ふしぎっぎ!! 用水路の中の別世界編

蔵之介

用水路の中の別世界

 僕は、特別な用事がない限り、いつも決まった日常を過ごしている。


 毎朝6時30分に起きて、妻の弁当を作る事から僕の一日は始まる。


 7時、夢うつつで寝ぼけまなこの娘を抱いて、妻が起きてくる。

 娘のオムツを妻が替えている間に、僕は僕たちの朝食と娘の朝ごはんを用意する。


 娘の朝ごはんの前に、妻が出勤する。

 僕の作った弁当を持って、僕と娘を食わす為に妻は働く。


 娘の朝ごはんが終わると、娘をしばし教育テレビにお任せして、僕は掃除、洗濯、昼食作りとあくせく動く。


 それから娘が眠くなるまで少し遊ぶ。

 寝相の悪い娘が大人ベッドでゴロゴロするのを横目に見ながら、僕は資格の勉強をする。


 娘が起きると、昼食まで少し遊ぶ。

 今日は一人で遊んでいる。一歳の誕生日に買ったぬいぐるみの耳をひたすらかじってる姿は微笑ましい。


 まだ2本しか生えていない歯を上手に使ってもぐもぐ食べる娘の成長を噛みしめながら、めちゃくちゃになった床を掃除して、ようやく僕が昼ごはんを食べる番。


 歌って踊る着ぐるみが殊更お気に入りの娘に、幼児向けのDVDを見せている間に、スマホ片手に昼ごはんを食べる。


 見ているのは、主に巨大掲示板のまとめサイト。

 ジャンルは問わない。

 事件、事故、ゲーム、アニメ、政治、生活。

 目に付いたもの、片っ端から読む。


 この一時間にも満たないほんの僅かな外との繋がりこそが、家に引きこもって育児に明け暮れる僕の唯一の息抜きだった。

 行儀が悪いといつも妻に怒られるけれど、なかなかやめられない。


 ふと、とある記事に目が止まった。





『異世界へ行く方法』


 ホラーな体験談を集めて載せているまとめサイトの、今一番人気な記事だった。

 最近流行りの異世界モノではなく、これは現実世界のリアルな体験談。

 オカルト界隈では、都市伝説、怖い話、検索してはいけない言葉などのド定番にいつも入っている話題だ。




「異世界へ行く方法」を知っているだろうか。


 何もかも嫌になったり、なんとなく毎日がつまらなかったり、こんな世界に飽き飽きした時に試してみたい『禁断のネットロア』として密かに呼ばれている都市伝説の事だ。

 その方法はかなり具体的で、例えばエレベーターを使う方法が一番知られているが、その他にも、紙を使った方法、電車を使う方法、一種の瞑想法のタットワの技法など、やり方は多岐に渡る。

