-Scrapper- after the defective ideal

山下和真

本編

1.それは日常の延長線上で


 アスファルトは高い太陽光を反射していた。

 2090年を目前とした秋口、凩はまだ吹いていない。

 強風が吹いたところで葉を散らすことのない鉄の林は、足下のアスファルトなんかより強く太陽光を反射していた。

 ――シンギュラリティについて学んだのはいつ頃だったかな。

 世界史の授業だったか。ぼんやり思い出す。2045年に何があったか俺は知らない。産まれてない。

 仮にそこで人工知能の高度発展があったとしても、そいつにはこの青空を埋める鰯雲をなんとかすることもできやしない。

 ビルとビルの間から見える細かな雲の群れに、俺は眉をひそめた。

 乱雑に背負ったリュックの位置を直し、視線を下げる。昼時の、比較的人通りの少ない繁華街の道を、対向する人にぶつからない程度に手元を見て歩く。掌に収まる四角いデバイスは、特に必要としない天気予報なんかを表示した。

 この中にも人工知能はある。機械のあるところ、どこにだってある。

 とはいえ、誰しもが想像しやすいものとして、アシスタントアプリが持ち上がるだろう。声をかければ、製作会社であるコルヒエグループのイメージキャラクターが返事をする……俺はそれがうざったくてアプリ自体をオフにしていた。

 数メートル先で、信号の色が変わる。

 俺はスクランブル交差点の端で立ち止まった。

 人工知能の発展が滑らかすぎたのか、そもそもシンギュラリティなど迎えていないのか、俺は知らない。

 

 知らないが。

 『お昼のニュースです。本日未明、沿岸地域にて、』

 俺は交差点に面した大型モニタを見遣った。昼のニュース番組が流れていた。

 ――知らないが、想像できることとして。

 『複数体の怪人が暴れているという通報があり、』

 技術の発展を妨げる別の何かが世界で発生したならば。

 『これを受けたコルヒエグループ所属のイデアルヒーロー、麻島恵吾あさじま けいご氏らが鎮圧に成功しました』

 ただそのシンギュラリティが遅延しているだけとも言えるだろう。

 

 俺はニュースを無感動に聞いていた。

 手元にも同じニュースの記事が表示されていた。怪人、などと呼ばれている化け物が暴れ、イデアルヒーローなどと呼ばれる戦闘員がそれを討つ。そういうニュースが流れるのは、俺にとっては見慣れた日常だった。

 俺だけじゃない。信号待ちをしている人々全員が、そんなニュースを聞いても大した反応は示さない。

 そのくらい、日常だった。

 見慣れてしまった、日常だった。俺はまた自分を嫌悪した。

 モニタを見上げていたせいで、隣にいたサラリーマンの男と一瞬目が合った。男は俺を見て少し怪訝な顔をした。俺はそれが不愉快で、すぐに手元に視線を手元に戻した。

 ただ、サラリーマンの表情も無理はなかった。まだ日は高い。今日は平日で、俺はレンタルショップの暖簾の向こうにも入れないのだ。

 信号の色が再び変わる。

 俺は気持ち早足で横断歩道を渡りきった。繁華街の光から身を隠すように脇道に逸れる。

 ――学校に属していないわけじゃない。今日は入院している姉の見舞いに行っただけだ。

 俺は誰にも見えないように歯噛みする。

 バカか。姉を言い訳に使うな。

 (有栖川ありすがわ有栖川徹ありすがわ とおる

 形式だけの、担任の点呼が頭に浮かぶ。半年近く顔を出していないのに、やけにハッキリと想像が出来る。

 別に、クラスメートとうまくいってなかったわけじゃない。成績に悩んでたわけでもない。ただ、ただ……

 

