空蝉が咲く街

果瓶

八月、夢幻の雨

───レイニー、今日も雨が降ってるね。


そんな声が聴こえた気がする。横を向けば誰も居ない。けれどなんだか懐かしい声だった。何処かで聴いたような、ひどく懐かしい声。確かに今日も雨は降っている。ぽつり、ぽつり。霧雨のような細い雨は、葉の裾を滑り落ちて水溜まりにぽとりと円を描く。

傘をくるくると回しながら、緑の葉を張り広げる桜の樹を背に立っていた。誰かを待っている。

八月になると自分は、誰かを待つようになった。

その誰かはわからない。

わからないけど、八月になると、夏祭りの日になると必ず誰かを待つようになる。脳に誰かが囁くように呟くのだ。待たねば、また逢いたいから。

そうなると自分は自分じゃないように、傘を持って自室を飛び出す。そしてこの桜の樹の下で傘を回しながら誰かを、君を待っている。

まるで、昔からそうしていたように。

夕暮れた空は紅く染まって、日が傾く。すると下の方、神社の階段下がざわざわとした。夏祭りが本格的に始まる。太陽もぎらぎら輝いていたのが嘘のように、優しく人々を照らしていた。

この街の祭りは、何年も続く大きな祭りのようで。たくさんの人たちが集まっては、それぞれの祭りを楽しむようだ。今年もほら、人々が集まってくる。

ぶらぶらと提げるヨーヨーを揺らしながら、今年もたくさんの人たちが来たなぁと想いを馳せる。けして、自分は下には降りない。なぜだか、人の波に溺れてしまうようで、怖いから。夏祭りに来て屋台を楽しんでいる君を見つけられるかもしれないけれど、顔もわからない君が、人の波が怖い僕が見つけに行く勇気もなくて、毎年桜の樹の下で立ちすくんでいるのだ。そして誰とも会わず、そっと自室に帰る。そのときの虚無感、切なさが胸を込み上げていつも締め付けていた。

傾いた陽はそのまま西に沈んで、空が少しずつ藍色に染まっていった。ここの神社の裏側、大きな桜の樹から見える景色は絶景だ。祭りの様子、河原で響く水の音、遠くの山。いつ見ても素敵な光景だ、と口に出す。

「ねぇ君。」

ジャリ、と砂利が音を立てて声が聴こえた。

知らないようで、知っているような声。

振り向く。

「なんでしょう?」

振り向いたら、祭りに似合わぬようなシャツにズボンという格好の男が僕を見て呆然と立ち尽くしていた。そして、「あぁ、そっか」と呟いたのち僕の隣に寄ってきた。

「晴れているのに傘を差してるなんて驚いたから声をかけたんだ、それは日傘かい?」

「いいえ、ただの雨傘です。そういえば可笑しいですよね、しまいますよ。」

「あぁ、うん、そうだね」

男は歯切れの悪い返事をしたあと、隣に座ってもいいかい?と傘をしまった僕に言った。良いですよ、と答えた僕も男と数センチ空けて桜の樹の下で座る。花火大会の始まりのようで、アナウンスが河原に響いていた。男は何かを言いたげに、何度も口を開けば結ぶという行為を繰り返していた。僕は何も言わず河原を眺める。

「ひとつ、話をしたいんだ。」

男は決意したように言う。僕は男の顔を見る。

「僕に、ですか?」

「そう、君にだよ。まぁただの法螺話だと思えばいいさ。遠い遠い過去の話だもの。」

「おとぎ話みたいですね。」

僕はふふっと少し笑って、ヨーヨーをぶらぶらさせながら言った。

「いいですよ、あなたの過去の話を聴いてみたいので。」

「そうかそうか、ありがとう。」


男は嬉しそうに笑いながら、そっと話し出す。


──俺はこの街の産まれなんだけどね、静かな性格だからかな、何年も友達が居なくっていつもひとりだったんだ。

ここの神社の桜がいつも俺の隠れ場所でさ、景色もきれいで空気も心地よいからいつも図書館で借りた本と母さんが持たせてくれる麦茶のはいった水筒を抱えて、本の世界にどっぷり浸かっていた。本ってのはほんとに面白くてね、本のなか、空想のなかならいくらでも友達が出来て、時には魔王を倒す戦友や剣を交わしあうライバルだったり、たくさんの仲間が居たんだ。あの頃は楽しかったなぁ。

あぁ、話が逸れてしまったね。

そんな本を読んで、空想の世界に入っていた純粋な少年だった俺にある日、本物の友達が現れたんだ。あれはいつ頃だったかな、数えで10くらいのとき、こんなふうに桜の樹が緑の葉を蓄えていて雨が降っていた夏だったよ。僕はいつものように本を木陰で読んで雨を凌ぎながら過ごしていたんだ。そしたらね、背後から声が聞こえたんだよ。「君、何してるの?」って。