 異世界から戻ってきた人はいないらしく、それなら何故やり方が語り継がれているか不明なのが実に都市伝説らしい。





 ふと、思い出す。


 僕の話を聞いて貰えないだろうか。

 娘がぬいぐるみに夢中になっている間に。


 僕の体験した、ちっとも怖くはないけれど、ほんの少し日常から外れたお話を。




【用水路の中の別世界】




 僕はどこにでもいるような、ごく普通の小学生だった。


 特別なものはない。とりわけ勉強が出来るわけでも、工作が得意なわけでもない。人より少しだけ足が速いのが唯一の取り柄の、ただの小学生。これが僕だ。


 あれは小学三年生の時だった。


 子どもの頃は、毎日が新発見で、毎日がとても楽しかった。

 目にするものはみな大きくて、知らない事ばかり。大人が素通りする出来事は、子どもにとっては大げさに映る。それはとても新鮮で刺激的で、キラキラと輝いて見えるのだ。


 毎日毎日代わり映えしない通学路も、日々発見の連続だった。何もない時は、何もない事を全力で楽しんだ。

 それは僕の友達も同じだった。


 僕の小学校は、僕の住む団地から20分も歩いた所にある。

 一つだけ車の通る信号を渡る。朝は毎日、警察官が立っている。信号の目の前が交番だからだ。


 信号を渡ると、右手側は川だ。川を挟むコンクリートの塀は僕でも登れる高さだけれど、大人に見つかったらこっぴどく怒られる。

 川の向こうにすでに学校は見えている。

 通学路の途中に、二ヶ所小さな橋があって向こう側に渡れるけれど、踏切のない線路があるので、子どもは近づいてはいけない事になっている。


 川に沿って遠回り。

 左側に一戸建ての家がポツポツある。

 しばらく進んで角の開いていない駄菓子屋を右に曲がると、大きな線路に出る。

 そこは立派な踏切があるので、僕たちは右見て左見て、もう一回右見てから渡る。


 踏切を越えると学校はすぐそこだ。

 学校の周りは田んぼしかない。

 その田んぼを囲むように、小さな川と用水路が張り巡らしてある。

 排水溝のフタを足で蹴るとカンカンと音がする。僕はそれが楽しくて、フタを見つけるたびにカンカン鳴らしながら学校に着く。


 学校の表玄関は来賓と先生専用。

 僕たち生徒の靴箱は裏玄関だ。

 小学校に通う1000人の生徒が一斉に使うので、朝はいつも揉みくちゃにされる。

 せっかく整えた髪も絶対誰かにぐちゃぐちゃにされるのだ。この時間だけは苦手だけれど、3年も通えばすっかり慣れた。


 田んぼと線路と川。

 小学校の周りにはそれしかない。

 とても静かで、時折踏切のカンカン鳴る音が遠くに聞こえるだけの、そんなのどかな学校に僕は通っていたのである。



「用水路の下に何かある」


 そんな噂が教室で騒がれ始めたのは、夏休み間近の蒸し暑い日だった。

 あと2週間ほどで夏休み。みんな浮き足立っていて、やれどこ行こう、いつ遊ぼう、自由研究は何するといった話題で教室は騒がしい。


 僕にこの話が持ち込まれたのは、いつも一緒に遊んでいるオダくんからだった。


 オダくんと僕は通学路が違うので、学校が終わると会う事はない。基本的に子ども達だけで通学路外に出る事はダメと言われている。

 それも上級生になると解禁されるのだが、僕は三年生だったので、先生に見つかって怒られるのも嫌なので、黙って従っていた。


 僕の友達で、いつも一緒にいるのはスポーツ万能で勉強もできるオダくんだ。あと、9棟のアパートに住んでるヤスくん、頭がとってもいいシマっくん、親が外国人のダニの3人がオダくんの取り巻きだ。