 俺は俺が嫌いだ。


 いわゆる中二病というやつではない。

 俺はこの歳になって初めて、俺という人間の浅ましさを知ってしまった。俺は羞恥に、耐えられなかった。

 道すがら立ち寄ったコンビニで買ったささやかな昼飯が手元の袋を鳴らす。ビニールの擦れる音が聞こえる程度に、周囲が静かになっていた。

 気付けば高層ビルもなく、緑がちらほら見られる住宅街に来ていた。

 見知った道を行く。人影のない住宅街を進み、細い道を抜け、階段が見えてくる。その先には神社がある。

 俺はぼんやり階段を登る。神社の境内で昼飯を腹に入れるためだった。

 幅の狭い階段を登る内、前から人が下りてきていることに俺は気づけなかった。視線が手元に向かっていたからだ。

 俺は実際、すれ違い様に肩がぶつかるまで気づけなかった。

 この静かな中、本当に気づけなかった。

 「すいません」

 「悪い」

 反射的に、謝罪を口にしていた。

 相手も短く謝罪を口にした。

 それだけだった。俺はながら歩きを少し反省しながら階段を登るのを再開したし、相手もまたそれ以上何か言うこともなく下り出す。

 ――秋口にしては厚着だな。別に人それぞれだけど。

 上から下まで黒い服を着たその男に、なんとなくそんな感想を抱いていた。ただすれ違っただけの人間に、普段ならそんな風に何か思うなんてこともない。きっとこの静かさが妙に意識させたのだろう。

 そんなことを考えていたからか、すぐには気づけなかった違和感に、階段を10段ほど登ってから意識が向く。

 「あ、」

 上着の金具に、ストラップが絡んでいる。俺のではない。繁華街を抜けるまでこんなものはなかったはずだった。それから人とすれ違っていない。

 つまり、

 「あの」

 今すれ違った男のものだ。

 俺は振り返る。

 が、すでに男の姿はなかった。僅かにカーブを描く階段だ、見えなくなっている。

 俺は数段足早に下りる。しかし、階段の入り口が見えるところまで行っても男の姿はなかった。

 結局入り口まで戻るも、周囲に人気はなく、この先は複雑な路地がいくつも分岐する住宅街。

 俺は若干の苛立ちとともに諦めを選択した。

 どこかに引っかけておくことも考えたが、この小さなものでは見つけにくいだろう。

 (神社に預けておくか)

 そのうち落としたことに気づいた男が戻ってきて、神社に尋ねるかもしれない。

 俺は下りてきた階段を再び上りながら、困惑の溜息を吐いた。

 1度すれ違っただけの男に、何故ここまでしてやらなければならないのか。

 何故、そうしようとしているのか。

 そんな義理、どこにある。

 その辺の藪に投げ捨ててやってもいいとすら思う。

 根拠のない怒りのままストラップを握り、振りかぶり、――

 (バカか、そんなことして何になる)

 自分が妙に苛立っていることがわかり、いっそ冷静になってくる。振り上げた腕をゆるゆると下ろし、息を吐く。

 拾得物。そのくらいいいだろ。

 ストラップを乱暴にポケットに突っ込み、俺は神社に向かった。


 神社にも人影はなかった。

 「場所、借ります」

 俺は賽銭箱に100円玉を投げ込みながら挨拶する。ここで食事をするのは初めてではなかった。

 参道を挟み、林とは言わないが木々が立ち並ぶ。ここにいるだけで、周囲が住宅街であることは忘れられる。本殿の正面、鳥居の向こうのビル街が、空気を纏ってうっすらと青く見えた。さっきはあんなに気味の悪かった鰯雲が、今は秋の空気を思わせる。俺はこの景色が嫌いじゃなかった。

 決して大きな神社ではなかったが、俺はここが気に入っていた。

 木陰のベンチに向かう前に、周囲を見渡す。神主か誰かがいれば、ストラップを預けるつもりだった。しかし、思惑虚しく見える範囲に人はいなかった。

 (まあ、そのうち出てくるだろ……)

