七十四 影と光
治承から改元して
北条政子の意を受け、比叡山延暦寺に向かっていた源為朝は、途中、
「もし! そこのお方!」
すれ違いざまに斬り捨ててやろうと思っていた為朝は、相手から声をかけられて興味を持ち、馬を止めた。
「おう、なんだ」
「平家の討伐軍は破れたと聞き申す。北より馬を急がされる貴公は、もしや坂東の方か!」
「その通り、と言ったら?」
為朝は大太刀に手をかけた。
もしこの僧が騒ぐようなら、声を上げる前に斬り捨てる腹づもりだったが、僧は逆に喜色を浮かべた。
「それは重畳! 実は拙僧、貴公のような御仁を見かけたら、密かに己のところにお連れしてほしいと、ある御仁から頼まれておりましてな」
「ある御仁?」
「名は、拙僧も存じ上げ申さぬ。奇縁にて熊野、高野、延暦寺にて行きあった縁がござってな。その方たっての頼みということで、引き受け申した」
「ほう? なら、案内してもらおうか」
好奇心を刺激された為朝は、この僧について行こうと決めた。
僧に案内されるまま、街道を外れ、山野に潜っていくようにして進むと、林の中に隠れ家のような小さな庵があった。
「もし。拙僧でございます。お客人をお連れしましたぞ」
僧が声をかけると、中から応じる声があった。
「感謝いたします。どうぞ中へ」
為朝にとって、聞き覚えのある声だった。
「……おい、坊主。この庵の主と、サシで話がある。てめえは離れてやがれ」
「もとより、かの御仁からも、そのように言われております」
僧は抵抗なく、その場を離れた。
それを見届けて、為朝は庵の中に足を踏み入れ、口の端を凶暴につり上げた。
「よう。本当に生きてやがったんだな――頼朝よ」
「これは――叔父上でしたか。お久しぶりです」
庵の主、源頼朝は一瞬だけ、驚いたように目を見開いて――笑った。
◆
源頼朝。
北条政子の夫にして、
以仁王の政変計画に深く関わり、反乱にも同道し、南都に逃れる彼を助けるため、一人園城寺に残って平家と戦い、紅蓮に包まれて落命した。
その、死んだはずの男が、目の前にいる。
「どうぞ。ろくなものはありませんが」
頼朝は、為朝を座らせて、小さな甕から杓で水を汲んで来た。
口をつけると、清流から汲んで来たばかりと見えて、冷たく、甘い。
暑い盛りだ。為朝は一気に水をあおると、一息ついた。
落ちついてしまって、口にしようとした皮肉や文句も引っ込んでしまった。
それすらこの男の計算通りな気がして、癪に障る。
「……延暦寺への使者として、来られましたか」
「ふん。わかるか」
「ええ。坂東の武者が最初にここを通るとしたら、その用件は、都を閉ざす北の門――延暦寺への一手でしょうから……使者が叔父上だというのは、想定外にもほどがありますが」
「かかっ、さすがのテメエでも、それは読めなかったか」
最後でひとつ、鼻を明かした気になって、為朝は機嫌を直す。
「よう、なんでテメエ、生きてるのに死んだふりしてんだ?」
為朝が尋ねると、源頼朝は、ゆっくりと語りだした。
「以仁王の政変。政子殿の夫であるがゆえに、関わることを避けられなかったあの計画を進める中で、私は八方に手を尽くしました。政変が成功しても、失敗しても、私が死んでいても生きていても、私と政子殿にとって都合がよく事が進むように……」
「それで、政変は失敗して、あの魔王娘は坂東の王になった……だが、テメエが生きてたんなら、本来そりゃテメエが居るはずの位置だったんじゃねえか?」
「展開によっては、それもありましたが……坂東での旗揚げに、私が間に合わなかった以上、それはもはや私の役目ではありません」
一切の執着を感じさせない、投げ捨てるような答えだった。
「未練はねえってか」
「修羅の道ですよ。坂東の王になることは。そしてそこから天下を掌握することは」
「だから、要らねえと?」
為朝の言葉に、頼朝は首を横に振る。
「いえ。だから、それを助けるために、私が共に同じ道を歩んではいけないのです。政子殿が陽光の下に身を晒して衆目を集めてくれるなら、私は政子殿に目を向けた敵の足元をすくう……役割分担ですよ。私が勝手に決めた」