 学校の休み時間はいつもオダくんが先頭に立って遊ぶ。

 今日は珍しく教室にいるなと思ったら、こんな事を言い出した。


「六年生が言ってたんだ。学校の前の用水路の下に広場があるんだって」


「ええ?本当?」


 日によく焼けたオダくんは、シュッとしていて女の子にもよくモテる。

 するとヤスくん、ダニもやってきた。


「オダと喋っとったんやけどさ、学校の帰りに行かん?マジらしいぜ」


 通学路が同じなのは、同じ市営住宅のヤスくんだけだ。


「全然暗くならんし、俺もいけるよ」


 顔はどこから見ても外国人なのに、生まれた時から日本にいるダニは、日本語しか喋らない。


「夏休みになったらなかなか会えんやんか?試してみたいけど一人じゃ怖いけん、ユウを誘ったんやけどさ」


 女の子にモテモテで、僕とは違ってカッコいいオダくんが、なぜ僕なんかにいつも構うのか分からなかったが、オダくんはこうやって僕を仲間に入れてくれるのだ。

 用水路の中の事よりも僕はそれが嬉しくて、二言返事でオッケーした。


 六年生がいうその噂とは、ひどく簡単なものだった。


 小学校の周りに張り巡らされた用水路には、所々水を貯めるコンクリートの部屋があって、上からは真っ暗で何も見えないけど、実は小学校よりも広い場所があるのだという。

 そこに行くには、学校に一番近い排水溝から中に入らなければいけないらしい。

 用水路の広い部屋に何があるのかは、自分の目で確かめろと。

 要はそういう事だった。


「探検しようぜ、ユウ!」


 オダくんが言うならそれは本当にあるんだろう。

 僕は暗いところがあまり好きではないけれど、そんな広い場所があるのなら、それはとってもワクワクするような事なんじゃないかと思った。


「いいよ、行こう」


 決行は今日の帰りの時間。

 何が起こると分からないからと、途中から話に入ってきたシマっくんが、給食のパンを取っておけと言ってきた。

 僕は念のため、冷凍ミカンも食べずにランドセルの中に入れておいた。

 お陰で学校が終わった時は、お腹が空いてたまらなかったのだけれど。





 キンコンカンコン


 学校の終わりのチャイムが鳴る。


 本当は直ぐにでも飛び出したいのだけど、人の目を避けたい理由から少し待つ事にした。

 1000人もやり過ごすのはどれだけ時間がかかるだろうか。

 その間、教室で作戦会議を開く。


「目下、一番の問題は排水溝だ」


 難しい言葉でシマっくんが言う。


 そう。

 僕たちが入る排水溝は、学校に一番近い所でないといけない。

 排水溝のフタは、開けられるものと、びっちりハマってるものがある。


「開けられるのはここだ」


 いつか探検したくて、オダくんは前もって調べていたらしい。

 彼の指し示す場所、それを小さな頭が5つ、団子のようになって教室の窓から覗く。


「やばいねえ」


 それはまさに僕たちの教室の真下にあった。

 しかも、表玄関、職員室の真ん前だ。


 ゴクリと喉がなる。

 これは難しいミッションだ!

 帰宅する生徒にも、先生にも見つからず、重い排水溝のフタを開けて、5人全員が中には入る。

 排水溝の中はほふくぜんしんだ!

 すぐに小さい川に出る。チロチロとしか流れてないから渡れる。

 目的の用水路の部屋は、川をまっすぐ行ったすぐのところにある。


 結局、ああだこうだと言っていても、実際に目で見て入って見ないことには何も分からない。

 作戦を立てる途中から、みんなもう行きたくてたまらなくなったのが本音だったけれど。

 僕たちは早速行動に移った。



 時刻はまだ3時過ぎ。空は真っ青に晴れている。


 下駄箱まで全力で走って、競うように靴を履く。

 するとそんな僕たちの様子を見ていた女子が3人、何するの?と近づいてきた。

 シバヤマさんと、ワタナベさん。もう一人の女の子は知らない。オダくんが、近所のユウカちゃんだと紹介してくれた。

 僕の知ってる限り、2人はオダくんの事が好きな女子だ。


 暫し、一緒に行く、女子は連れていかない、先生に言いつけるよと、不毛な言い争いになったが、主にヤスくんだったけど、一度言い出したら聞かないのが女子だ。2人はオダくんもいるから必死だ。

 これ以上騒いでも仕方ないので、連れて行く事にした。

 絶対先生に言わない事、排水溝に入って服が濡れても文句言わない事を条件に。


 8人の大所帯になった僕たちは、列になって下駄箱を出て、先生に見つからないように足早に表に回る。


 一応、曲がり角で2人残って見張り役をする。

 僕たちが排水溝に入ったら、走って合流する作戦だ。



 天気が良い。

 少し、蒸し暑い。

 いつもと違った帰り道の探検。

 普段接しない女子が気さくに声を掛けてくる。


 何もかもがワクワクする。



 ランドセルは邪魔なので、排水溝前の田んぼに隠す。

 女子がオダくんのランドセルの上にわざと荷物を置く。

 きゃあきゃあ言うから、いつ先生に見つからないかヒヤヒヤする。


 先頭はオダくん。

 次に僕。

 見張りはダニとシマっくんだ。

 間に女子が入って、最後がヤスくん。

 ファミコンのパーティみたいで楽しい。


 オダくんと僕とで、排水溝の金網に手を掛ける。

 少し力を入れただけで、僅かにフタが動く。

 オダくんの言った通り、開くフタだ。


「いくぞ!」

「せえの!」


 掛け声と一緒にフタを持ち上げる。

 意外と軽い。

 ヤスくんが中を覗いている。


「乾いてるな、やった」


 排水溝の中はカラカラで、一滴も水が無かった。

 乾いた砂と、濃い苔。

 匂いは土臭い。

 ユウカちゃんが少し嫌そうな顔をしている。


 フタも田んぼに隠して、いざ突入!