 俺はベンチに腰掛け、コンビニ袋からサンドイッチを取り出す。

 頭上で風に煽られた葉が擦れる音がする。首筋を撫でる風は、夏のそれより大分冷たくなっていた。

 背筋が粟立ち、ほんの少し身震いする。

 2つ目のサンドイッチに手をかけた頃、俺が登ってきた脇のものではない、正面の階段を登って小さな娘連れの母親が歩いてきた。俺はなんとなくそれを目で追っていた。

 母親は笑顔だった。

 娘も笑顔だった。

 俺は黙ってそれを見ていた。

 親子はそのまま楽しげに、本殿の方へと歩いて行く。ちゃりんと小気味よい音がし、本坪鈴の音が響いた。

 俺は一瞬目を離す。サンドイッチを口に運ぶために、目を離す。

 耳に、親子が柏手を打つ音が届く。

 そして、


 視界が明滅する。


 それは一瞬だった。

 一瞬、本殿が視界から外れたその瞬間に、認識の外で、それは起こった。

 耳が音を認識しない。

 口に運ぼうとしたサンドイッチは吹き飛び、地面に叩きつけられる。間抜けに開けられていた口の中には、小石や木くずが入った。

 俺はベンチから転げ落ちた――と思う。気づいたときには地面に頬を擦っていた。

 「な、なに、爆発!?」

 咄嗟に上半身を持ち上げ、口腔内を切ったことを示す血とともに異物を吐き出す。

 砂煙が上がっていた。

 その手前に、親子がいる。母親が娘を庇ったのであろう、頭からかなりの量の出血をしながら娘をその胸に抱きしめている。遠目から見ても、彼女の意識はハッキリとしていない。

 もう少し視点を上げれば、神社の本殿は半分が吹き飛んでいた。

 「な、なんだよこれ……」

 誰に対する言葉か。それでも俺は呟いた。

 この様子では、神主や巫女も無事かどうか――そんなところに思考が移りかけたそのときだった。

 ガラリ、本殿の瓦礫が崩れる音がする。

 それは崩壊から生まれるさらなる崩壊の音ではない。

 俺の目はそれを捉える。


 二腕二脚の影。

 瓦礫の山を踏みしめる足には、猛禽類とは比べものにならないほど大きく鋭い鉤爪があり、その先端が地面につきそうなほど長い腕は丸太のように太い。

 鈍く光る身体は遠目からでも、全身が装甲のように金属質であることを主張する。

 歪ながらにも逞しい尾が砂煙をゆらりと払う。

 そして特筆すべきはその無骨な身体と牛のような頭部に似合わぬ、太陽光を美しく反射する額の角。

 

 あれこそが、

 (――か、)

 怪人だ。


 怪人は瓦礫を放り投げ、首を鳴らす。

 その光景は俺だけでなく、前の親子――正確には、娘にも見えていた。少女は恐怖からか、驚愕からか、絶叫する。混乱の末の鳴き声を上げる。

 まずい、直感的にそう思う。俺は立ち上がりかけていた。

 「あぁなんだ?」

 怪人が発声する。口元が動いた様子はない。様子はないが、その声は確かに怪人から発されていた。

 首の動きからして、その視線は少女へと向けられる。

 「うるせぇなぁ、片付けちまうか? いやしかし、それはあの人が嫌がるか……」

 怪人は思案するようにブツブツと言う。が、それもほんの僅かな時間であり、何事か納得したような雰囲気で、

 「巻き込まれて死んだことにすればいいか! 事故事故」

 などと漏らし、瓦礫の上からその身を宙に躍らせる。

 母親は動ける状態じゃない。

 娘はその場で動けない。

 俺はただ、立ち上がりかけていた身体をそのままに、クラウチングスタートを切る要領で前へと投げ出した。

 落下する力を加え、怪人は親子の蹲る所へ豪腕を振り下ろす。

 事実、俺には何も見えていなかった。無我夢中に、直前の視界の記憶だけを頼りに両腕を伸ばし、指先に触れたそれを掴み、そのままの速度で走り抜ける。

 背後で聞いたこともない破壊音が響いたのと同時に、俺は失速する。右腕に娘を抱え、左手で母親の腕を握っていたことを確認し、安堵した。

 ――なんとなくやっていた走り込みが功を奏したかな。

 頭の片隅でそんなことを思う。

 娘は今の一瞬で正気に返ったのか、声を上げることはやめていた。母親もなんとか意識を取り戻したのか、俺を見上げていた。その目には困惑が見て取れる。

 俺はとにかく振り返る。砂煙の中でバラバラとなにか細かなものが大量に落ちる音がした。

 怪人は腕を振り、砂煙を払い除ける。その足下には大きな穴が開き、周囲に大きな亀裂を無数に広げていた。

 (おいおい、石だろ、これ)

