七十四 影と光



 治承から改元して養和ようわ元年7月末。

 北条政子の意を受け、比叡山延暦寺に向かっていた源為朝は、途中、近江おうみ国野洲川の手前で旅の僧侶に声をかけられた。



「もし! そこのお方!」



 すれ違いざまに斬り捨ててやろうと思っていた為朝は、相手から声をかけられて興味を持ち、馬を止めた。



「おう、なんだ」


「平家の討伐軍は破れたと聞き申す。北より馬を急がされる貴公は、もしや坂東の方か!」


「その通り、と言ったら?」



 為朝は大太刀に手をかけた。

 もしこの僧が騒ぐようなら、声を上げる前に斬り捨てる腹づもりだったが、僧は逆に喜色を浮かべた。



「それは重畳! 実は拙僧、貴公のような御仁を見かけたら、密かに己のところにお連れしてほしいと、ある御仁から頼まれておりましてな」


「ある御仁?」


「名は、拙僧も存じ上げ申さぬ。奇縁にて熊野、高野、延暦寺にて行きあった縁がござってな。その方たっての頼みということで、引き受け申した」


「ほう? なら、案内してもらおうか」



 好奇心を刺激された為朝は、この僧について行こうと決めた。


 僧に案内されるまま、街道を外れ、山野に潜っていくようにして進むと、林の中に隠れ家のような小さな庵があった。



「もし。拙僧でございます。お客人をお連れしましたぞ」



 僧が声をかけると、中から応じる声があった。



「感謝いたします。どうぞ中へ」



 為朝にとって、聞き覚えのある声だった。



「……おい、坊主。この庵の主と、サシで話がある。てめえは離れてやがれ」


「もとより、かの御仁からも、そのように言われております」



 僧は抵抗なく、その場を離れた。

 それを見届けて、為朝は庵の中に足を踏み入れ、口の端を凶暴につり上げた。



「よう。本当に生きてやがったんだな――頼朝よ」


「これは――叔父上でしたか。お久しぶりです」



 庵の主、源頼朝は一瞬だけ、驚いたように目を見開いて――笑った。







 源頼朝。

 北条政子の夫にして、右近衛中将うこんえのちゅうじょうとして後白河院を支えた武臣。

 以仁王の政変計画に深く関わり、反乱にも同道し、南都に逃れる彼を助けるため、一人園城寺に残って平家と戦い、紅蓮に包まれて落命した。


 その、死んだはずの男が、目の前にいる。

 もとどりを解き、野人に身をやつしながらも、涼やかな面差しと、湖沼のよどみのごとき湿気は隠しようがない。



「どうぞ。ろくなものはありませんが」



 頼朝は、為朝を座らせて、小さな甕から杓で水を汲んで来た。

 口をつけると、清流から汲んで来たばかりと見えて、冷たく、甘い。


 暑い盛りだ。為朝は一気に水をあおると、一息ついた。

 落ちついてしまって、口にしようとした皮肉や文句も引っ込んでしまった。


 それすらこの男の計算通りな気がして、癪に障る。



「……延暦寺への使者として、来られましたか」


「ふん。わかるか」


「ええ。坂東の武者が最初にここを通るとしたら、その用件は、都を閉ざす北の門――延暦寺への一手でしょうから……使者が叔父上だというのは、想定外にもほどがありますが」


「かかっ、さすがのテメエでも、それは読めなかったか」



 最後でひとつ、鼻を明かした気になって、為朝は機嫌を直す。



「よう、なんでテメエ、生きてるのに死んだふりしてんだ?」



 為朝が尋ねると、源頼朝は、ゆっくりと語りだした。



「以仁王の政変。政子殿の夫であるがゆえに、関わることを避けられなかったあの計画を進める中で、私は八方に手を尽くしました。政変が成功しても、失敗しても、私が死んでいても生きていても、私と政子殿にとって都合がよく事が進むように……」


「それで、政変は失敗して、あの魔王娘は坂東の王になった……だが、テメエが生きてたんなら、本来そりゃテメエが居るはずの位置だったんじゃねえか?」


「展開によっては、それもありましたが……坂東での旗揚げに、私が間に合わなかった以上、それはもはや私の役目ではありません」



 一切の執着を感じさせない、投げ捨てるような答えだった。



「未練はねえってか」


「修羅の道ですよ。坂東の王になることは。そしてそこから天下を掌握することは」


「だから、要らねえと?」



 為朝の言葉に、頼朝は首を横に振る。



「いえ。だから、それを助けるために、私が共に同じ道を歩んではいけないのです。政子殿が陽光の下に身を晒して衆目を集めてくれるなら、私は政子殿に目を向けた敵の足元をすくう……役割分担ですよ。私が勝手に決めた」