 まずオダくんが中に入る。

 すごく狭いらしく、身動きが取れない。


「後ろから入って、後ろに進んだ方がいいかも」


 確かにほふくぜんしんよりは力がいらない。

 オダくんの姿は、完全に中に入るとコンクリートに覆われて見えなくなってしまう。

 小さい川に出るまで、オダくんの無事は分からない。


「はやくいけよ!」


 ヤスくんに乱暴に突かれた。

 気づくと見張り役の2人が既に合流している。

 何のための作戦なんだと思いながら、意を決して中に入る。


 足を入れる。

 中は少しひんやりしている。

 砂を蹴る。コンクリートの端の苔を擦る。

 オダくんは僕の靴が見えてるだろうか。

 暗くて怖い。

 もしこのまま動けなかったらどうしよう。

 もし行き止まりだったら、こんな場所で方向転換なんかできない。


 息が詰まりそうになりながら、なんとか排水溝から這い出る。

 ホッと一息。

 オダくんはもう、小さな川を進んでいる。

 見上げると、すぐ近くにシマっくんがいる。

 女の子の靴が見えてきた。

 パンツを見たとか言われたくないので、オダくんの後を追う。


 小さな川は、田んぼの水を均等に浸すのに使うらしい。

 今は使ってないそれは、チロチロと水が流れるだけ。

 周りがコンクリートに囲まれてるから、覗き込まない限り、僕たちがいることに誰も気づかないだろう。


 滑らないように注意しながら進む。

 遅かったのか、ワタナベさんが追いついてきた。僕の服を掴んでニコニコしている。

 普段女子と喋らないからドキドキする。オダくんが好きなのに、何で僕にピッタリくっついてるんだろう。


 川の終点まで辿り着いた。


「順調やな」


 オダくんはコンクリートの小部屋の柵の中を凝視している。

 暗くて中は全く見えない。


「これ、取れるんかな」


 いつの間にか追い付いたシマっくんが顔を覗かせて言う。

 柵は鉄製であちこち錆びていたけど、しっかりとした作りに見えた。


「大丈夫。ここにほら、開けれる」


 見ると小さな蝶番。

 鍵は掛かってない。


 ギギギと柵の扉を開く。錆びた鉄がボロボロ落ちて川に落ちる。水流がないので落ちたままだ。


 まだ中は暗いが、水はそこから下に落ちているようだ。


 した?


