ふしぎっぎ!! 天狗山編

蔵之介

天狗山編

僕は、特別な用事がない限り、いつも決まった日常を過ごしている。


 毎朝6時30分に起きて、妻の弁当を作る事から僕の一日は始まる。


 7時、夢うつつで寝ぼけまなこの娘を抱いて、妻が起きてくる。

 娘のオムツを妻が替えている間に、僕は僕たちの朝食と娘の朝ごはんを用意する。


 娘の朝ごはんの前に、妻が出勤する。

 僕の作った弁当を持って、僕と娘を食わす為に妻は働く。


 娘の朝ごはんが終わると、娘をしばし教育テレビにお任せして、僕は掃除、洗濯、昼食作りとあくせく動く。


 それから娘が眠くなるまで少し遊ぶ。

 寝相の悪い娘が大人ベッドでゴロゴロするのを横目に見ながら、僕は資格の勉強をする。


 娘が起きると、昼食まで少し遊ぶ。

 休みの次の日の平日は朝から機嫌が悪い。少しでも離れると泣くので付きっきりだ。


 まだ2本しか生えていない歯を上手に使ってもぐもぐ食べる娘の成長を噛みしめながら、めちゃくちゃになった床を掃除して、ようやく僕が昼ごはんを食べる番。


 歌って踊る着ぐるみが殊更お気に入りの娘に、幼児向けのDVDを見せている間に、スマホ片手に昼ごはんを食べる。


 見ているのは、主に巨大掲示板のまとめサイト。

 ジャンルは問わない。

 事件、事故、ゲーム、アニメ、政治、生活。

 目に付いたもの、片っ端から読む。


 この一時間にも満たないほんの僅かな外との繋がりこそが、家に引きこもって育児に明け暮れる僕の唯一の息抜きだった。

 行儀が悪いといつも妻に怒られるけれど、なかなかやめられない。


 ふと、とある記事に目が止まった。




『天狗だけど質問ある?』


 大型掲示板あるあるネタの、◯◯だけど質問ある?シリーズだ。

 僕はこのくだらないスレが好きだったりする。たまに本当の事を書いている人もいるが、大抵は暇人たちを喜ばせるネタだ。

 オカルト的には、幽霊だったり未来人だったり異世界人と様々なバージョンがあるが、今日上がったスレは「天狗」だったので興味深く読ませてもらった。





「天狗」を知っているだろうか。


 古くから日本に民間伝承で伝わる伝説上の妖怪の事だ。人間を魔の道に引き摺り込むとも言われ、地域によっては神と同一視されることもある。

 一般的に山伏の恰好で、赤ら顔で鼻が高く翼があり、空中を飛翔するとされる。

 天狗伝説は日本全国で囁かれていて、その不思議な話に尽きないのはご存知の通りだろう。




 ふと、思い出す。


 僕の話を聞いて貰えないだろうか。

 娘が僕の胸の上で微睡んでいる間に。


 僕の体験した、ちっとも怖くはないけれど、ほんの少し日常から外れたお話を。





【天狗山】




 僕が小学生だった頃、僕はとても大きな市営の団地に住んでいた。


 通称H団地。

 学校区間の東側に、1棟から21棟までズラリと並んだ様子は、幹線道路からも見えて圧巻だ。

 西側にはまた西団地が並んでいるのだけど、5階建てのエレベーターがない団地で、僕の団地よりも後に作られたから白くてとても綺麗で、少し羨ましかった記憶がある。


 僕は東側の団地、13階建てのとても大きな17棟の2階に住んでいた。

 H団地にエレベーターがあるのは、17棟と、19棟から21棟だ。

 18棟は無い。何故なのか、それは大人になった今も分からない。


 その高さは学校校区でも随一で、当時はマンションなんて高層ビルは無かったし、町工場だらけの労働者の町だったので、僕の団地だけが飛び抜けて頭一つ、二つも三つも高くて目立っていた。


 西側の団地は綺麗で憧れていたし、仲の良いオダくんもそこに住んでいたし、学校に近いから朝早く起きなくていいのが何より羨ましかった。

 だけど、僕の団地の13階建てのてっぺんから見える景色は、ほかの何処にも真似できないもので、僕にはそれが少しだけ自慢だった。


 それでも僕は2階に住んでいるので、滅多に上の階には上がらない。

 僕の友達は7階までしかいないので、そこから先は用事がないのだ。

 違うクラスに10階に住む同級生がいるけど、そこは朝から晩まで勉強一家で、子どもの時から東京のすごい大学を目指しているとかで、勉強しない僕たちと話してはいけなかったから当然遊びに行った事はない。




