それは一夜の幻想

卵粥

第1話

 だるく、重い体を引きずりながらも駅のホームへとたどり着く。

「……今日も終電か」

 俺の数か月間はまさに灰色であった

 今年の春から新社会人として働き始めたのはいいものの、既に活力が尽きようとしていた。

 毎日人が大量に詰め込まれた電車に乗って、「俺の若いころは――」などと先輩風を吹かすオッサンの相手をして、そして押し付けられた仕事の処理をする。何が「若いころは苦労を買ってでもしろ」だバーカ、てめえの仕事だろうが。

 大学生の頃は、友人と定期的に会って飲んだりもしたが、今はみんな忙しく集まることもない。

 たまの休日は、いつも糸が切れたように眠り続けることで終わっている。

 そんな毎日に心が擦り切れ、摩耗した精神は考えを悪い方向へと向ける。

「あ、死ねば明日から出勤しなくて済むじゃん」

 ちょうどまだ終電が残っている、そこで飛び降りてしまおう。

 静寂に包まれたホーム。周りに人はおらず自分だけ。

 その時ちょうど、電車の前照灯がホームを照らす。

 俺はそれに合わせて勢いよく身を――

「おい馬鹿止めろ、仕事が増えるだろうが」

「グエッ!」

 澄んだ女の子の声と、襟を掴まれたことによる俺の汚いカエルのような声が響く。

 そして俺の両脚はホームについたまま。正確に言えばつま先立ちで前のめりのままなので、このままだと死ぬ自信がある。

 ちなみにもがいている間に終電は逃した。畜生。




 帰ることも死ぬことも失敗した。まあ前者はともかく、後者のほうは首が絞まった時にもがいた辺り、まだ死にたくないという想いが勝ったらしい。

 しかしいったい誰だ?少なくとも俺以外の人間はホームにはいなかったはず。

 不思議に思い後ろへ振り向く。

 そこには、高校生くらいの少女がいた。しかしその風貌は異質なものであった。

 全身を黒い装束で身に包み、頭にかぶったフードから覗く瞳は赤く輝いていた。

 そして右手には――巨大な鎌。

「どうしたのさ、ぼーっとして」

 いや、どうもこうもないだろこれは……。

 これは、何だ。ドッキリ?それとも警察呼んだほうがいいのか?

「ええと、それで何の用でしょうか?」

 この子が何者なのかとかすごく気になる、てか最優先事項なレベルなのだが一度置いておくとしよう。

 止められたわけだし用事を聞くとしよう。

「あん?用事も何も、自殺しようとしてたから止めただけだよ。こんな時間から仕事とかしたくないし」

 仕事?ますますもってこの子のことがわからねえ。

「まさか死神とかだったり……、なーんちゃって」

「そうだけど」

 そうだったかー。




「それで、死神さんはなんで俺を止めたんだ?」

 正直内心かなり取り乱していたが、いたって平静を努めて質問を続ける。

 たとえこの子が死神だったとしても、俺の中では自殺を止めた少女、ただそれだけである。

「あのなぁ、人間のあんたは知らないかもだけど、死神ってのは死んだ人の魂を現世から冥府へと送り届けなきゃいけないんだよ。そして私は今からそんなことはしたくない、だから止めた。それだけ」

 淡々と答えているように見えるが、その声はどこか怒気が含まれていた。

「ひょっとして怒っていらっしゃる?」

「ああ怒ってるよ。寿命で死ぬならともかく、自殺って私たちにとってはただ仕事増やすだけの嫌がらせにしか思えないからな」

 け、結構辛辣だな……。

 でもまあ、死神からしてみたらそういうものなのか……。

「……そりゃ悪かったな。けど、こっちにもいろいろ事情があったんだよ……」

 今となってはその気持ちも薄れてきたが、あの瞬間だけは本当に死ぬことを考えていた。それほどにまで自分を追い込んでいたのだとあの瞬間に悟った。

 だがそんな思いを知ってか知らずか、少女の態度は相変わらずであった。

「ふん、どんな理由があったとしても自殺は自殺だ。私には関係ないね」

 そう言って彼女はそのまま駅のホームに置かれていたベンチへと腰掛ける。

「お前に何がっ――」

「それで、話さないの?」

「は?」

 口から飛び出しかけた怒りの言葉を、彼女の言葉が押しとどめる。話すって何のことだよ。

「だからさ、死にたくなるほどの辛い事があったんでしょ。だったらここで吐き出してもらわないと、また死のうとするかもしれないじゃん。だから私に話して」

 あくまで自分のためだと言いたいのだろうが、彼女の表情などを見るにそうでもないらしい。

 その気持ちが純粋に嬉しくて、気が付けば表情が緩んでいた俺は彼女の隣に腰掛ける。

「……結構長くなるし、ストレス溜まるかもしれないけど良いか?」

「……仕事よりマシ」

「どっちもキツイと思うけどな」

 そこから少し長めの夜が始まった。




 それから俺はどのくらい喋り続けたかわからない。

 上司に対する愚痴から始まり、今の生活が変わらないことに対する不満。

 まあそんなことをいつまでも話せるわけもなく、気が付けば俺たちはただの雑談を始めていた。

「――――でさ、信じられないのは、ソレ、ご飯にザバーッってかけたんだよ!」

「え、それ死神のほうじゃ普通だぞ」

「まじかよ死神やべえな!」

 その時間は充実していた。いつぶりだろうか、これほどにまで生きていると実感したのは。

 そうやって過ごしていくうちに空の色は変わり、あと三十分もすれば始発電車の時間であった。

「――ああ、もうこんな時間か。そろそろ行くわ」

 死神はそう言いながらベンチから立ち上がった。

 この時の俺がどんな顔をしていたのかはわからないが、その顔を見た彼女は少し困ったような顔をしていた。

「そんな顔するなよ、お前はもう大丈夫だよ」

 そう言って微笑んだ彼女は、朝焼けと相まって輝いて見えた。

「な、なあ、また会えるかな?」

 気が付けば俺の口からはそんな言葉が出ていた。この時間を終わらせたくない、またこの時間を過ごしたいという想いが溢れていた。

 しかし彼女はゆっくりと首を振って苦笑いを浮かべた。

「死神にそう何度も会って良いわけないだろ?」

「ははっ、それもそうだな」

 ここにきてのまさかの正論で、思わず笑いがこみあげてくる

「それじゃあ、もう会わないことを祈ってるよ」

「ああ、じゃあな」

 こうして俺の長い夢のような夜は終わりを告げた。




「ん、朝か……」

 気が付けば、俺はベンチで眠っていたらしい。

「あれ、そもそもなんで俺はこんなところで寝ているんだ……」

 確か終電の時間には間に合っていたはず。じゃあなんで家にいないんだ。

「……まあ、良いか」

 何故か気分がすごくいいため、今は気にしないことにした。

 何かとてもいい夢を見ていたような気がするが、よく覚えていない。

 それが夢だったかどうかもわかない。

 それでも、昨日の自分とは違う、これからの人生をいつだって前向きに生きていこうと考えるようになっていた。

 朧気ながらも、その夢の時間は俺に力をくれた。

「さて、今日も頑張るか!」

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それは一夜の幻想 卵粥 @tomotojoice

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