「どれくらい下かな」


 流石のオダくんも躊躇している。

 飛び込むとは想定してなかった。


「怖いよー」


 ついにユウカちゃんが泣き出す。


「今更後に引き返したくねえし」

「怪我したくない」

「そこになにがあると?」


 みんな思ったこと、全部口に出ている。


 僕はふと思い立って、足下にあった小さな石を拾い、上から落としてみた。

 耳を澄まし、音を聞く。

 すると、すぐにカツンという乾いた音が響いた。


「いけそうだよ」

「やるやん、ユウ!」


 改めて僕たちは気合を入れ直す。

 せっかくここまで来たのだ。今更何も確かめもせずに帰るのは勿体ない。


 暗い穴に飛び込むのは本当に勇気が要った。

 だけど、いち早く穴に飛び込んだのは、ヤスくんだった。


 スタンと、靴が地面につく音。

 ここからはヤスくんは見えない。


 その時、ヤスくんの興奮した声がコンクリートの壁に反響して響きまくった。


「おい!はやく来てみろや!!すっげえ!すっげえぞ!」


 僕とオダくんが顔を見合わせる。

 シマっくん、ダニ、ワタナベさん、シバヤマさん、ユウカちゃん。

 一人一人顔を見て、みんな同時にニイと笑った。


「行こう!!」




 僕たちは、穴に消えた。



 果たしてそこには、満面のお花畑があった。



「うわあ!!」


 思わず声に出てしまう。

 ヤスくんの声はコンクリートに反響したのに、僕の声は何にも邪魔されてない。


 それもそのはずだ。


 僕は今、雲一つない真っ青な空の下、太陽さえもない絵の具で塗りたくったような青い色の真下に立っていたからである。


「すごい、本当にあったんや!」


 オダくんも空を見上げて興奮している。

 8人それぞれが、いきなり現れた青に感動している。


 飛び降りた先は、だだっ広い原っぱだった。


 コンクリートの天井は、空に変わった。

 上から見ると数メートル四方の小部屋が、中は遠くに地平線を見るほど広い。

 乾いた地面の音は、緑で覆いつくされた草と、黄色い菜の花で咲き乱れている。


 用水路の中に何かがある。


 上級生の語ったそんな噂は本当だった。


 僕たちは、用水路の中に別の世界を見つけたのである。





 それから僕たちは、思う存分遊んだ。


 女子も男子も入り混じって手繋ぎ鬼したり、どこまで地平線が続いているかかけっこしたり。


 疲れたら女子は花で冠を作って休憩。

 僕たちは給食で取っておいたパンをみんなぬ分け合って食べた。

 今まで食べたどんなものよりも、一番美味しいパンだった。

 オヤツに冷凍ミカンをポケットから出したら、すごいすごいと褒められた。

 丁度、8房あった。

 みんなで食べたミカンも、とても美味しかった。

 ミカンの皮は、その場に捨てた。




 時間も忘れて僕らは原っぱを駆け回った。


「ねえ!いま何時?」


 ワタナベさんの一言で、一気に現実に引き戻される。


「ピアノの時間なんやけど、時計持っとる?5時だったらお母さんに怒られる」


 楽しい時間に水を差されて、僕たちのテンションも下がる。

 でも確かに彼女の言う通りだ。


 ここに入ってどれくらい経ったか分からないが、結構長い時間過ごした気もする。

 僕の家の門限は6時だ。

 それを過ぎたら怒られるどころか晩御飯抜きだ。しかも、父の鉄拳パンチのオマケ付き。

 いやだ!