 この日、僕は4階にいた。


 母は僕が学校から帰ってきても、大抵いない。

 パートに行っているからだ。

 鍵はいつも牛乳瓶受けの中に入れておく事になっていたけど、最近空き巣が違う棟で出たとかで、鍵の隠し場所を変えていた。

 新しい隠し場所は、玄関の名札の上か、エレベーター乗り場の郵便受けの中のはずなのに、そのどれにも入っていない。

 母は少し抜けてるところもあるから、鍵を忘れたようだ。

 普段ならランドセルを玄関前に置いて公園なり遊びに行くのだけど、その日に限って僕はうんこに行きたくて仕方がなかった。


 学校でうんこするとバカにされるので、僕は極力家で用を足すようにしている。

 だけどその日は帰りの会からお腹がゴロゴロしていて、泣きそうになりながら家に帰ってきたらこれだ。


 お腹は限界。

 冷や汗が吹き出してきて、まともに頭も動かない。


 僕は意を決して、階段を駆け上がった。

 目指すは4階。

 途中なんども波が来て、その度に叫びながら階段を上る。


 どうか家にいてくれますように!


 目的の家に到着するや否や、ドンドンとドアを叩く。


「おばちゃん!おばちゃん!いる?開けて!」


 お尻を抑えて地団駄してると、カチャリという音。


 あぁ、助かった!


「ユウくん?どうしたと?顔色悪いよ」


 開いたドアから顔を覗かせるおばちゃんに僕は心底ホッとして、弾みでお腹が緩みそうになるのを必死で我慢する。


「おばちゃん!トイレ貸して!お母さんいなくて、僕漏れそう!うんこ、漏れる!!」


 それから僕はおばちゃんの返事も碌に聞かずにトイレに駆け込んで、パンツが大惨事になるのを阻止する事ができた。



 今の時代じゃ考えられないかもしれない。

 隣近所すら、どんな人間が住んでるか分からない希薄な関係が是とされる現代と時代が違うのだ。

 大人なった今だからこそ、近所のガキがうんこに駆け込んでくるあの行為は、とても迷惑だったのだと分かる。おばちゃんに謝りたいがその彼女とはもう会えない。



 お腹がひと段落してトイレから出ると、おばちゃんが僕におやつを用意してくれていた。

 市販の、高いチョコレートのお菓子だ!

 我が家では、お客さんが来てもそんなお菓子はでない。先生の家庭訪問の時に見栄を張って出るくらいだ。

 今と違って昔の先生は、時間が遅ければ訪問先でご飯を食べるし、出されたものも遠慮なく持って帰る。

 あの時はチョコレートが残らないかなと期待したけど、先生は箱ごと持って帰って僕らは一口も食べれなかった。

 その高級なお菓子が、僕の目の前に!