「魔王娘はたいそうおかんむりだったぜ?」


「ひょっとしたらと思っていたんですが、やはり政子殿は気づいてしまいましたか……どおりで政子殿の動きが読みにくくなったわけです」


「かっかっか、すでに判断基準が、テメエに尻拭いさせる前提で“どうすれば面白くなるか”だからな! ずいぶんと嫌われたもんだ!」


「養和元年7月某日、政子殿に嫌われて生きているのがつらい……」



 頼朝が恨み雑記帳ノートに泣き言を書き出したのは、ともかく。



「まあそれは置いておいて――テメエがここにいるってことは、延暦寺で悪さして来やがったんだろう?」


「……ええ。事前に不和の種を仕込んでおきました。延暦寺は、叔父上がよっぽど高圧的に出ない限り、四分五裂になるのは確実ですよ」


「……ん? 高圧的じゃいかんのか?」


「仲の悪い彼らも、“延暦寺”が舐められたとなれば、一致団結して外敵に立ち向かうでしょう。親切を装って、北陸からの税の搬送の護衛は我々が……と持っていけば――暗に税を差し止める能力があることを示せば、大混乱になります。たぶんその方が、見ていて面白いですよ?」



 言われて、為朝は眉をひそめた。

 為朝の興味をくすぐるのが、実にうまい。



「……つくづくやな野郎だな、テメエ」


「まあ、生まれ持っての性格ですので」



 為朝がにらみつけると、源頼朝はじめっと答えた。







 為朝はもう一杯、水を求めた。

 源頼朝が水を汲む、その背に向けて、為朝は話す。



「よう、都の様子はどうなってる? おれさまたちのうわさでもちきりか?」


「平家はこの世の終わりか、といった風情らしいですよ」



 水を杓で渡しながら、頼朝は都の様子を語る。



「宮中は蜂の巣をつついたような騒ぎで、公家たちはおろおろするばかり。摂関家でも、平家の政変の折、失脚した政子殿の裳着親(後見役)、松殿基房まつどのもとふさ殿が再起を志して動いておられるとか」


「かっかっか、さすが摂関家。しぶてえしぶてえ」


「後白河院の動きは、見えません。この機会に、積極的に動いたという話は聞きません。近臣には藤原成親さまが居らっしゃるので、なにか動きがあれば察せるのですが」


「テメエでも読めんか」


「読めません。政子殿と、あの方の心中だけは」


「かかっ、まあ、だからこそ――」



 頼朝の言葉に、為朝は笑って言った。







 養和元年八月。

 京の都。八条院御所。

 夜の闇をかき分けて、後白河院は八条院の元に忍び来た。



「ごめんな、にーちゃん。こんな時に呼び立てて」



 後白河院を迎え出た八条院は、すまなそうに詫びる。



「いや、こんなときだから来たかったのだ。坂東あちらの事情を最もよく知っているのは、たぶんそなたであろうからな。平家があの様になって、ようやく動けるようになったが……どうも、都の治安は悪くなったものだな」


「大風に大火事、とどめが飢饉。それを抑えつける京武者も、櫛の歯が欠けたようになっとるんやから、しかたないんやけどねえ」



 設えた席に落ちついて、ふたりは語り合う。

 どうにも景気の悪い話になってしまうのは、時世が時世だけにいたしかたない。



「平家はもうだめだ」



 後白河院は言う。

 平家の支柱たる清盛を失い、一族の武断派は、平家軍の背骨たる歴戦の将とともに戦場の露と消えた。

 高い官位を得て廟堂を占めているものの、それを支える武力を失った以上、公家としての平家も、しだいに消えていく――いや、消していくべき存在でしかない。



「――だが、次があの娘でいいのか、余にはわからんのだ」



 そこに、後白河院の悩みがあった。



 ――伊豆いず一国、わしに預けてみよ。平家と戦える武士団ちから、わしが創ってやるわ!



 彼女はそう言い、その言葉通り、いや、言葉以上の働きを見せた。

 平家、いや、日ノ本の総力と言っていい大軍を破って見せ、平家を壊滅状態に陥れた。


 はっきりいえば、やり過ぎだ。

 彼女は、後白河院が求めた以上に働き、望まぬ領域にまで足を踏み入れてしまっている。


 後白河院には、北条政子という人間がわからない。

 共に天下を営む協力者として相応しいか、わからない。



「はっきり言って、武士と手を組むのは懲りた。だが、あの娘と手を組まねば、もはや天下の営みが滞るのも事実だ。それゆえ、余は迷っておる」



 後白河院は妹に悩みを打ち明ける。

 その、暗い雰囲気を吹き飛ばすように。



「であろう! それゆえに、わしが来た!」



 二人の席に、北条政子が割って入った。

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