 参道ももはや瓦礫と化した。

 その穴を穿ったであろう怪人の腕は、全くの無傷であった。

 そんな光景を見ながらも、俺は二人を引きずってできるだけ距離を取る。逃げるにしても、目の前の正面階段との間に怪人がいる。裏の、俺が登ってきた階段であればまだ……。

 「おかあさん」

 少女が涙声で母を呼ぶ。俺はゆっくり彼女を降ろし、本殿の瓦礫から手近な木片を拾い上げる。

 「立てますか?」

 俺は母親に声をかける。その目から困惑の色は消えない。怪人が怒りの咆哮を上げる。俺は構わず、早口で言う。

 「立てるなら、できるだけ急いで裏の階段から逃げてください、それから、」

 俺は木片を構えて親子と怪人の間に立つ。

 「その、イデアルヒーローに連絡を」

 母親が小さく頷いたような気がした。もしかしたら、それは俺の願望が見せた錯覚だったかもしれない。

 「なんだお前はよ……?」

 怪人が唸る。

 ――怖い。

 怪人は俺の倍以上あるように思えた。気迫のせいもあったかもしれない。とにかく、怪人は怒り狂っていた。顔のパーツが動くわけでもないのにそれは読み取れた。

 長細い木片を剣のように持つ。剣道の心得があるわけじゃないが、何もないよりマシだ。何より――

 背後で、物音がする。母親が立ち上がった音だ。

 俺はこの二人が逃げ切るまで、怪人を引きつければいい。

 ただそれだけだ。

 (バカかよ)

 震える手に、自嘲がこぼれる。

 俺はあの親子のなんなんだよ。

 なんで俺はここに立って、身体を楯にして、命を危険に晒してるんだよ。

 ――そんな義理、どこにあるんだよ……。

 それでも俺の足は動かない。立ちはだかることをやめない。俺は俺の行動が理解できていなかった。

 「逃がすわけないだろう、見ちまったんだからよ!」

 怪人は俺を侮る。

 侮ったから、俺を片手間に処理しようとする。大きく振られた腕を見て、俺の手の震えは止まった。


 軌道の読める攻撃を、身を深く沈めることで躱す。慣性に従った怪人の腕は抵抗なく振り抜かれ、体勢が大きく崩れる。

 (ここだ!)

 俺は踏み込む。

 怪人の腕の内側へ、その身体の方へ、狙うべくは一点で、

 (俺は知ってる)

 怪人の最大の弱点を、

 (唯一の弱点を)

 その美しく屹立する額の角目がけ、下から上へと、渾身の力を持って木片を振り抜いた。


 「がっ……」

 怪人の意表を突かれた苦悶の声と、木片と角が衝突した甲高い音が響く。怪人は衝撃で仰け反り、怯んだ。

 (やった、)

 俺は思わずほんの少し口角を上げ、

 「やっ――」

 歓喜の声を上げようとした。

 その声を発した瞬間には、俺の目は鰯雲を捉えていた。

 (え?)

 認識したときにはもう遅く、俺は腹部に激痛を覚える。その直後には、肩や、背中にも。

 俺に与えられていた慣性が失われたことに気づく。俺は木に叩きつけられていた。急に視界が変わったのも、投げ飛ばされたからだった。

 いや、投げ飛ばされたというより、殴り飛ばされたのだ。

 俺は痛みでまともに開けない目をなんとかこじ開ける。うっすらと見える怪人の影は、かなり小さかった。

 拳撃だけで、ここまで飛ばされたのか……。

 血と砂の味がする。

 身体の痛みに反して、思考はまともに機能していた。

 怪人の目線はこちらにあった。ゆったりと近づいてくる。親子の姿はない。

 (よかった、逃げられたかな)

 俺は安堵していた。何故かはわからない。

 ただ、徐々に大きくなる怪人の影に、恐怖を抱くこともなかった。

 目の前にあの鉤爪が置かれる。怪人は腕を振り上げながら、何事か俺へ言葉を浴びせかける。それがなんなのかは、聞き取れなかった。

 意識が朦朧としてきた。

 

