H.N.ムイシュキン公爵の経済戦争
東京廃墟
第1話 ムイシュキン公爵の経済戦争
無垢な精神が、無邪気な欲望が、甘い罠の餌食となる。為替相場は大口を開け、個人投資家達がその中に入り込むのを待っているのだ。ハエトリグサ、ウツボカズラとか、そうだ、食虫植物に似てるんだ。僕は思った。
僕は・・・
僕は蟲だ。
食虫植物の庭へ 迷い込んだ蟲なのだ。
ムイシュキン公爵などと名乗ったものの僕は平凡なサラリーマンである。つまらない仕事を終えて帰路につく。
逢魔ヶ刻の絶望銀座商店街
蜂蜜を溶かしたような夕日は沈みつつ街を覆う。
錆びついたママチャリに夕飯の食材を積み、二人の幼児を搭載し、過ぎ去る疲れた主婦の背に、淡い桃色幻想紫。
怒鳴り声の聞こえる魚屋。
昭和を匂わす豆腐屋のラッパがラグナロク【神々の黄昏】を告げるヘイムダルの音色を思わせた。
やがて、戦慄の夜が訪れる。
禍々しき満月が天空に上る。
僕の住む公爵の古城【黄金荘】
2階建てのボロアパート。その203号室が僕の部屋だ。
クロムメッキの剥がれた部屋の鍵を取り出し部屋に入る。
枝分かれした房を垂らすスタンドライトを点けて、ドカとレトロな革張りソファーに座る。目の前のパソコンの電源を入れモニターに食い入る。
まだマイナスだ。モニターに映し出されたFXのチャートは上下運動を繰り返すパルス波形の様だ。ゾンビに成りかけた人間の心電図ってこんなもんか?独りごちて、クッと口許が弛むが自分に対する皮肉は勿論心からの笑いではない。
チャートの無慈悲な動きは僕の1日の手取りを簡単に飲み込む損失を産んでいた。
マイナス10万円。
それが今日の、今の、瞬間の、現実の、覆せない?悶えても変えられない。叫んでもどうにもならない。数字だった。純然たる数字だった。
缶ビールから小気味良い飛沫が漏れる。直ぐ様アルミ缶を口許へ運び1日のねぎらいとする。
喉にこくのある豊潤な味が通過する。
くぅぅあ。
思わず声が漏れる。身体的な爽快感とは別に、偏頭痛の様に現実的な数字が酔いを否定する。
なんでそうなるかなぁ。僕はFXに酔いしれる。溺れる。絶望する。
【FXというものについての説明】 外国為替証拠金取引とも言われる。外国通貨を売買することで利益又は損失を産みだす。金融商品である。
僕はかつて、100万円の損失を産みだしてしまった。数年前のロシア発ルーブルショックの影響を受けた米国ドルと日本円の通過ペアを襲った衝撃に飲み込まれ。
ドルを買いのポゼッションで持っていた僕は、瀕死の状態であった。
第二次世界大戦の独ソ戦。いわゆるバルバロッサ作戦を発動した独逸第三帝国の如く泥沼の戦いに沈み込んだ。結果相場の世界から退場したのだ。
そりゃそうだろう?なけなしの貯蓄。資産を危険に晒しても続けるだけの気力は僕にはなかった。
しかしまた、なんでかなぁ。僕はこの戦場に立っている。
取り返す!あの損失を!そんな強気な感情は見事に絶望に変質していた。
為替相場でポゼッションを保有するとその変動で利益及び損失を産み出す。多額の証拠金を人質に1ポゼッションを持てば、1錢の変動で100円の損益が発生する。また、スワップという金利が発生する。通過ペア次第でその利率は変わるがプラススワップとマイナススワップがある。現在僕の保有する通過ペアは米国ドルと日本円である。僕は米国ドルを買う。毎日1400円が金利差プラススワップとして手にはいるのだ。にもかかわらず今年の損益はマイナス30万円近いのだ。
1錢の変動で2000円の損益がでるポゼッションを保有しているからだ。米国ドルの価値が下がり、日本円の価値が上がるほど損をするシステムだ。出来ることなら早く引退したい。しかし、あの悪魔のシステムは僕の足に鋼鉄製の鉄球よろしく枷としてはめられている。
僕は缶ビール500ミリリットル缶を飲み干し2本目を開ける。
グビクビグビ!
喉に渇を入れ、モニターに食い入る。ツマミたるスルメを咀嚼し呟く。早く引退したい・・・
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