「いただきます!ありがとう、おばちゃん」


 ニコニコとチョコを頬張る僕を真正面に見据えて、おばちゃんは薄っすら笑っていた。



 おばちゃんの年齢は分からない。

 母よりもかなり年上だって事は分かる。

 僕の真上の4階に住んでいて、子どもはいない。

 おじちゃんの顔は見たこともなく、いつも一人のおばちゃんしか僕は知らない。


 変な取り合わせだろう。

 子どものいないおばちゃんと僕に接点はない。

 たまに集団登校の旗持ちをしている姿を見かけるぐらいだ。


 たまに僕がおばちゃんの家に行って、とりとめない話をしてオヤツを食べて家に帰る。

 こんな奇妙な関係がもう数ヶ月も続いている。



 おばちゃんと出会ったきっかけも、母が鍵を置き忘れたからだった。


 雨の日、僕は家にも入れず、かといって外にも出れず暇だった。

 だから、2階から上の階段をひたすら上っては下るといった暇つぶしをしていたのだ。

 流石に13階まで行くのはきついので、真ん中の7階で折り返す。

 何度も何度も往復して、いい加減階段の音が気になったのだろう。

 声を掛けられて家の中に入れてもらったのが始まりだ。


 以来、頻繁に行く事は無いけれど、どうしようもなくなった時に頼る場所が、おばちゃんの家だったのだ。



 おばちゃんの家で、学校がどうだああだと他愛もない話をしながらオヤツを食べる。

 オヤツが終わると、もうやる事がなくなる。

 子どもがいないおばちゃんの家は、ファミコンも漫画もおもちゃも何もないのだ。


 暇になって台所のテーブルで足をプラプラさせてると、おばちゃんがなんだか面白そうな顔をして、僕を手招きした。


「ユウくん、面白い話をしてあげようか?」

「面白い?」

「うん。こっちにおいで」


 手招きされてついて行った場所は、玄関を抜けてすぐのエレベーターホールだった。


 おばちゃんはエレベーターを背にして、外を見ている。転落防止用に、通路の外側の壁は高い。僕は外が見えなくてジャンプしていたら、おばちゃんが何処からかバケツを持ってきた。

 バケツをひっくり返してその上に乗る。

 何とか外が見えた。


 外は、僕が知っている何の変哲もない景色だった。

 いつも見慣れた2階よりは高いので、立ち並ぶ商店街の先まで見えているぐらいだ。


 団地の前に怪獣公園。

 右側にでっかい駐車場、左側に緑広場。

 奥に文房具屋さんと、散髪屋さん。

 公園には小さな子どもたちがたくさん遊んでいる。


 なんの変わり映えもない外。

 これが何だと言うのだろう。


「ユウくん、あの山見える?」


 おばちゃんの声は楽しそうだ。

 まだ僕には面白さは感じない。おばちゃんの見つめる方向に視線を向けて、


 あ、あれか。


 公園も何もかも越えた先、かなり遠くに小さな緑の塊が見える。


 あんなところに森?


 今まで気にした事は無かった。それぐらいどうでもいい情報だったのだ。

 あの辺は妹の保育園がある場所の先だ。

 一戸建てが立ち並ぶ住宅街のど真ん中に、ポツリとその森はあった。


「小さい森でね。小学校の運動場くらいの広さかね」


 森はこんもりと盛り上がっていて、緑がとても濃い。


「あの森は、『天狗山』っち言われとるとよ」


「てんぐやま」


 てんぐ?

 顔にハテナがたくさん浮かんでいたのか、おばちゃんが笑いながら僕の頭を撫でた。


「天狗というのは、神さまさ。この辺を仕切ってる怖わあい神さま。空を飛んで人をさらう。さらわれた人は戻ってこない。あの山に一生閉じ込められる」

「え?」

「山には死んだ人もいれられてる。天狗さまが生きてるのも死んでるのも、一緒くたに入れるんだ」


 いきなり怖いことを言ってきた。

 びっくりしている僕なんかお構いなしに、おばちゃんは話をやめない。


「天狗さまはいつも見張ってる。カラスや夜はコウモリを使ってね」

「コウモリってなに?」

「ユウくんはまだ見たことがないと?コウモリは夕方になるとあの山から飛んでくるんだよ。血を吸うから気をつけんと死んじゃう」

「え!」

「だから子どもは夕方になるとお家に帰らんといかんのよ。コウモリに血を吸われるし、運が悪いと天狗さまに連れていかれる!」


 突然大きな声を出したおばちゃんにビックリして、思わずバケツから足を踏み外してしまった。

 何とか転けずに済んだけど、おばちゃんは僕の方を見ていない。


 凄く怖かった。

 人をさらう天狗さまも怖かったし、見たことないコウモリだって怖かった。だって血を吸うんだ、蚊が吸っただけであんなに痒いのに、どうなってしまうだろうと思ったからだ。

 それに、おばちゃんも怖かった。

 全然面白い話じゃない。なのになんでこんな話を急に、僕に。


「天狗山には色んな動物も住んどるんよ。犬やキツネやタヌキ。猿もいる。夜中に窓を開けて耳をすまして聞いてごらん。色んな声がするから。でも、動物以外の声はいかんとよ」


 それに。


「聞いてるのが天狗さまにバレちゃうと、さらわれるからね。だからほんのちょっとだけ窓を開けて聞くんだよ」


 僕はもう何も喋れなかった。

 何が楽しいのか、おばちゃんはずっと笑っている。


 僕は、この人が天狗さまじゃないかと思い始めた。

 だって、こんな怖い話をあんなに楽しそうに喋る人なんかいない。

 僕の反応を見て、連れて行こうか確かめてるんだ!