そりゃあ驚いたね、だって今までこの桜の木まで人が来たことが無かったから。思わず「ヒッ」って声が出そうになって本を土の上に落としそうになったからね。ギギギって音がなりそうなほどぎこちなく俺は振り向いた。そしたら俺ぐらいの年の男の子がこちらにくりんとした黒目で見ていた、そして何故か夏なのに長袖で立っていたんだ。

なんで長袖なんだろうとか、なんでここに居るんだとかたくさん疑問があったけどあの子を見たときに聞いちゃいけないなって思ったんだよ。

なんでって?なんでだろう、今もそれはわからないことなんだけど、聞かないでってあの子の目が言っていた気がするんだ。誰だって、聞いてほしくないことはあるだろう?きっと絶対に聞いちゃいけない事で知っちゃいけない事だったんだと俺は思うよ。

「本を読んでるんだ。」って俺は視線をそらしながら答えた。人と話すとき目を見るのが苦手だったんだ、けしてあの子の目が嫌いだったんじゃない。あの子の瞳はとても綺麗な黒い目でね、澄んだ色をしていたから、直視しづらいのはあったのかもしれないけれど。

「本って、面白いの?僕、読んだことがなくって」

そうやってあの子は言ったんだ。まぁ、俺は驚いた。だって、学校に行けば朝読書の時間があるし、誰だって親に読み聞かせをしてもらうことがあるだろうから。

「面白いよ、読んでみる?おすすめ教えるよ」

なぜだかあのときの俺は、あの子の純粋な瞳に吸い込まれるようにするりと答えを返していた。その子はたちまち目を輝かせて、俺の隣に座った。そのときからかな、俺とあの子の不思議な関係が始まったのは。

俺がおすすめの本を教えて、あの子が読んできて、ふたりで感想を語り合う。本を通して俺らは友情が生まれていたって思っているんだ。

そしてあの日、あの子が言ったんだ。

もう俺らは回数を重ねて会っていてだいぶ打ち解けていた。

そんな日のことだ。

「僕は名前が欲しいな」

あの子は絶対に名前を名乗らなかった。名前を聞いたとき、「秘密」って桃色の唇に人差し指を当てて微笑んだきり俺も名前は聞かなかった。そんなあの子が名前を欲したことに少なからず驚いた。あの子にはいつも驚かされてたなぁ。

「名前?」

「そう、僕には名前がないんだ。」

にこにことあの子は笑って続けた。

「だって僕たち、もう何度も会っているのに『君』って呼ばれるのは寂しいからさ。そうだ、君が僕に名前をつけてよ!」

「僕なんかが付けていいの?」

あの子は良いことを思い付いたかのように、俺の顔をのぞき込んで笑ったんだ。

「君がいいんだよ!」

その笑顔に負けた。

「わかったよ…」

しばし俺は考えた。名前は人のなかで一生消えない持ち物だから、一生懸命考えて、考えて、やっと答えを出した。

「思い付いた!ぴったりの名前!」

「なになにー?」

俺はあの子の笑顔に負けるけど、とびっきりの笑顔で言った。

「君と会うといつも雨が降っているから、レイニー!」


───レイニーって名前にしよう!



パチン、とヨーヨーが割れる音がした。僕が手を放したヨーヨーが尖った石ころに当たって割れたのだ。傷跡からちょろちょろと水が流れ出ている。ドカンと夜空に花が咲いていた。

男の過去話はとても興味深い話だった。「俺」と「あの子」の友情の話はまるで小説を朗読してるように男が話すので引き込まれそうになった。だが、男が放った一言で僕は目を見開いた。

レイニー、それは縁結町夏祭りにいつも桜の樹の下で誰かを待っている僕に囁かれるような声で聴こえる言葉と同じだった。

困惑が隠せない僕に男は続けた。

「レイニーって今考えたら、あんまりかっこよくないよね。でもあの子、レイニーはすごく喜んでくれてさ。それからあの子の事はレイニーって呼ぶようにしたんだ。」

それから僕の異変に気づいた男は、少し心配そうに僕を見たあと微笑んで話をすり替えた。

「ねぇ、君は生まれ変わりを信じる?」

「生まれ変わり、ですか?」

「そう、生まれ変わり。俺は信じてるよ。」

男は少し寂しそうに言った。生まれ変わりを信じていると。生まれ変わり、誰かの魂が輪廻を転生してまたこの世に別人として産まれ落ちること、だろうか。

「レイニーはね、ちょうどこの夏祭りの日だった」

男は言葉を途切れさせる。

苦しそうに顔を歪め、吐き出すように言った。

「死んだんだ、夏に溺れてさ。」

死んだ、夏に溺れて、夏に、溺れて。

ぐらり、と視界が揺らいだ。胸の動悸が激しくて思わず胸を抑える。男の声が聴こえなくなる。魂から囁かれる、「思い出せ」「思い出さねばならない」何度も何度も、しつこく、何度も、脳に囁かれる。そして鈴のなるような声がひとつ、聴こえた。

