五十七 悪手の理由
政子の悲鳴めいた声に驚いて、妹、
「お姉さま、驚いたりなんかして、なにか問題だったんですか?」
「ふむ……お主に言ってもわかるまいがな」
言いながら、政子はどう説明したものかと首をひねる。
保子は、地方武士の娘としては当たり前だが、中央の事情や全国規模の戦略などわからない。
源義経が、奥州藤原氏の大軍を率いて、越後を制した。
この事実が、天下の形勢にどう影響するか。どこから説明すべきか。
「ふむ、そうさな……保子、我らは今、平家と戦っておる。
「え? 以仁王さまは亡くなられたのでは?」
保子が身も蓋もない事を言った。
「まあ、生死不明ではあるが、建前上は生きておることになっとるのだ。その方が都合がよいのでな」
「都合がよいのですか?」
「わしらにとってはな。この紙切れがあれば、わしは帝や院の御為に関東を支配できる。朝廷の命令をはねつける事も出来る」
「御令旨を紙切れって言っちゃった!?」
「まあ、反乱扱いでも一向に構わんのだがな。それでついて来るのは
「敵は帝さまじゃなくて、平家なんだって。だから好き勝手していいんだって思わせるために、紙切れが必要なんですわね?」
「保子姉様まで御令旨を紙切れ扱いっ!?」
義時の突っ込みは、やはり無視される。
「ああ。“君側の奸たる平家を討つ”――古臭いが、有効な名分ぞ」
にやり、と政子は笑う。
政子は令旨を勝手に解釈して関東支配、平家討伐の根拠としている。
だから、以仁王が生きていて、しかも関東に来た、などという事態は非常に困るのだ。
「ともあれ、わしは関東を抑えた。これに対して平家は、全国から動員した10万騎の大軍を関東に差し向けた」
「で、富士川で戦をして、勝たれたのですわよね? そこへ、越後で頼朝様の弟君が、と」
ようやく話の出発点に立った。
政子は、「義時、白湯」と、弟を使いに出しながら語る。
「うむ。奥州の動きの、なにが厄介か、という話じゃがな……保子、いま西国は飢饉に苦しんでおる」
「そのようですわね」
「そんな中、清盛は10万もの討伐軍を動員した。まあ、10万は公称で、だいぶ数を水増ししておろうが、それにしてもとんでもない数よ。それだけの数を動かしたのだ。飢饉はさらに深刻になっておろうよ」
清盛としても、賭けだったに違いない。
その規模は、政子の予想を凌駕していた。
政子の、火薬兵器という
「ともあれ、わしらは勝った。勝ちすぎた」
「勝ちすぎちゃだめなんですの?」
「だめではない。わしはそれを狙った。結果、平家は外征能力を失った」
「外征能力?」
「離れた国まで軍を攻め込ませる力、じゃな。平家は今、あらゆる面で坂東を凌駕しながら、それを戦に活かす事が出来なくなった。手足を縛られたに等しい状態なのだ」
「なるほど!」
保子が手を打ってうなずいた。
「そうすると……義経様は、平家が攻めて来ることを気にせずに、都に上っていけるってことですね!」
「ああ、
「悪い?」
保子が不思議そうに首を傾ける。
政子がその理由を説明しようとしたとき。
「――姉上」
と、戻って来た義時が、政子に声をかけた。
「おう、義時、白湯はまだか?」
「いま用意させております。それより姉上、商人の
「……この時期にか」
政子は眉をひそめた。
金売り吉次。
都で出会い、政子が方々の情報源としている、奥州の商人だ。
奥州が動いたこの時期に、吉次が来る。その符合を考えれば。
「すまん、保子。さきに奥州の事情を聞いた方がよさそうだ。ちょっと待っておってくれ」
「わたくしの事はお気になさらず。お待ちしておりますわ」
◆
政子が中門まで出ると、外に吉次が控えていた。
「おお、吉次、よくぞ参った」
政子は床にどっかと座ると、階下の吉次に声をかける。
「政子様も、お元気そうでなによりでございます」
「で、坂東の様子を探りに参ったか」
「これは……手厳しい」
単刀直入に問われて、吉次は首をすくめた。
「おたがい暗黙の了解だと思っておったが、腹の探り合いも面倒ぞ。ぬしは奥州藤原の手の者であろう。吉次、いまの坂東をどう見た?」
「かないませぬな」
苦笑してから、吉次はすこし思案して、口を開いた。
「組織というほど強固ではなく、さりとて、間違っても戦っていい相手ではない、と」
「まあ、組織作りはこれからじゃしな。そんなものであろう」
面白くもなさそうに、政子はうなずく。
実際、なにもかもこれからなのだ。
