七十六 平宗盛



 養和元年八月。

 未曽有の飢饉の最中にあっても、京雀は騒がしい。



「おい、聞いたか聞いたか? 北陸の反乱討伐に出た平家が、また負けたらしいぞ」


「聞いたぞ聞いたぞ。しかもただの負けじゃない。当主の兄弟や一門、主だった武将が、そろって討ち死にだってな」


「さしもの清盛公の祟りも、悪名轟く平将門公の化身には叶わなかったってえことか?」


「いやいや、東大寺を焼いた平知盛とももり様を大将に据えたのが運のつき。仏罰によって滅びたとも聞くぞ?」


「ああ、さすがの清盛公も大仏様には敵わんか……となると、平家も……」


「終わりじゃろうなあ……こう言っても、禿童かむろも来んしなあ」


「はてさて……すると、次はだれの世となるか……院近臣藤原成親なりちか卿か、摂関家のお三方のいずれかか……」


「と、のんびりと構えてはおれんぞ。北からあの平将門公の化身がやって来るぞ。延暦寺の僧兵すら撫で切りにした、本物の仏敵が」


「おそろしい。ただでさえ最近の都は治安が悪うなった。これからどうなるのやら……」







「――なるほど、巷ではそのように言われているか」



 京六波羅、平宗盛邸。

 家人から報告を受けた宗盛は、天を仰いでため息をついた。



「京雀はよく知っている」


「宗盛兄上、お力を落とされますな」



 声をかけたのは、同席していた宗盛の弟、重衡しげひらだ。

 清盛の命で鎮西の討伐に出た平重衡、そして四国討伐に出ていた甥の平惟盛は、7月にようやく現地の反乱鎮圧に成功し、先日帰京している。


 帰京の折、それぞれの地で軍を解散させた。

 もとより、富士川合戦のために招集した武士団の帰還を兼ねての討伐であり、清盛存命中より、それは織り込み済みだった。


 だが、宗盛はいまになって、それは本当に正しかったのか、と首をかしげる。



「なあ、重衡。鎮西や四国の軍を解散させて、本当によかったのだろうか?」


「宗盛兄上。飢饉により、西国では軍を維持すること自体、困難になっております」



 平重衡は、こんなときでも、どこか演じるように語る。



「――それに、この情勢です。都を維持できねば、我々は朝廷より軍権を剥奪され、西国の武士団を指揮する根拠を失うことになるでしょう」



 後白河院との関係修復はすでに絶望的であり、摂関家とて、平家の味方にはならない。平家が都を去れば、もはや都に平家を擁護できる人間は居ないのだ。

 中核となる武士団もすでに無く、動員の根拠もないでは、現地の武士団が従うはずがない。悪あがきにすら、なりはしない。



「重盛兄上たちが健在だったなら、帝を奉じて鎮西や四国に下向することも出来たのですが……」


「そこまでやれば、我らは言い訳しようのない悪に墜ちる。平家は滅びるしかなくなっていただろう」



 宗盛は、弟の示した未来を否定する。



「――平家の武名は、すでに兄上たちが残してくれた。我らは平家の命脈を保つために、全力を尽くさねばならぬ」


「……飢饉さえなければ」



 平重衡は口惜しげにこぼした。


 飢饉がなければ、東国に対抗する軍事力を維持することは難しくなかった。

 そうなれば北陸道が、これほど早く失陥することはなかっただろう。

 西国と東国、最低でも天下二分の情勢に持って行けたはずだ。


 いや、北陸道の危機となれば、延暦寺から協力を取り付けることも不可能ではない。

 そうなれば、平家はどれほど有利に戦えたか。


 そんな、すべての可能性を、未曽有の飢饉は奪い去っていった。



「いまさらよ」



 宗盛はため息をついた。

 無くなった可能性の話をしても、いまは仕方ない。



「――つい先日、正式に坂東からの要求が来た」


「あちらはなんと?」


「朝敵の解除と平家一門の解官。引き換えに、都に米穀を」


「止め置いていた年貢と引き換えに、そこまでですか……交渉の余地は?」



 平重衡の問いに、宗盛は黙って首を横に振る。



「やめよう。今年も凶作だ。餓死者の数も、目を覆いたくなるほどだ。都に入る食糧はすこしでも多い方がよいし、すこしでも早い方がよい。下手に引き延ばせば、それだけで我らは悪者よ」


「そんな……」


「二年連続の凶作。まったく入って来ない米穀……貴族たちも危機感に焦れている。後白河院は坂東との交渉に積極的で、摂関家も右に習っているいま、下手を打てば、すべてを敵に回してしまう」


「だからといって、我らが一方的に割りを食っていいはずがありません!」


「……治承三年、我らの起こした政変が祟ったな」



 詰め寄る平重衡の瞳をまっすぐに見つめて、宗盛は語る。



「あのとき、我らは天下のすべてを手に入れた。されど、引き換えにすべての責任を負うことになってしまった」


「兄上……」


「重衡。すでに我らは負けた。ならば奇麗に身を引こうではないか。そうすれば、ふたたび浮かぶこともあるだろう」



 弟に言い聞かせるように、宗盛は言葉を続ける。



「――後白河院も、貴族たちも、父清盛の祟りを恐れている。みなが口火を切る勇気を持たぬいま、我から官職の返上を申し出る。誰にも手を汚させぬことで、平家を侵す忌避感を温存すれば、解官後の無体な仕打ちも避けられよう。民のために己を犠牲にしたということで、為政者としての面目もたつしな」


「兄上……」



 平重衡の声には、驚きの色が混じっている。

 普段は臆病な宗盛の、腹の据わった言葉。そこには間違いなく、惣領パパたる矜持が宿っていた。



「重衡、いまは息をひそめて見守ろう。坂東よりの嵐が、日ノ本に、なにをもたらそうとしているのかを……我々、残された平家の戦いは、まだこれからなのだから」



 養和元年9月。

 北条政子、およびその郎党に対する朝敵認定が解除。

 同時に平家一門ことごとくが官職を返上。治承3年より始まった平家政権は、ここに潰えた。


 これにより、後白河院の院政が、ふたたび力を取り戻す。

 だがその力も、往年のそれと比べれば、見る影もない。

 時代は、新たな力を求めていた。

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