 残念ながら、僕たちは誰も時計を持っていなかった。

 シマっくんは塾。

 ダニは英語教室。話せないのに。

 オダくんとヤスくんは用事はないけど、ヤスくんの家は僕よりも遠い。

 ワタナベさんはピアノの時間。

 ユウカちゃん家の門限は5時。

 シバヤマさんだけ、まだ遊べるよと呑気な返事。


 小学生だって忙しいのだ。

 僕たちはここに来たらいつでも遊べるのだし、今日はもう帰ろうという話になった。

 もう遊ぶ気にならない。


 こんなだだっ広い原っぱ、天井すら無いのにどうやって帰るか不安になったが、不思議と全員が帰ると思ったからなのか、手を伸ばした先に、僕たちが開けた柵があったのだ。


 オダくんとヤスくんが先に登り、女子を引っ張り上げて、一人、一人と数が減っていく。


 それがとても寂しかった。


 最後は僕だった。

 オダくんの手に掴まりながら、僕は振り返る。


 綺麗な菜の花と柔らかい草の原っぱ。

 青々と美しい空。どこまでも続く地平線。

 僕の捨てたミカンのオレンジが、やけに目立って見えた。


「また、来ようね」

「明日また遊ぼう」

「いいね!」


 柵を潜った時、また振り返った。



 そこは来た時と変わらず、真っ暗だった。



 笑顔でみんなと別れ、ヤスくんと一緒に帰る。

 案の定、結構時間が経っていたようで、空は微かに赤味が差していた。

 この時期は日が高い。とっくに6時は過ぎているのかもしれない。


 ヤスくんと僕はオダくんで繋がった仲だ。乱暴者のヤスくんは少し苦手だった。ヤスくんも、僕と何を話していいか分からないのだろう。

 あの原っぱで散々遊んだ仲なのに、僕たちは無言で帰る。



 家に着いたのは、7時前だった。

 母が冷めた目で怒っただけで、特にお咎めはなかった。

 父が仕事から帰って、母がいつ言いつけるかもうバクバクだったけど、何もなかった。

 僕は色んな意味で疲れてしまって、その日はすぐに寝てしまった。



 また明日、あの原っぱで遊ぶ。

 そんな事を考えながらーーー。






 次の日、僕たちはあの用水路に行く事が出来なかった。


 小学校の入り口の前に、ポン菓子屋さんが来ていたからだ。


 ポン菓子屋さんが来ると、周りはお零れに預かる小学生だらけになる。

 おじさんが機械のお尻を叩くと、ぽん!と凄い音がして、白いお米のお菓子が大量に吹き出してくる。

 その時に、少しだけ試食させてくれるのだ。

 ポン菓子は、小さな袋が500円。大きなゴミ袋に入ったものだと2000円もするのだ。

 そんなお金は持ってない。

 母に何度もねだった事があるが、500円もあれば僕と兄と妹の3人の1週間分のオヤツが作れると、許してくれた事はない。


 大人になって初めてゴミ袋一杯のポン菓子を食べたが、あれは飽きる。あの時買わなくて正解だったが、当時はそれが食べたくて仕方がなかったのを思い出す。


 ポン菓子屋さんは、小学校が夏休みに入るまで、お店を出していた。

 ポン菓子屋さんの前に排水溝の入り口はある。



 僕らは結局、あれから一度もあの素敵な別世界に行けないまま、夏休みを迎えたのである。





 夏休みのある日。

 宿題はとっくにやる気を無くしているし、兄もガキ大将と遊びに行っていない。

 母は絨毯洗いのパートに出ていて、妹は保育園。

 僕は友達との約束がなくて、とても暇だった。


 そして思い立った。

 あの原っぱに行ってみようと。


 あのメンバーの誰の電話番号も知らなかった。連絡簿は母がどこかにやってしまって見つからない。

 仕方ないので、一人で学校まで向かった。


 水筒に麦茶を入れて、カッパえびせんを一掴み、ビニール袋に突っ込んで。全部持っていくと兄に殴られる。




 学校に着く。

 夏休みなのに先生達は職員室にいる。可愛そうだなと思いながら、見つからないように排水溝の入り口を目指す。


 外は暑い。

 汗が何本も僕の額に筋を作る。

 真昼間、太陽が高い。


 あの原っぱは、空があるのに太陽はなかった。なのに明るかった。

 暑くも寒くもなかった不思議な空間。


 外から見ると小さな入り口。

 中は小学校が丸々入ってもあまり余る広さ。


 あそこにどうしても行きたかった。



 あの時と同じように、排水溝のフタを開けて田んぼに隠す。

 水筒が突っかかって通りにくいのを無理やり通る。

 ポケットのカッパえびせんが潰れる音が聞こえる。


 何とかそこを這い出して、コンクリートに囲まれた小さな川へ。

 昨日雨が降ったからか、あの時よりも水が流れている。


 まっすぐ川を走って鉄の柵に着く。

 しゃがんで蝶番を開ける。

 ギギギと、あの時と同じ錆びた音。


 あの時と全く同じ。

 僕は迷いもせずに飛び降りた。

 暗闇の穴の中へ、勢いつけて飛び降りた。


「え…」


 あの時と同じならば、もう地面に足がついてるはずだった。


 僕の足は宙に浮いた。


 もがく。

 何も当たらない。


「ひぃっ!」


 まるでジェットコースターだった。


 一番高いところから、真っ逆さまに落ちる。

 重力に引っ張られて、ちんちんがヒュっとする。

 身体中の毛が逆立つ感覚。


 あの感覚。


 僕は真っ暗な闇の中、いつまでもいつまでも落ちていった。


 なんで。

 どうして。

 あの原っぱはどこ。

 僕はどうなってる?


 怖い。

 痛いのはいやだ。

 怖い。

 死にたくない!