 怪人の腕が振り下ろされる。

 振り下ろされ、

 その拳が俺を叩き潰す、

 その直前に、

 怪人の腹から槍が生えた。


 「アァアアッ!?」

 怪人の苦悶の叫びが響く。槍は勢いのまま、俺のぶつかった木の幹へ突き刺さりようやく止まった。

 怪人は俺に構わず、槍の飛んで来た方向へ振り返る。その先では、投擲体勢を取っていた一人の男が、鋭い眼光を携えてこちらをにらみつけていた。

 (あの人、どこかで……)

 白いシャツに黒いズボンと、腰回りに少々の装備を拵えただけのラフな格好の彼は、そうだ、確か、

 (麻島……恵吾……?)

 そんな名前だ。

 「君! 生きてるかい!」

 麻島は俺に声をかけてきた。返事をしたかったが、身体が痛みで言うことをきかない。声が出ない。なんとか、なんとか片腕を少しだけ持ち上げる。

 それを見て麻島は頷く。眼光の中に、喜びの色が見えた気がした。

 「次から次へと……!」

 怪人には明らかに苛立ちが募っていた。とはいえ、麻島の武器は俺の真上に刺さっており、その前には怪人が立っている。どうするつもりなのだろうか。

 (あの人、バカなんじゃ……)

 間一髪、己を救った人物に対してあらぬ疑念が浮かぶも、だからといって今の俺に出来ることはない。ただ、なんとか身体を動かしてこの場から避難しなければ。

 (そうだ、今の俺は多分……あの人にとって邪魔でしかない)

 麻島がイデアルヒーローである以上、彼の目的は怪人を打ち倒すことだ。彼の性格がどんなものかはわからないが、少なくとも俺の身を案じたということは、動けない俺は確実に足手まといになる。

 俺は木に刺さった槍を見上げる。不思議なデザインの槍だ。細いポールの先端に、大きめの三角形がついた若干不揃いすら感じるバランス。その三角形の部分には、武器らしく刃がついているだけでなく、なにやら中央に楕円状の装飾部がある。

 (まぶた……)

 その中央に切れ目が見え、もしかするとそこが開くのではないか、ぼんやりとそう思った。

 気のせいだとは思うが、槍が少し、ひとりでに動いた様に見えた。

 俺の生存を確認した麻島は、目線を怪人に戻す。

 挑発するように口角を上げ、腰の装備からなに――おそらく小さなナイフ――を取り出し、それに日光を反射させる。

 そんな小さな得物で何が出来る? いや、それでも怪人はその行動を見て、男に向き直った。俺から意識が外れた。

 「舐めやがっ、て!」

 激昂した怪人が飛び出す。踏み切りで抉れた土がもろに俺の顔に飛んでくる。

 走り出した怪人に合わせ、麻島も駆け出す。ナイフを小脇に構え、真正面から怪人とぶつかり合う――寸前、跳ねるようにして僅かに浮いた怪人の股の下を、足を前に投げ出し滑り抜けた。

 そこからはほんの僅かな時間だった。

 怪人は着地しすぐさま振り返る。麻島は俺の目の前まで滑ってくると、優しく笑い軽く俺の肩を叩く。

 「通報を貰った。救護班が戻ってくるまで少しの辛抱だよ」

 麻島は俺の返事を待たず、幹に刺さった槍を引き抜く。瞬間、ほんのわずかに槍が発光した気がした。

 振り抜かれる。

 軌道が眩しく見えた。

 目測なく、感覚で、しかし全身を使って振られたそれは、反転し迫っていた怪人のその角を、正確に捉えていた。

 金属のような、ガラスのような、そんな高い音が秋の空を貫く。そしてその聞き惚れそうになる音を上書きするように、怪人の耳障りな絶叫が辺りを支配した。

 「っち、浅いか!」

 宙を舞う角の破片を見て、麻島が舌打ちする。角は半分以上折れたように見えた。

 (ダメだ、それじゃ)

