三十七 頼朝赦免

 嘉応二年、十二月。伊豆国北条屋敷。



「平和だ」



 北条宗時ほうじょうむねときは、しみじみとつぶやいた。

 季節が巻き戻ったかと錯覚するような、温かい日和である。

 こんな日は、平穏無事に日々を送れる素晴らしさを、深く実感する。


 妹の政子が伊豆を出て三年近い。

 その間、いつやらかすかと案ずる日々を送って来た。

 しかし、あの天変地異のような八条院猶子事件以来、とくに問題を起こしたという話は聞かない。

 政子を追って、流人の身で京に向かった源為朝みなもとのためともも、便りこそないものの、京で捕まったとか暴れている、といった報せもないので、大丈夫なのだろう。



「よいことです」



 同席している源頼朝が、じめっとした笑みを浮かべた。


 頼朝はここ数年、北条屋敷に入り浸っている。

 八方に手が回る有能な家人、藤九郎とうくろうを政子の目付けに送り出しているため、生活に不便があるためだろう。


 宗時としては、本当に申し訳なく思う。



「しかし、宗時殿」



 宗時の内心の謝罪に気づかず、頼朝は言葉を続ける。



「――その言葉は、学問書を片手に恐ろしい勢いで書をしたためながら使うものではないと思いますが」



 頼朝の言う通りである。

 穏やかな口調に似合わず、宗時の目と筆は、先ほどから忙しく動いている。


 政子が京から送って来た膨大な量の書物。

 これを要約して、一門の子弟や家来衆に教えるのが、宗時に与えられた仕事のひとつだ。

 書物の内容を、坂東武者ヤンキーが理解できる程度に要約するという、とてつもない難事業なのだが、当の宗時はそれほど辛そうではない。



「慣れましたので」



 慣れとは怖いものである。

 頼朝は、恐ろしいものでも見るような目で、宗時の様子を見ている。



「……宗時殿なら、伊豆の政庁を一人で切り盛りできそうです。私が流人でなければ、喉から手が出るほど欲しい逸材ですよ」


「それは、なによりのお言葉です」



 二人が、そんな会話を交わしていると。



「頼朝様……」



 と、家人が声をかけた。



「なんでしょう?」


「はっ。頼朝様に、京より使者がおいでです」


「使者? 私にですか? はて……」



 思い当たる節が無いのか、頼朝が首をひねった。

 といって、会わないわけにはいかない。宗時も作業を中断して、二人は使者を迎えた。


 都人みやこびとらしい洒脱な身なりの使者だ。

 たがいに挨拶を交わしてから、使者は居ずまいを正して言った。



「院のお言葉である。源頼朝に八条院が猶子北条政子との婚儀を許し、あわせてその罪を赦免することとする、と」



 ――なにやった政子ーっ!?



 宗時は心の中で絶叫した。

 しばらく大人しくしていたかと思えば、これである。

 動揺している間に、使者が正式な書面を読み上げ、頼朝に示す。

 頼朝は、外面こそ平静を保っているが、やはり動揺しているのだろう。応じる声に震えがある。



「し、使者殿。果報に感謝を……お疲れでしょう。酒肴を用意させますので、こちらへ……」



 家人に饗応の準備を指示して、使者を別室に案内し。

 宗時は全力疾走で頼朝の所に戻って来た。



「どうなってるんですか頼朝様!?」


「私も知りませんっ! わかりませんっ!」



 頼朝も全力で頭を抱えている。



「本気で意味がわからない! いや、元凶は政子に違いないけど!」


「間違いありません! あの娘、なんでことごとく私の予測を越えて来るんですか! 御褒美ですかっ!?」



 ひとしきり叫びあうと、二人は肩で息をしながら顔を見合わせる。



「……原因はとにかく、御赦免に関しては、後白河院が手を回したのは間違いありません」



 頭痛を堪えるように、頼朝は頭を押さえる。



「おそらく、現在の平家一強を喜ばぬ院が手を打ったのでしょう。源氏の御曹司である私を手駒にし、八条院と結び付けて強化する……とんでもなく強引な手ですが――まさか政子殿が自ら進言をっ!? 実は私に好意を!?」


「いや、それは無いんじゃないですかね……」



 突っ込むのも野暮かと思ったが、宗時は一応指摘しておいた。


 ともあれ、その日は宴となり、使者とともに、頼朝の赦免を皆で喜びあった。


 だが、喜ばなかった人間も居る。

 政子を公家に嫁がせようと目論んでいた北条時政だ。


 宴席に怒鳴りこみかねない勢いだったのを、宗時がかろうじて離れに引っ張って行ったのだが、時政は止まらない。



「どういうことだ! なんで政子が頼朝ごときと結婚せねばならぬのだ!?」



 えらい言いようである。



「いや、御赦免があったってことは、早晩官位も復帰するでしょ、従五位下ですよ? 雲の上じゃないですか」



 宗時が弁護するが、時政は納得しない。



「だが、政子は女院の猶子ぞ!」


「だから欲かいちゃいけませんて。それに今回の件、後白河院のお声がかりです。頼朝様を、平家をけん制する駒として使うつもりなんでしょうが、だったら将来の出世は確実です。優良物件じゃないですか」



 そう言って、宗時は荒ぶる父をなだめる。



「――それに、頼朝様は平家に対抗する武家として、院に望まれてます。僕たち北条家が、固有の武力を持たない頼朝様の中核武士団として働く……悪い話じゃないと思いますがね?」



 ここまで言って、ようやく時政は「なるほど」とうなずいた。



「どうも、それほど悪い話ではないらしいな。がはは、あの流人めに目をかけてやった甲斐があったというものだわい!」


「父上は頼朝様の恨み雑記帳ノートの常連なんですけどね……」



 宗時が小声でつぶやいたが、時政には聞こえていない。



「しかし、おぬしも頼もしくなったものじゃ。その計算高さ、さすがわしの子じゃわい!」


「僕としちゃ父に似たくはないんだけどね」


「うん? 何か言ったか?」


「いえ。なんでもありません――そりゃ計算高くもなりますよ。政子が八条院の猶子になってからこちら、父上は暴走しっぱなしだし、政子はもうなんというかアレだし……僕がしっかりするしかないじゃないですか」


「ほんとうです。父上は、わたしの話もちっとも聞いてくれないんですよ」



 やれやれ、と、横合いから声をかけてきたのは、八歳になる弟、義時よしときだ。



「ん? 居たのか義時」


「居ました! ずーっと居ましたっ!」



 しっかり者の長男からのあんまりな言葉に、義時は全力で抗議の声をあげた。


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