「彼を救ってあげて。」

それがレイニーであることに、気づいたとき。

記憶の回想をするように、目の前が白くなった。


そのとき僕は急いでいた。使いものにならない足だってわかっていたけれど、それでも彼に会いたくて必死に急いでいた。

はっはっと上がる息を押し殺して、走った。

痛む足や腕なんて気にしなかった。

それくらい彼に会いたかった。

彼と過ごす、一瞬一瞬が幸せで大切な時間で、痛みも不安も苦しみもない素敵な世界にいるようだった。

夏祭りに行ったことがないって僕が言ったら、彼は驚いた表情をして「じゃあ僕がつれてってあげる!」ってとても嬉しそうに笑ったんだ。その笑顔は今までみたもののなかで一番輝いて見えた。たくさんの美味しいものが売ってる屋台があってね、射的もできるし、花火もとってもきれいなんだ!って楽しそうに話す彼と僕も行きたいって思ったから。だから僕たちは約束をした。一緒に夏祭りに行こうって。

約束を破ったらいけない。本にそうやって書いてあったから、約束の時間をとうに過ぎた今、僕はとっても急いでいたんだ。

あと少しだ。

夏祭りのざわざわとした雰囲気に誘われるように僕は走った。このときだけは、来ている長袖が邪魔だと思った。

道路を一本挟んだ先、そこにはたくさんの屋台や提灯があってここが夏祭りの会場だってわかった。そして入り口に彼が立って待っているのを見つけた。おーいって手を振ると彼は僕に気づいたようで振り返してくれた。

だけど、それがいけなかった。

彼は僕に手を振るのに夢中で、周りが見えていなかった。

そうやって、彼は人波に押されるように、道路に飛び出た。

鉄の塊、車たちが彼を狙うように走ってきている。

僕がすることは決まっていた。

最後の力をふり絞って、全力で走って彼の腕を思いっきり押して突き飛ばす。彼は尻もちをついたようで道路の端っこで目を見開いていた。

よかった。

そう思ったとき、僕の身体にとんでもない衝撃が走った。今までどんな事をされても、痛いと思わなかった僕だけどこのときだけは流石に痛いと思った。宙に飛ばされて、道路の端っこで血塗れになった僕は横たわっていた。彼は僕の手を握り締めて、ただ泣いている。「逝かないで、逝かないでよ、ねぇ」って涙をただ流しながら言った。

あぁ泣かないで。

君は涙なんかより、笑顔が似合うんだから。

割れた金魚すくいのビニル袋が割れて、ぴちぴちと魚が跳ねて、水が流れ出ている。僕のために買ってくれて、待っていてくれたのかな、そうだったら嬉しいな。

体じゅうの痣が見えちゃったかな。

ごめんね、汚い身体で。

君だけには知られたくなかったな。

頭がぐわんぐわんとする。

そろそろか。

僕は最後に唇に力を入れて言葉を紡いだ。


「生まれ変わって、君を待っているよ。」


涙が止まらなかった。ぼろぼろと泣いて、しゃくりあげる声が止まらなかった。全てを思い出した。僕の前世も、君のことも。レイニーの感情が僕の心に染み込むように広がった、あれがレイニーの最期だったんだ。

「だいじょうぶ?」

彼は僕をのぞき込んで心配そうに見つめる。

僕を息を吸って、口を開く。

「僕は、生まれ変わりを信じます。」

「そうか。」

彼は嬉しそうに笑っていた。

「だってその為に待っていたんだもの。」

僕も笑顔で言った。

「やっと会えたね。」

彼は目を見開いていた。いつも驚いてばっかだね、君は。そうやってからかえば、彼は目から透明な涙を流した。

「レイニー、なのかい?」

「うん、僕にレイニーは住んでいるんだ。」

あぁよかった、彼は嬉しそうに泣いている。何度も何度も涙を流して、僕の手を握った。

「よかった、この桜の樹で傘を差して立っている君を見てもしかしたらって思ったんだ。晴れてるのに傘を差しているなんて、最初は注意するつもりだったんだけど、なんだか君の横顔がレイニーのようで、それで、だから」

「もういいんだよ、僕らまた出会えたんだ。泣かないで、ほら、笑ってよ。君にあえて嬉しいのは僕もなんだから。」

彼は僕の大好きな笑顔で笑ったんだ。

心のなかでレイニーは笑っている。

よかった、よかったって。

ひとしきりふたりで泣きあったあと、彼は疑問を口にするように言った。

「ねぇ、なんで晴れてるのに傘を差していたんだ?」

「あぁ、なんでだろう。僕の目には雨が降っているように見えていたんです。きっとレイニーが降らしていたんじゃないかって僕は思います。」

だって、いつもあなたの声が聴こえていましたから。

「そうか、きっと夢幻の雨だね。」

夢のようで幻の雨、そうやって彼は言っていた。レイニーと僕が会いたくてお互いを引き寄せるために降らしていた雨なんじゃないかって。

「どうであれ、僕らはまた出会えたんだ。」

彼は嬉しそうに僕の手を握っている力を強めた。


───あの約束を叶えようか。


そうやって僕らは夏祭りに消えて行った。

夏陰にレイニーと少年は微笑んでいる。

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