 ぎゅうと目をつぶる。


 用水路の中にはがある。


 その何かが、

 そんな事を考えもしなかった。

 僕たちはあの時、たまたま原っぱの世界に出ただけで。



 今回の世界は…




 ーーー。





 ハッと気づいた。

 長い時間、ひたすら落ちていた僕はいつのまにか地面に立っていた。


 上を見上げる。


 空が見える。

 空と雲と、太陽。


 周りを見渡す。

 コンクリートの壁。

 僕が手を伸ばせば届く狭さ。


 下を向く。

 足首まで水が浸かっている。

 ミカンの皮が、隅の方に浮いている。


「おい、こんなとこで何やってんだ!!」


 突然上から怒号がした。

 驚いて顔を上げる。

 見ると天井のコンクリートの隙間から、麦わら帽子のおじいさんが上から覗きこんでいる。


 状況が理解できない。


 ここは、どこだ?


「排水溝のフタがあると思ったらこんなところにいやがって!」


 その口調からとても怒っているのがわかる。


 失敗したのか?この人に見つかったから。


 ならばあの長い穴は何だったんだ。


 おじいさんが早く出ろと怖いので、僕は柵を越え、川まで出てくる。

 案の定、日に焼けて皺の深いおじいさんが、すごく怖い顔で僕を睨んでいる。


 おじいさんの助けを借りて川から這い出る。


「どこのクラスの誰だ!こんなところに入って危ないやろ!先生に言うから早く名前を言いなさい!」


 やばい。

 先生にバレるのはダメだ。

 先生ならまだいい。

 悪いのは、そこを飛び抜かした後だ。


 脳裏に父の顔が浮かぶ。


 父は遠慮なくぶっ飛ばしてくる。それがなにより怖いのだ。

 大人になった今でも僕は父には頭が上がらない。

 父は具現化された恐怖の塊だ。



 僕は脱兎の如く逃げ出した。

 悪い事をしている自覚はある。だけど、父に知られるよりマシだ。


 遠くにおじいさんの叫び声が聞こえる。


 家まで約20分。

 一度も立ち止まることなく、全力で僕は逃げた。






 あれから一度も排水溝には入っていない。


 あの不思議な世界にも、あれ以来行く事はなかった。


 夏休みが過ぎたら、あの原っぱの話はもう別の話題に変わっていて、僕は新しいゲームの攻略に夢中になっていて、いつしか思い出しもしなくなった。


 だけど、大人なった今、あの綺麗な景色を思い出さずにはいられなくなる時がある。

 そんな時は、近くにある排水溝を覗くのだ。

 排水溝の先、用水路の中にわくわくするような世界が今も広がっているのだろうかと想像しながら。


 異世界へ行く方法を知っているかと聞かれたら、僕は首を振るだろう。

 だけど、異世界の入り口は何処にあるかと聞かれたら、僕は答えるだろう。



 用水路の中にそれはあるよ、と。





 ガチャリ



「ただいま」


 19時40分。妻が帰ってきた。

 娘は眠いのか、ご機嫌斜めだ。


「おかえり。今日のご飯は、豚バラの塩ダレ炒めと、鳥の香草焼きだよ」



 僕の一日。

 娘が寝たらもう終わりだ





「それがホントやったら、一緒に行くツレの、別の世界に行きて〜っつう気持ちが強ければ条件を満たすとか?よくあるやん、想いを一緒にすれば魔王を倒す光のチカラが出るとか、そういうの」


 メインが二つもあってご機嫌な妻が言う。


「違うと思うけど…」


「子どもっつー生き物は、何もかもがおっきく大袈裟に見えて、キラキラしとるやん?用水路の中の一本の花だったり、微かに見える空が、そう見えたのかもしれんね」


 妻はこう見えて、現実主義者だ。




 一人で大人しく遊ぶ娘を見る。

 娘もいつか、僕のような不思議な別世界を見るかもしれない。


 子ども一人一人、違う世界を持っていて、何かをきっかけにそれは体験できる。


 僕はもう行けなくなったあの原っぱは、娘の瞳にはどう映るのだろう。


 僕と同じ、どこまでも続く菜の花畑だといいなと思った。


 だってあの世界は、僕が今まで見た中で、一番綺麗で一番ワクワクした場所だったのだから。




 終わり





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