 僕はどうにか帰る言い訳を考えた。

 母はまだ帰ってくる時間じゃない。父は論外だ。


 どうしよう。

 さらわれる。

 早く、帰りたい。


「あの森は動くんだ。誰かがさらわれると、場所を変えてまたさらう人を探す。あの山には絶対に近づけんけど、こうやって見ることはできる」


 僕は怖くて怖くて、なのにどうしても森が見たくて、またバケツの上に登った。


 森は静かにそこにある。

 だけど見れば見るほど、不気味に見える。

 あの濃い緑も、隙間さえもない葉っぱも。


 あの中にさらわれた人がいる。

 一生出れなくて、うろうろと出口を探すだけ。

 森は危険な動物と、血を吸うコウモリと、一番怖い天狗さま。


「これは誰かには話したらいけんよ」

「なんで!」

「秘密を話したら、天狗さまの怒りを買ってさらわれちゃうから」

「だったらおばちゃんがさらわれるやん!」


 しかしおばちゃんは何てことはない顔をして、ようやく僕を見た。


「おばちゃんは、天狗さまに会いたいから、ユウくんに秘密を話しちゃった」


 おばちゃんがさらわれる!

 僕が秘密を知ったから!


 どうしよう、どうしよう。



 その時だった。

 怪獣公園の先、スーパーに繋がる道に見知った顔が通ったのだ。


 兄ちゃんだ!


 いつもの悪ガキ大将と珍しく一緒じゃなくて一人。スタスタと団地に向かって歩いてる。


「お兄ちゃあああん!!」


 団地の4階から身を乗り出して、思いっきり叫ぶ。

 団地に僕の声が反響してワンワン鳴っている。兄は僕の声にすぐ気付いて、上を見上げた。

 一生懸命手を振る。


 正直、助かったと思った。

 おばちゃんから逃げる言い訳ができたのだ。


「お兄ちゃん!!」

「うるせー」


 兄が答えた!


「何しとる?鍵は?」

「お母さんが忘れとる!」

「俺が持っとる」

「え!」


 なんと鍵がないのは兄の所為だった。

 出掛けるならいつもの場所に置いとかないといけないのに!

