清治の口元へ近づける。このまま受け入れてしまって良いものなのかと迷いはしたが、彼女と目が合うとその考えは霧散した。食べて、とその目は語っていた。
長い睫毛に綺麗な瞳。宝石など生まれてから直接見たことはなかったが、こういうものなのだろう。まるで魔法にでもかけられたかのように、清治の口は開いていく。
これが果たして正しいことなのか、頭の中では考えているつもりでも、脊髄反射のように身体は無意識に動いていく。ただ彼女といたい、一分でも一秒でも長くいたい、それだけのために、清治は今ここにいる。口の中に入ったオレンジ色の果実は、ゆっくりと咀嚼され、水分が弾き出され、喉の奥を通過していく。様々な感情が入り乱れる中、ただ味覚が示したこと。それだけが清治の中では確かなものであった。
酸っぱいかな。
彼女の唇から紡がれた一言ですら、脳を、五感全てを刺激した。首を横に振る。
――それは、とても甘かった。
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