 足りない。角は怪人の弱点だ。だが、

 「てめえ……!このっ……殺す……っ、殺す、ここで殺す!殺す殺す、殺すぅううウ!」

 致命傷となるのは“根元”だ。半ばで折るのでは、倒しきれない。

 「……しくったなー」

 麻島は呟く。発言の軽さの割に、その顔には焦りが見えた。怪人が怒りにまかせた拳を繰り出す。規則性もあったもんじゃないめちゃくちゃなそれに、麻島は防戦一方になる。

 (あぁ、俺がここにぶっ倒れてるからだ)

 手をつく。無理矢理身体を動かす。

 ――足手まといになりたくなかった。

 肋骨が折れているのか、息がしにくい。構わない。上体を僅かに上げる。身体を引き摺る。とにかく、一刻も早くこの戦闘の場から離脱しなければ……。

 それが多分、不味かった。

 俺の身じろぎに、怪人も麻島も一瞬気を取られる。怪人が反射的にその拳の軌道を俺に向け、さらにそれに反応した麻島が崩れた姿勢でそれを、庇った。

 「ぐっ……!」

 弾かれた腕から異音がし、槍が手放される。それは俺の目の前に滑り、行く手を阻むように静止した。うめき声を上げる麻島の方を見れば、右腕をだらりと力なく下げ、肘を左手で押さえている。

 確かな手応えを感じた怪人が複眼のような目を光らせる。間髪入れず、怪人は下段突きを男の腹部に抉り込ませた。

 「がはっ」

 麻島が吐血したのが見えた。強烈な突きを食らった男の身体は浮き、すぐ後ろの木の幹に叩きつけられる。

 また、嫌な音がした。

 ぐにゃり、麻島の身体が崩れ、俺に覆い被さるように倒れた。怪人の顔は変わらないが、俺には何故か笑ったように思えた。

 ――これは、もう、だめなのか。

 諦めかける。

 ここで俺はあの拳に潰され、死ぬ。

 きっと一瞬だ。痛みはないだろう。嬉しいなぁ。

 「……っはは」

 俺にも聞こえないほどの、小さな笑いが漏れる。覆い被さっている麻島には、まだ息があるようだった。呼吸していることが、その胸部から伝わる動きでわかる。だが、おそらくまともに立ち上がれないだろう。イデアルヒーローなどと言っても、彼らも人間であることに変わりはない。

 「二人揃って、仲良く死ね」

 怪人が大きく腕を振り上げた時だ。

 俺の指先が槍に触れた。触れた瞬間、俺にはなにか直感的な、確信のようなものが脊椎を駆け上がるのを感じた。

 目を見開く。右手で槍を掴む。無理矢理身体を捩り、左腕で麻島の力の無い身体を抱える。

 痛みを無視する。上体を跳ね上げる。怪人の腕が、やけにゆっくりと見えていた。

 右腕の先で、槍が俺に応えたような感覚があった。

 槍のまぶたが開く。結晶のような部品が露出する。槍の瞳が強く発光し、俺にその重さを感じさせない。

 俺はただ、とにかく槍を振り抜いた。

 振り下ろされる怪人の腕と、槍の軌道が交差する。

 抵抗はほとんどなかった。

 「なにっ……あっ……?がぁっ……!?」

 俺が状況を認識したときには、怪人の肘から先が遠くへ吹き飛んでいた。

 「……っはぁっ!!はっ……!!」

 突然呼吸に意識が向く。無意識に息を止めていたのか? それにしては……

 「君は……」

 麻島が小さく疑問を投げかけようとする。するが、俺はきっとその疑問への解答を持ち合わせていない。

 それに、返事をする体力すら、危うかった。

 怪人の腕の断面から、血液のような液体がバタバタと落ちる。金属質の装甲の下側に、肉のような部分。急にそれが生々しさを与えてきて、俺は口の中の血の味に酸味が混ざるのを感じた。

 とはいえそのギロチンのような腕に潰されて死ぬことは回避できた。

 ただ、ただ――

 「クソがっ!そっちのガキは楽には死なせねぇ……」

 ここから、俺はどうすればいい?