 でもそれを指摘すると返り討ちにされるので、文句は言わないでおこう。

 兄は乱暴なのだ。


 僕はバケツを蹴飛ばすように降り、団地の1階に消えた兄を追って走った。

 おばちゃんにサヨナラの挨拶もせず、階段に向かって一目散に駆ける。


 とにかく、早く帰りたかった。

 おばちゃんがさらわれるかもしれない。でもおばちゃんは本当は天狗さまで、僕を騙しているかもしれない。


 つんのめるように階段に足を掛けた時、おばちゃんの声がした。


「森は動くとよ」


 僕は泣きそうになりながら、階段を駆け下りた。





「団地で叫ぶな、恥ずかしいやろ」


 家に帰り着いた瞬間、兄に殴られた。

 僕は何も悪くないのに怒られて、ついに泣いてしまった。


 嫌な、日だった。




 夕方過ぎ、妹を連れて母が帰ってきた。

 兄に殴られたと告げ口したら怒ってくれた。余計な事をしやがってと、後でまた殴られてしまうのだけど。


 おばちゃんの家でトイレを借りてオヤツを貰った事だけ母に言った。

 母はお礼言っとくねと、鍵を持ち出した兄をまた怒ってくれた。

 天狗さまの話は出来なかった。秘密を漏らして、母がさらわれるのはダメだ。


 だから、ほんの触りだけ聞いた。


「お母さん、天狗ってどんなの?」

「天狗?赤くて鼻が長い人やね」

「何お前、天狗がどしたん?」

「兄ちゃんには聞いてない!お母さんに聞きようと!」


 すると兄が広告の裏の白い紙に、天狗の似顔絵を描き始めた。


 丸い顔に、鼻がビョーンと飛び出していて、ギザギザの葉っぱを持っている。


「なにこれ」

「天狗」


 すると母が参戦してきた。


「違う違う、ほらもっと目が怖い感じ」


 ペンでぐりぐりと目を付け加える。


「少女漫画やん!」

「お母さん、絵が下手」


 なんだかパッチリお目々の可愛らしいのが出来た。

 僕には全然わからない。


「そうだ!ほら、バス停の前のラーメン屋に天狗のお面があったあった」


 ポンと一人で納得して、何処かに電話をかけ始めた。


「あ、お父さん?仕事今日早いやろ?」


 相手は父のようだ。

 毎週水曜日は早く帰ってくる。


「なんか。うん。はいはい。そう、晩御飯、ラーメンでいい?天狗軒、そう。珍しかろ?」


 きっと母は僕と話してる途中でそのラーメン屋を思い浮かべて、舌がもうラーメンになってしまったのだろう。

 あまり贅沢は出来ないけれど、たまに家族揃って外食する事だってあったのだ。


 急の外食に、僕と兄は飛び上がって喜んだ。


 こうして僕の晩御飯はラーメンになった。

 そこで天狗さまが拝めるらしい。

 奇しくもラーメン屋さんの名前が『天狗軒』だと、僕は初めて知った。





 7時過ぎ。

 僕たち家族5人は、行きつけのラーメン屋さんでひたすら麺を啜っている。


 歩いて行ける距離、車の通る道路を渡り、バス停の敷地内に小さなラーメン屋さんがある。

 こじんまりとした作り。カウンターと、テーブルが二つしかない。

 外まで豚骨の匂いがして臭い。

 こってりした豚骨ラーメンしか置いてないが、どうせ僕らはとんこつ以外を選択しない。

 父だけ特別にチャーシュー大盛だ。


『天狗軒』の店名が表すように、厨房とカウンターを仕切る柱の真ん中に、赤いお面が飾ってあった。

 ラーメンを食べながら、母があれが天狗だと教えてくれる。


 赤くて、頰がデコボコした怖い顔だ。

 ギザギザの眉の下に、藪睨みの黒い目。

 口はへの字に曲がっていて、明らかに怒った表情。

 特徴なのはその鼻で、長く先をツンと尖らせている。


 なんて恐ろしい顔をしているんだ。

 おばちゃんの話を思い出して、また怖くなる。

 あの顔をして、空を飛んで問答無用で捕まえてさらうのか。

 太刀打ちできないじゃないか。


「はよ食え」


 天狗さまに目を奪われていると、すでに食べ終わった父が突いてきた。

 油でギトギトの漫画を片手に持っている。

 見ると兄も母も食べ終わっていた。

 僕は家族の中で一番食べるのが遅い。

 僕より小さい妹すら、僕より早いのだ。


 慌ててラーメンをすする。

 もう味なんて分からなくなっていた。

 せっかくの外食が台無しにである。

 僕はおばちゃんを恨んだ。


 帰り道、ふと空を見上げる。

 真っ暗な空。街灯の光に虫が集まっている。

 その中に一際大きな鳥がいる。

 鳥にしては平べったくて虫にしては動きが変だ。


「お母さん…」


 父と並んで歩く母の服を掴んで、それを指差した。

 不気味で、たまに急に下に降りてくるから怖かった。

 すると母は、ちらっと上を見上げて僕にこう言った。


「コウモリやん、血を吸うけん、近づいたらいけんよ」


「え!」


 おばちゃんに聞いた、天狗の見張り役だ!

 夜はこうやって飛んで、時々顔を確かめるように下に降りて、翻弄するように僕らの上を飛ぶ。

 しかも、母までもが血を吸うと言ったのだ。


 おばちゃんは嘘を言ってない!


 おばちゃんは秘密を僕に教えたから、今度は僕を見張ってるんだ!