「魔王娘はたいそうおかんむりだったぜ?」
「ひょっとしたらと思っていたんですが、やはり政子殿は気づいてしまいましたか……どおりで政子殿の動きが読みにくくなったわけです」
「かっかっか、すでに判断基準が、テメエに尻拭いさせる前提で“どうすれば面白くなるか”だからな! ずいぶんと嫌われたもんだ!」
「養和元年7月某日、政子殿に嫌われて生きているのがつらい……」
頼朝が恨み
「まあそれは置いておいて――テメエがここにいるってことは、延暦寺で悪さして来やがったんだろう?」
「……ええ。事前に不和の種を仕込んでおきました。延暦寺は、叔父上がよっぽど高圧的に出ない限り、四分五裂になるのは確実ですよ」
「……ん? 高圧的じゃいかんのか?」
「仲の悪い彼らも、“延暦寺”が舐められたとなれば、一致団結して外敵に立ち向かうでしょう。親切を装って、北陸からの税の搬送の護衛は我々が……と持っていけば――暗に税を差し止める能力があることを示せば、大混乱になります。たぶんその方が、見ていて面白いですよ?」
言われて、為朝は眉をひそめた。
為朝の興味をくすぐるのが、実にうまい。
「……つくづくやな野郎だな、テメエ」
「まあ、生まれ持っての性格ですので」
為朝がにらみつけると、源頼朝はじめっと答えた。
◆
為朝はもう一杯、水を求めた。
源頼朝が水を汲む、その背に向けて、為朝は話す。
「よう、都の様子はどうなってる? おれさまたちのうわさでもちきりか?」
「平家はこの世の終わりか、といった風情らしいですよ」
水を杓で渡しながら、頼朝は都の様子を語る。
「宮中は蜂の巣をつついたような騒ぎで、公家たちはおろおろするばかり。摂関家でも、平家の政変の折、失脚した政子殿の裳着親(後見役)、
「かっかっか、さすが摂関家。しぶてえしぶてえ」
「後白河院の動きは、見えません。この機会に、積極的に動いたという話は聞きません。近臣には藤原成親さまが居らっしゃるので、なにか動きがあれば察せるのですが」
「テメエでも読めんか」
「読めません。政子殿と、あの方の心中だけは」
「かかっ、まあ、だからこそ――」
頼朝の言葉に、為朝は笑って言った。
◆
養和元年八月。
京の都。八条院御所。
夜の闇をかき分けて、後白河院は八条院の元に忍び来た。
「ごめんな、にーちゃん。こんな時に呼び立てて」
後白河院を迎え出た八条院は、すまなそうに詫びる。
「いや、こんなときだから来たかったのだ。
「大風に大火事、とどめが飢饉。それを抑えつける京武者も、櫛の歯が欠けたようになっとるんやから、しかたないんやけどねえ」
設えた席に落ちついて、ふたりは語り合う。
どうにも景気の悪い話になってしまうのは、時世が時世だけにいたしかたない。
「平家はもうだめだ」
後白河院は言う。
平家の支柱たる清盛を失い、一族の武断派は、平家軍の背骨たる歴戦の将とともに戦場の露と消えた。
高い官位を得て廟堂を占めているものの、それを支える武力を失った以上、公家としての平家も、しだいに消えていく――いや、消していくべき存在でしかない。
「――だが、次があの娘でいいのか、余にはわからんのだ」
そこに、後白河院の悩みがあった。
――
彼女はそう言い、その言葉通り、いや、言葉以上の働きを見せた。
平家、いや、日ノ本の総力と言っていい大軍を破って見せ、平家を壊滅状態に陥れた。
はっきりいえば、やり過ぎだ。
彼女は、後白河院が求めた以上に働き、望まぬ領域にまで足を踏み入れてしまっている。
後白河院には、北条政子という人間がわからない。
共に天下を営む協力者として相応しいか、わからない。
「はっきり言って、武士と手を組むのは懲りた。だが、あの娘と手を組まねば、もはや天下の営みが滞るのも事実だ。それゆえ、余は迷っておる」
後白河院は妹に悩みを打ち明ける。
その、暗い雰囲気を吹き飛ばすように。
「であろう! それゆえに、わしが来た!」
二人の席に、北条政子が割って入った。
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