 麻島は頼れない。

 槍は答えない。

 俺は、俺は……――

 槍を握る腕が下がり始める。重さを少しずつ認識し始める。怪人が残った腕を伸ばしてくる。それが嫌に遅く見えて、視界の色が消えかけ、そして。


 「――――――」


 耳に、なにかの音がする。

 俺も、怪人もその動きを止める。俺は怪人越しに、それを見る。

 それはまるで、鉱物をカットしてできたような薄い、青い人型。

 どこから現れたのか、いつからそこにいたのか、崩れた参道の真ん中に佇んでいた。剣のように薄く鋭い手足が、胴体と完全に切り離されているように見えるにも関わらず、その身体はどの部分も一切の揺らぎを見せることはない。地面からほんの少し浮いたそれは、“おそらく”こちらをじっと見ていた。

 (あれも怪人、なのかな)

 俺の視線はそいつに釘付けとなる。気づけば、牛頭の怪人もその幾何学的な存在の方を見ていた。

 青いそれには頭部と言える部分がほとんどなかった。それに伴って、怪人の象徴である角も……いや、もしかすると僅かに出っ張った首のような部分が角なのかもしれない。だが、そんなことは今は関係なかった。

 「……す、」

 「どうしてここに貴方が……」

 俺がなにか言おうとしたのと、怪人が驚きの声をあげたのはほとんど同時だった。あれ、俺は今なんて言おうとしたんだっけ。

 青い人型は牛頭の怪人に対して、首らしき部分を小さく振る。

 「なっ、し、しかし!」

 怪人が、その声なき指示に反論する。それを言い終えるか否か、青い人型が瞬間的に距離を詰め、最小限の動きでその残った腕を切り飛ばした。

 怪人は声にならない悲鳴を上げる。膝をつきかけるそれを、青い人型は何も言わず見下ろしていた。

 「……っちぃ……す、すみません……でした」

 力のこもっていない声が発される。最大の武器を両方とも失った怪人は、動けずにいる俺をひとしきりにらみつけたあと、木立の向こうへ不格好に駆けだし、そのまま……見えなくなった。

 この場には、動けない俺と、動けない麻島と、青い人型が残された。もう腕は落ちきっていた。人型は何も言わない。何も言わず、俺たちをじっと見る。それがどのくらい続いたか、正確な時間はわからない。

 耐えかねた俺が、槍にかかった指先に改めて力を込めようとした頃だった。

 「――――――」

 あの音が、耳に入る。これがこの人型の声なんだろうか。何を言っているかはわからない。ただ、綺麗な音だった。

 その音に気を取られた直後、人型は踵を返し、正面鳥居の方へつむじ風を伴って移動する。それを追いかける気など俺にはなかった。

 階段の先にその姿が消えた後、しばらくして入れ替わるように何人かの声が聞こえた。階段を登ってくるのは、多分、コルヒエの救護班ってやつだろう。

 あまりにも、あまりにも色々なことが立て続けに起こりすぎた。苛立ちのままなにかに当たり散らしたい。そんな欲を解消できる体力もない。思考が止まる。急激に身体の痛みと疲労が主張を始める。


 担架を持った人たちがあと数メートルといった所まで来た頃、俺はその場で意識を失った。





 **********


 怪人はバランスの取れない身体で藪を抜ける。

 “あの人”が殺生を好まないことを知っていた。知っていたからこそ、バレないようにやるつもりだった。なのに……

 「くそ、近くに来てたなんて知りもしねえ……!」

 小さく悪態をつく。

 足の裏から伝わる感覚が、軟らかい土から硬いアスファルトへ変わった。ほんの少しだけ、スタミナを回復させようと足を止め――

 「スクラップは須く悪である」

 怪人は気づく。目の前に何者かがいることに。

 「何モンだ――」

 人間の男のように見えた。

 だが、怪人にはそれが生き物ではないようにも思えた。

 混乱の中、何者かは俊敏な動きで怪人の頭を両手で掴み、一切の躊躇もなくその膝を、短くなった角へと叩き込んだ。

 ガラスの砕ける音がする。

 角は根元まで、粉々に砕け散った。怪人は声を上げる暇もなく、その場で粒子状になり跡形もなく消滅する。

 膝蹴りを打ち込んだ姿勢で静止していた何者かは、ゆっくり姿勢を戻す。静かに神社の方を見遣り、遠くで青い影が走り去るのを何も言わずにらみつけていた。




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