 なんてことをしてくれたんだと思う。

 何でそんな怖い秘密を僕に喋ったんだ。

 僕が天狗にさらわれたら、おばちゃんの所為だ。




 僕はその日、なかなか寝付けなかった。

 窓をほんの少しだけ開けて、森の声を聞きたい衝動に駆られたのだ。

 聞いちゃいけないのに、どうしても聞きたい。


 僕たちは、和室に布団を4枚並べて寝ている。父だけ、居間に布団を敷いてるからいないけど、窓から妹、僕、兄、母の順で布団は並んでいる。

 僕が夜中に起きてゴソゴソしてたら、もしかすると他の家族も起きちゃうかもしれない。

 万が一、その音を聞いてしまったら。


 僕の所為でさらわれてしまう。


 怖くて、心臓がバクバクする。でも眠い。

 眠くて、欠伸が何度も出る。でも森の声が気になって寝れない。


 たくさん寝返りをうって、ようやく夢の中に入れた時は、もう空は明るくなっていた。



次の日から、僕は学校から帰ると家のある2階ではなく、13階までエレベーターに乗るようになっていた。

 あの森を、見るために。


 13階の景色はそれこそ遠くの町や山々まで見渡せる。ゾクリとする高さだ。

 組合の掃除道具入れからバケツを取り出して上に乗る。

 一番上から見ると、人は棒のようだ。

 ヒュンと落ちる感覚がして、頭からゾワゾワする。


 でも、お陰で森はしっかり見えた。


 森はあの時と変わらず、同じ場所にあった。


 それで良かった。

 それさえ確かめられれば、大丈夫。

 まだ、誰もさらわれてない。


 一通り確認してから、僕はようやく帰路に着く。

 こんな手間になってるのも、全部おばちゃんの所為だった。

 あれからおばちゃんには会ってない。

 話したくもなかった。




 それが起きたのは、僕が13階に上るようになって丁度1週間が経った時だった。


 いつものように、エレベーターに乗り込む。

 知ってる人は僕が2階の住人なのにと思ってるだろうけど、誰も僕を咎めない。

 エレベーターの先頭に立って、到着を待つ。

 この時は少し気軽な面持ちになっていて、あの時感じた恐怖は大分薄れていた。


 バケツを置く。

 ひょっこりと顔を出して森を見る。

 ただ、それだけ。


 それだけなのに。


 


「え!」


 思わず声が出た。


 いつもの場所、いつもの方向。

 森があるのは妹の保育園の向こう側。

 毎日毎日確認したのだ。

 昨日もその前も、森はそこにあった。


 だけど、ないのだ。


 森があった場所は、まるで初めからそうだったかのように住宅が並んでいる。

 こんもり盛り上がって見えなかった森の先は、工場の煙突だった。


「森は、動くんよ。誰かをさらうとね」


 おばちゃんの言葉を思い出す。


 誰かをさらう。

 誰?

 もしかして、おばちゃん!


 僕は居ても立っても居られず、下に降りたエレベーターも待つ余裕もなくて、階段に走った。

 13階から4階まで一気に駆け下りる。

 息も絶え絶え、4階に着いた時は足もガクガクで碌に立てなかったけれど、それでもすがる思いでチャイムを押す。


 ピンポーン


 呑気なチャイムの音。


 耳を澄ます。

 何も聞こえない。


 いない。おばちゃんは何処に行った。


「おばちゃん、おばちゃん!いる?僕だよ、おばちゃん!」


 ドンドンと玄関を叩く。

 けれど、何の音もしない。


 僕はまた走って2階に降りた。

 玄関を開け、靴を脱ごうにも足がもつれてうまくいかない。

 ガタガタやっている僕に気付いた母が台所から顔を出す。


「どしたん?」

「おばちゃん!」

「ん?」

「4階のおばちゃん、見た?」

「ナカムラさん?」


 おばちゃんの名前を初めて知った。

 でもそんな事を僕は知りたいのではない。


「おばちゃん家行ったのに、シーンってしてて!」

「そういえば、最近見らんね。なんであんた、ナカムラさん家に用事?」

「いや、いないならいい!」


 僕はまた外に飛び出した。


 おばちゃんがいない。

 最近、姿がない。

 おばちゃんは本当に、天狗にさらわれた!


 上から見ていたから、森の大体な場所は知っている。

 おばちゃんは森には近づけないと言っていた。本当にそうなのか、確かめないと。


 だって、今度はなのだから!