「富士川の戦いで、なにやら神変を起こされたそうで」
「妙なふうに伝わっておるな……まあ無理もなしか」
火薬を知らぬ者にとっては、爆発の轟音は天変地異に等しいだろう。
「親平家だった方々も、富士川の大敗北で、風向きも変わりましょうな。坂東はますます盤石になりましょう」
「ぬしがそう言うのだ。佐竹や藤姓足利の内側も、さぞかし乱れておろう」
「あちらを訪ねたのは富士川の戦より前ですがね」
吉次は肩をすくめて見せる。
実際、政子が知る歴史では、佐竹も藤姓足利も、内紛の末に首をすげ替えて、頼朝に従っている。
「奥州はどう出る?」
「義経様は
「そうか。秀衡もしくじったな」
こともなげに、政子はつぶやいた。
「は?」
「わしらが勝ちすぎた。すでに平家に遠征能力はない。もうじき冬で動きが取れなくなろうが、冬が明ければ義経らは無人の野をいくがごとく
「はい。そうなると存じますが……」
戸惑いながらもうなずく吉次に、政子は凶悪な笑みを浮かべて言う。
「西国の飢饉は深刻じゃぞ。かろうじて凶作を免れた北陸道諸国が落ちれば、都は飢餓地獄に落ちよう」
「……だからこそ、交渉の余地があると存じますが」
「食糧と引き換えに、
かろうじて応じた吉次に、政子は畳みかけた。
反論の言葉はない。
ただ、首を左右させて、吉次は息を落とした。
「やはり、そうなりますか……」
「平家が朝廷を握っておる限り、らちがあくまい。かといって義経たちが都へ攻め入れば、都はこの世の地獄となる」
「地獄……」
「いかな規律正しい軍とて、飢えれば生きるために奪わねばならぬ。わずかな食料を求めて略奪が横行することになろうよ。義経の兵は5000か? 1万か? どのみち奥州からでは補給も間に合うまい。奥州の豊富な財も、都では米穀を
政子の知る未来で、
そうなれば、どうしようもない。義経も奥州藤原氏も、破滅あるのみだ。
「……政子様なら、なんとか出来ると?」
「それが出来るならば、とうに畿内に攻め入っておるわ」
政子は渋面で返した。
政子とて、できるなら清盛と直接雌雄を決したい。
だが、この飢饉を甘く見て上洛すれば、政子ですら破滅しかねないのだ。
「義経は止められんのか?」
「言って止まらぬからこそ、我が主も厄介払いを考えられたので」
吉次の顔は青ざめている。
仕方ない、と、政子はため息をついた。
「わしからも一筆書いてやろう。正直見殺しにしてもよいのだがな……ふん。ヤツらが動かぬ方が面倒がなくてよいわ」
「これは、ありがたいことで!」
政子が素直でない態度で救いの手を差し伸べると、吉次が顔を輝かせて謝辞を述べた。
どう考えても逆効果である。
純粋な善意から、暴走が引き起こされようとしている。
◆
「――お姉さま」
吉次が帰ると、入れ替わるように保子がやってきた。
「おお、保子、白湯をもってきてくれたのか。すまぬな」
保子が持ってきた白湯を受け取り、口にする。
ややぬるめの白湯が、渇いた喉に心地よい。
「美味い」
「喜んでいただけてうれしいですわ」
白湯を作るように命じたのは義時で、作ったのは下働きなのだが、ともかく。
「そういえば、保子、大事な話というのは?」
「はい……それが……」
「言いにくいことか?」
「いえ、その、妹が嫁いだことですし、そろそろわたくしにも、どこか御縁を考えていただければ、と、いう話だったのですけれど」
すこし考えてから、保子はそう言った。
保子は政子の三つ下で二十歳になる。
一族の小さい子供たちの面倒を一手に引き受けていたため、とうが経ってしまっているが、関東の主、北条政子の妹である。引く手数多だろう。
「ほう? 誰がいい?」
「だれ、と申す方は居りませんが……わたくし、以前頼朝様に、自分の側室でなければ、兄弟の誰かに嫁がせたい、と」
「あやつ、わしの保子になんということを言いおるのだ……まあよい。頼朝めの兄弟であれば……おお、ちょうどよい相手が居るではないか!」
不機嫌になった政子は、一転、手を打って喜んだ。
「どなたですの?」
「いま話になっておる源義経よ! あやつを婿にしてこちらに引き込めば、面倒がなくてよいではないか!」
「お姉さまがお望みになるのだから、よい方ですのね。お姉さま、よろしくお願いいたしますわね」
保子が両手をあわせて微笑んだ。
暴走はさらに加速しそうである。
◆
源範頼「……」
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