 森に行くには通学路外に出てしまう。

 先生に見つかりでもしたら大目玉だ。

 信号を一つ渡って、道路沿いを走る。坂を登って、工場を左折。小さな道を進めば妹の保育園だ。保育園を越え、また小さな道を走る。田んぼを二つ越えたら住宅街に出る。

 森は、その一戸建ての家の真ん中にあったはず。


 ぐるぐると辺りを回る。

 自転車に乗ってくれば良かったと後悔する。

 いい加減疲れてきた。


 森はやっぱり無かった。

 森があっただろう場所は、家だった。

 真新しくはない。古い一軒家。

 随分昔から家は建っている。初めから森なんてなかったみたいに。


 行った先におばちゃんを見つけるかもと思った。

 でも、おばちゃんどころか人っ子一人居なかった。


 天狗がおばちゃんをさらった。

 だから森は移動したんだ。

 新たな場所で、また人を森に閉じ込める。僕がこの秘密を誰にも漏らさない限り、僕は大丈夫、大丈夫なんだ。


 見張りに気をつければいい。

 電線のカラスや、夕方のコウモリ。


 夜に森の声を聞かなけれればいい。

 耳を塞いで、何も聞いてないふり。




 サアっと、風が通った。


 僕を真ん中に、強い圧迫感がくる。

 強い風に押され、よろけてしまう。

 目が開けていられなくて、目をしかめた。


 僕はいつのまにか、知らない道に立っていた。


「……」


 怖い…という感情は不思議となかった。

 何処だ?とは思うが、頭の中で此処が森の中なのではとも思っている。


 風に、落ち葉が舞っている。

 僕の足元は、デコボコの石畳。

 両側は、細い木々が生い茂っていた。

 前も後ろも何もなくて、どこまでも道だけが繋がっている。


 僕は立ち止まったままだった。


 ふいに視線を感じた。

 僕の斜め右。上の方からだ。


 するとそこには、得体の知れない何かがじっと僕を見下ろしていた。

 折れそうなほど細い木の枝に、しがみつくようにそれは絡まっている。

 僕はしっかりとそれを見たはずなのに、何故だか姿が曖昧だった。


 人のような形。

 顔は、モザイクがかかっているよう。赤くはなかった。


 それは一瞬の出来事だった。

 数分、いや、数秒だったか。

 次の瞬間には、僕は先程までいた住宅街に立っていた。


 あれは天狗さまだったのか。

 おばちゃんがいう格好でもなく、ラーメン屋さんのお面とも違った。

 だけど、何者かはいたのだ。

 僕を怖がらせるのではなく、ただ僕を見ていただけ。



 帰りは走らず、歩いて家に帰った。

 玄関を開けて靴を脱いでると、母が出てきた。


「ナカムラさん、引っ越したんだって」


 おばちゃんは天狗さまに会いたいと言っていた。

 あの人はさらわれたのではなく、自分から秘密を話して天狗さまの森に行ったのだろう。


「お母さん知らなかったけど、最近ご主人が亡くなったみたいで。実家に帰ったって、ご近所が教えてくれたんよ」

「ふうん」


 僕は鍵がない時の行き場を失った。

 高価なお菓子はもう、食べられなくなった。

 でも、おばちゃんが幸せなら、それでいいと思った。



 その日の夜。

 窓も開けてないのに、外が騒がしかった。

 グギャギャギャとか、ケーンとか、チョギョギョーとか、けたたましい声が鳴り響いている。

 あまりのうるささに、ちっとも眠れない。僕の隣の布団でグースカ寝てる兄を蹴飛ばそうかと思ったぐらいだ。


 森はないのに、森の声がする。


 ほんの少しだけ怖くて。


 ほんの少しだけもうちょっと聞いていたいと思った。




 おばちゃんは、森の中で会いたい人に会えたかな?









「ただいま」


 20時、妻が帰ってきた。

 DVDに夢中な娘は、妻に気づかずはしゃいでいる。


「おかえり。今日のご飯はナスの豚バラ巻きと、ほうれん草目玉焼きだよ」


 僕の一日。

 娘が寝たら、これで終わりだ。






「ついに秘密を暴露っちまったなぁ、やっちまったな、さらわれても知らんぞ」


 半熟タマゴのトロリとした黄身を行儀悪く啜りながら妻が言った。


「じゃあ、森が動くか今度の休みに見に行ってみようか?森ならまだあそこにあるし」


 実はあの森は、あの後、僕が見た場所に出現していたのだ。

 何のことはない。

 初めから森はそこにあり、消えてなどいなかった。

 森には足を踏み入れる事もできる。春になると近所の住人がタケノコ堀りに精を出す、何の変哲もない山だ。


「子どもというのは、ほんとに自分に都合良く物事が見えるんやね。

 強く思い込めばその通りになるんやったら、あたしのクソムカつく上司をその森に閉じ込めて一生出られなくさせちゃるわ」


 妻が言うと、本当にそうやりかねないので、僕はやはり森を案内するのを断念した。



 僕は思う。

 強く思い込めばその通りになるのであれは、大事な人を失って最後に残された時、僕はあの森を思うだろう。



 森を探していた僕を、天狗さまは一瞬だけ森の中を見せてくれたのかもしれない。




 どこまでも続く石畳の先に、愛しい人に会える、いつか必ず行けると場所へ。




 終わり


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